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「暮らし」が仕事、仕事が「暮らし」

兵庫・徳島の2拠点生活を始めて、まる6年になる。

当初徳島は、親の介護や仕事のストレスから逃れるシェルターとして、月に数日、美味しいものを食べたり、サーフィンをしたり、言わば心の洗濯をするための場所だった。だからというわけではないが、急ぎの仕事を持ち込んでもさっぱり進まなかったし、心が浮かれているせいか、ゆっくり本を読むなんて事もできなかった。

月日は流れ、いつの間にかその立ち位置は逆転。

兵庫は月に数日、映像仕事などの用事を済ませるために向かう場所になっていた。
・・・とはいえ、久しぶりだな〜みたいな感慨が湧く訳でも無いし、当たり前のように日常が始まるのだが、よ〜く考えてみると心持ちはやはり少し違う気がする。

兵庫にあるのは純粋な住まいであり、見ず知らずの人が訪ねてくるという緊張感もワクワク感も無い。そのせいかどうかは分からないが、用事を片づける以外はゴロゴロとソファーに転がっているうちに日が暮れるといった、日曜日のお父さん的な心持ちになっている。本を読んだり、何か文章を書いたりといった集中力も無く、言わば「気の抜けた暮らし」になっているようだ。まあ、「気を抜く」を良い意味に取れば、それだけリラックスできていると言えるのかも知れないが・・・。

宿を始めたというのもあるけれど、徳島にいるときは、掃除・洗濯・炊事を始め、ゴミ出しや植物への水やりなど、暮らしの基本とも言うべき事柄に追われているし、いろんな人が次々と訪ねてくるので、ほどよい緊張感も有り、よく喋るし、よく笑うようになった。

宿というのは、人々が一時的ではあれ、「暮らす場所」。
自分だけが暮らすのとは違って、「暮らし」そのものがより濃密になっている。

「暮らし」が仕事、仕事が「暮らし」

陶芸家の河井寛次郎氏じゃないが、この言葉がとてもしっくりとくる。
60年以上、暮らしにまつわる事のほとんどを母や妻に頼ってきたが、改めて今「暮らし」を味わう楽しさ、喜びを噛みしめている。

それに気づけただけでも、宿を始めて良かったな。


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