自分を信じずに、誰を信じるのか(徳島宿プロジェクト)
倉庫暮らしを始めて5日ほど、慣れないせいか熟睡できない日々が続いていたが、引越しの後片付けをしたり、毎日自転車であたりを散策したり、サーフィンに出かけたりと動き回っていたせいか、昨晩は銭湯帰りの缶ビール1本で、強烈な眠気に襲われ、眠気に任せ8時過ぎにベッドに潜り込むことにした。
どれくらい眠ったのだろうか、強烈な喉の渇きで目が覚める。暗がりの中手探りでロフトから降り、流しで水を一杯飲む。灯りをつけると、まだ夜の1時過ぎ。この時間さすがに倉庫は冷えこむので、暖かい布団に再び逃げ込んだのだが、盛りのついた野良猫の叫び声が響き渡り、気になって眠れない。しばらくは寝ようと頑張ったのだが、頑張るほどに目が冴えてくる。ついにこりゃダメだと諦め、タバコに火をつけ外に出てみることにした。
いつの間にか猫たちの鳴き声は消え去っており、聞こえるのは微かなさざなみの音だけ。ふと空を見上げると、そこには満天の星が瞬いていた。こんなに沢山の星を見たのはいつぶりだろうか、夜中に目覚めるのも悪く無い。
深夜に一人、海を見ながらタバコを燻らしていて、ふと思った。
これまでの人生、「人にどう見られているか」を結構気にして生きてきたような。だからといって、元来わがままな性格なので、それが自分の行動を左右するというようなことは無いのだけれど。
相手の言葉遣いや表情、ちょっとした仕草が気になって、あまりよく思われていないのではないかとストレスになる。そんな時は、こっちだって良く思ってる訳じゃ無いからねなんて、変なおあいこ的発想で帳消しにしてきた(笑)。
・・・とはいえ、心の中では結構引きずっていて、モヤモヤした気持ちが続くということも多々あった。逆に褒められていたとしても、なかなか言葉通り受け取れず、居心地が悪くなるなんてことも起こる・・・ほんと何してんだかという感じ。
先日、新聞の書評で「人生相談を哲学する(森岡正博)」という本が紹介されていたのだが、大雑把に集約すると人生相談のほとんどがこの「人にどう見られているか」という問題に行き着くらしい。
他人の評価を気にしないようにするため、他者との距離をおき、ドライに立ち振る舞う。こうして私たちは無条件に人を愛することを忘れ、荒っぽくなり、自分に閉じこもるのだという。
なんか、分かる気がするなと思った。
「どう見られているか」という発想は、自信のない裏返しでもあり、自意識過剰の表れでもある。「自分なんて所詮、大したことないよ」という心持ちと、時代や流行、常識、声高な正義に振り回されることなく、かといって遮断するのでもなく、自分にとって大切なことは何かをニュートラルに考える事が大切なんだろうな。
宿プロジェクトを進めていく中で、自分の作る宿が受け入れられるのだろうかという漠然とした不安もある。この不安もきっと「どう見られているか」と根本は同じ
「自分を信じずに、誰を信じるというのか」
大いなる真理なのだが、これがなかなか難しいんだな。