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自分でつくる小さな森の暮らし「my forest my home」へ至るまでの話|結果オーライの後付け人生


僕は現在60歳(2024.7.1現在)。信州小諸の森を拠点に、たまに町にも出て仕事をしています。

サラリーマンを23年やって卒業、その後自分でやり始めて14年。今ここに至るまで何があったのかつれづれに書いてみました。


時の流れに合わせ、気がついたとき加筆修正しています。

(※長文なので興味があれば読んでみてください。働き方のヒントになるかもです・・・)

大手電機メーカー販社で22年、行き着いた先

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社会人のスタートは、とある大手電機メーカーの家電販売会社でした。

これといってやりたいこともなく、何となく海外で仕事がしたいのと身近にある製品を扱いたいという理由でした。

配属されたのは関西。それも廃れ行く町の地域家電店(系列店といいます)の担当。海外とは真逆、一気にやる気が失せました。腐っていた感じです。


東京にいる彼女(今の妻)と遠距離恋愛。当時シンデレラエクスプレスと呼ばれた新幹線で月1デートすることだけが生きがいの毎日でした。

そんなある日、転機が訪れます。系列店のIT化を進める全国プロジェクトが立ち上がりました。

「お前が行ってやって来い」

支社長室に呼び出され、関西のリーダーに任命されました。

トップから直々に言い渡されたこと、新しいことが好きなこと、今までに前例がないこと、俄然やる気になりました。

その日から、がむしゃらサラリーマン人生が始まります。

当事者を知らずして何も始まらない。町の電器屋さんとずっぽり付き合いはじめます。

二代目でやる気に満ちた人たちともつながり、共に未来を語りました。


「現場から物事を考える」

今もずっともつ信念は、ここから根付いているようです。

30歳を過ぎた頃、こうした仕事ぶりが認められたのか、本社への異動内示がありました。


「現場の人たちは苦しんでいる。本社に行って絶対変えてやる!」

そんな思いで赴任しました。

本社には、現場を無視して、自分たちの保身、私利私欲のために仕事をしている人たちがたくさんいました。


「現場で困っている人がいるのに、この人たちは何なんだ」

腹が立ちました。

上司に恵まれ仕事がしやすい環境を与えられました。昇格もしてもらいました。

自分が描いていたビジョンを形にするプロジェクトリーダーにもなりました。自分でチームを編成し、新しい部署も立ち上げます。

現場こそ命、全国津々浦々まで想いを伝えるために飛び回りました。賛同いただける人たちも多数出てきました。

その頃できた新制度の幹部候補生にも選ばれました。サラリーマンとして、やりがいに満ちた日々と言えるでしょう。


そんなある日、幹部候補生が一同に会す研修が行われます。この日の出来事でサラリーマン人生が一変します。

研修2日目の朝。当時の社長(CEO)とメンバーが話す場が設けられます。

「会社を良くするためにホンネで話してほしい」

CEOは言いました。

「よし!今こそ伝えよう」

そう腹決めしました。そして現場時代から本部にいたるまで抱え続けた問題意識をぶつけました。

「会社は現場を見ていない。まずそこを変えることが大事」と。

少々生意気ですが、ここまではまっとうだったと記憶します。ただ一つ余計なことを口にしてしまいました。

その原因になっているのは常務だと・・・

常務は次期CEOに内定していた人でした。

「次期トップ批判をした〇〇」

その日から貼られた見えないレッテル。一線から外されました。いろんな部署を転々としました。降格にもなりました。

そして、最後に行き着いた部署。そこには社内でも有名なパワハラ上司が待っていました。

しかも支社のトップです。約1年にわたり、徹底的に抑え込まれました。自暴自棄、お先真っ暗、自殺した方がまし、みたいな状態に追い込まれます。


思い返すと馬鹿みたいな気持ち。人は追い込まれると負のスパイラルに入ってしまいます。

「このままだとだめになる・・・」

行き場を失い、22年勤めた会社を辞することになります。

ベンチャー倒産、ワンマン社長の異質な会社

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次に選んだのはベンチャーの立ち上げメンバーでした。

当時は転職が今ほど普通ではない時代、思ったところが見つからず、苦労したのを思い出します。


朝から晩まで寝る間も惜しんで仕事をしました。自分で考えて動く、結果が全ての世界。

今までと違いやれる範囲が増え、一度くすぶったやる気が再燃します。

企画販促部門の責任者に加え、営業部長も兼務。一匹狼の営業マンをまとめるポジションです。

チームとして動くなんてことに耳を貸さないメンバーたち。そんな中、一人ひとりと丹念に面談もしていきました。

創業して2ヶ月くらいから会社の空気に暗雲が立ち込めてきます。業績が悪い、お金がない。そんな感じです。

それまで社員にいきいきやってほしいとたのしい雰囲気づくりを見せていた社長や役員たちも険しい態度に豹変していきます。

言っていることも二転三転、営業チームにもきびしくあたってきます。

そんな中、数名が会社を去っていきます。

「会社が危ないみたい・・・」

噂が流れるようになりました。

不思議なことが起こります。ネガティブな空気が流れはじめることで、それまでつながりのかけらもなかった営業チームにコミュニケーションが生まれます。


一緒にランチに行くようにもなりました。修羅場をともにした同志のみが得る感覚です。

「一斉解雇」。

会社立ち上げ3ヶ月目の朝礼で全員に言い渡されました。

会社が終わる日、営業チーム全員で最初で最後の飲み会。2次会で行ったビックエコー。おおいに盛り上がったシーン。

ノルマを達成するために個人プレイで動き回っていた営業マンたち。あの夜の一体感は一生忘れることはないでしょう。

その時45歳。転職先もままならず路頭に迷う中、ハローワークに通う毎日を送ります。半年くらい失業した後、何とか一社に滑り込みました。

そこは70歳代の創業社長が取り仕切る30人ほどの中小企業でした。年収はピーク時の半分、ポジションも一担当に。家族を守るためにはやむを得ない選択でした。

この会社は異様でした。事務所で会話する人はいません。仕事はほぼなく、たまにワープロを打ってという感じの作業が来るだけ。

それまで第一線で働いていた自負があります。一日中黙って会社に通う日々にストレスを感じるようになりました。

息がつまるような雰囲気、お昼休みくらいはその場を逃れたいと、家から持参した弁当を持って近所の公園に通うようになりました。

ベンチで一人さみしく食べていると野良犬が寄ってきました。「お前と同じやな、、、」つらい光景を思い出します。

1年経とうとしたとき、社長から地方をまわる担当に命ぜられます。

「これを受けたら一生サラリーマンでうだつの上がらない人生になってしまう・・・」


そう思いました。妻に相談、独立の道を選ぶことにしました。

大手で20年以上、ゼロから立ち上がるベンチャー、古参社長のワンマン中小企業。

「個人と組織」「働くということ」にこだわりと問題意識を強く持つようになりました。

46歳で独立、行き当たりばったりの2年間


会社を辞めてはみたものの、何をするかが決まっていません。これといってやりたいこともありません。

婚活カウンセラー、ヤフオク転売と講座、SNS集客コンサルタント・・・とにかく手あたり次第にいろんなことをやりました。


わからなくなって高額セミナーにも参加。でも何一つものになりません。それもそのはず、自分にとっての軸がないからです。

現実的な問題としてお金がなくなります。バイトをしながら収入を得たりもしました。


独立して2年ほどした頃に自分の柱がないことに気づきます。今さらですよね。

それから自分を掘り下げました。そして何がしたいのか、できることは何なのか考えました。

独立して右往左往したこの経験の裏返しを教えてあげたら役に立つ人がいるのでは・・・


そんな思いで相談対応を開始しました。一人またひとり、相談者が現れました。そんな人たちに寄り添う仕事が始まりました。

やり続けていると周囲に人が集まるようになりました。「仲間のつながりをつくったらいいかも・・・」そんな思いで集まりにしていきます。後にいうコミュニティのもとです。

こうして形になっていったのが「働き方多様化コンサルティング」「働き方多様化を具体化するコミュニティスクール」。




現場経験と知見の積み重ねをもとに講師業もスタートします。




コンサルタントと講師、生業に育てていくことになります。


時間と場所を選ばない働き方へ向かう

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一方で働く場所も二転三転していきます。独立したての頃は、事務所なんかにお金もかけられません。


自宅のリビングで仕事をしていました。当時中学生だった息子が「今日のお客さんは誰だったの?」なんて訊いていたのを思い出します。

1年ほどしてバーチャルオフィスを借りました。お客さまとの面談はルノアール。東京で打合せメッカの喫茶店です。


いつまでも喫茶店ではと会議室がついたレンタルオフィスに移ります。

4年ほどすると、さすが自分のオフィスがほしくなります。池袋駅近のワンルームマンションの一室を借ります。


ワンルームでは手狭になり、駅からは少し離れた2DKに引っ越しました。

ここで2年強やってました。だんだんとオフィスを固定化することに疑問を感じるようになります。


自分でシゴトをしているのに、わざわざ都心まで満員電車に行き来するのはおかしいよなと。

そしてもう少し自宅に近い場所に引っ越しました。この頃から並行して、山の拠点探しがスタートします。


町中のごみごみした中で仕事をするより、自然の中へと志向が変わっていきました。

山の拠点がかたまると同時に、町のオフィスは撤廃。自宅と山を行き来する二拠点ワークが始まりました。

焚き火とコミュニケーションの場づくり

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コンサルタントと講師業をしながら、一方でやり始めたのが焚き火の場づくりです。焚き火との出会いは学生時代にさかのぼります。

野外活動研究会的なサークルに所属していました。日本中の山や海へ出かけました。そこで決まってやっていたのが夜の焚き火。 

焚き火を囲んで少しお酒が入ると、その場にいるメンバーからは日頃きいたことがない話が飛び出します。「えっ?そんなことあったの?」驚く場面がありました。

焚き火のおかげで、みんな素直に自分のことを話していたんですね。その光景が頭の隅っこに焼き付いていました。

僕には、個人と組織、職場のコミュニケーションにこだわりがあります。「みんながホンネで素の自分が出せる場」がつくりたい。ずっと思い続けてきました。

学生時代の焚き火の風景。あの時感じた気持ち。そんな場ができるのは焚き火しかない!


ある日そう感じました。「焚き火コミュニケーション」という言葉を思いついた瞬間です。

主たるシゴトをする傍ら、キャンプ場を借りて焚き火イベントを企画し始めます。


千葉や軽井沢周辺まで足を伸ばした企画、町とタイアップした企画、大手新聞社や旅行会社とのイベントコラボをやったりもしました。

なかでも、都内のキャンプ場で会社帰りにふらっと立ち寄ってお酒を片手にコミュニケーションしてもらう焚き火かたりバーは好評でした。

やっぱり焚き火はフラットな場をつくるのに最適、確信しました。


焚き火の宿の管理人


キャンプ場の一角での運営を続けることに限界を感じるようになってきました。


車に荷物を満載して行き来することの大変さ。夜の数時間のためだけに朝から深夜まで息つく暇もなく作業の連続。重労働の極み。

当たり前のことですが、キャンプ場には他にも人がいて、配慮が要ります。焚き火をする場所も自分では決められません。

早くから予約をとらないといけないし、予約が入っていたら企画すらできません。キャンセル料もかかります。

「いつでも自分が好きなときに自由に焚き火ができる場所がほしい。そこでコミュニケーションの場づくりがしたい」


数年前から漠然と考えていた構想へ向け、具体的に動くときがやってきました。

山林、空き家、その他もろもろ。2017年頃から動き始めます。1年以上かけていろいろと探し回った挙句、行き着いたのがログハウス物件でした。

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裏庭から見渡せる山並みに一目ぼれしました。土地がそんなに広くないなど不足な部分もありました。


でも始めないといつになったらシゴトになるかわからない。ここでやることに決断しました。

※この間の珍道中を書いていると終わりが見えないので、ここでは割愛します。気になる人はこちらをご覧になってください。

https://jmtf.jp/takibi-base/sanrin-riyou/


室内や周囲の施設をDIYしたりしながら、何とか形にしていきます。


素直な自分、そのままの自然体に戻れる場をつくりたい。


いろいろ動いた結果、もう一つの顔をつくることに。それが焚き火の宿の管理人です。


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焚き火の宿では、一軒家の裏庭で焚き火ができるそんな昔ながらの風景を再現していました。この場には毎回いろいろな方にお越しいただきました。

宿泊いただくときはプライベートを重視し、余計な接点をもたないようにする。そんな中、ちょっとした会話をさせていただくこともあります。なかには小さな物語があったり・・・

焚き火の宿を運営すること4年。たくさんの出会いとご縁をいただきました。こんな方に来てほしいなあ・・・という方ともお会いできるようになりました。

心の癒しを得たい。自分と大切な人とだけの時間を静かに過ごしたい。自然と一体となって五感を感じたい・・・いらっしゃった方から多くの学びをいただきました。

森の開拓体験フィールドづくりのスタート


宿運営はとても有意義な時間になりました。ただ当初考えていたのは宿泊施設ではありませんでした。

もっと広くて自由で自然そのままなフィールドで、自分がやってみたいことにどんどんチャレンジできる。

あんなことがやりたい、こんなことがいいかも・・・妄想はおさまるところを知りません。

焚き火の宿を運営する傍ら、少しずつフィールド探しに着手しました。思い返せば、2020年11月の北海道十勝地方が皮切りでした。




世の中を一変した新型コロナ禍中。山梨、長野と対象エリアを変えながら探し続けて1年半。たどり着いた場所が信州小諸です。

初めて訪れた時の様子


人の手が入っていない放置された森林。できるだけ自然の姿を残し、循環できるフィールドをつくりたい。

そんな思いでアラカン夫婦二人で手づくり作業を始めました。

森の開拓、小さな家づくりにハマる

森の開拓


こうして始まった森の開拓。草刈り、木の伐採、土を掘る、根をとる、道をつくる・・・


一つひとつが丹念な作業。そして未経験のことばかり。

森の中でひたすら作業に没頭していると頭の中が真っ白になります。自分の中にはびこっていた余計なものが流されていくようです。

森と町を行き来、繰り返しながら、だんだんと開拓作業そのものにハマっていく自分がいました。

湧き水を汲んでから現地に入る、その後水道を引く、仮設電気を設置する、住まいにする母屋の基礎をつくる・・・

全て生活に必要なインフラです。

毎日が新発見の連続。こんな世界があったのかと驚きの連続。やっていることは人間が生きていくためにシンプルに必要なことばかり。

今まで見えていた人生の景色が一変してきている感覚をもつように。まさに「生きている実感」です。

この実感を今までご縁のあったような人たちにも感じてもらいたい!そして最高の人生を歩みはじめるきっかけをつかんでもらいたい!

だんだんそんな想いにかられるようになりました。そして森の開拓暮らしづくり体験フィールドにできないかという新たな妄想がむくむくと湧き上がります。

「森プラス」というシゴト


フィールド開拓を本格化するには拠点が必要。ここで新たな仕事を始めるには地に足を着けないといけない。

そんな思いで開拓と並行して、森の中の小さな家をつくることにしました。


どうせやるならゼロから自分の手でできることをやってみたい。

たまたま近隣に住んでいた知り合い一級建築士の指導を受けながら、軸組み工法でセルフビルドをスタート。

基礎、土台、床、壁、屋根、内装・・・失敗を重ね、試行錯誤しながら全く知らない世界へ没入していきます。


いつしか大工の世界へハマっていきました。

2024年4月のある日、1年半かけて森の小さな家が住めるように。さらに事務所棟、デッキ、フィールド体験施設へ。まだまだやること満載です。


森の中で暮らしをつくりながら、さらに森と一体になる毎日。

森がもつ懐深い魅力。この森とやりたいことを足し算するとどうなるか?そこにはさまざまな可能性があることに気づきます。

人とコトの可能性をゼロからつくる。僕にとって究極のワクワクです。 

そんなある日、言葉が降りてきました。「森プラス」。


ご縁があった人、森とやりたいことを足し算する。そこから広がる可能性とワクワクを具体化する。


森プラスは、こうして始まりました。



夫婦二人、自分たちのペース。これから先もあれもこれもやりたい妄想だらけ。今まさに現在進行形です。


いつも目の前のことを追い続けて出たとこ勝負。思い返せば全て後付け人生でした。


ま、それもありかと(^^)

noteでは、森プラス体験フィールドでの出来事、森と町の二拠点生活から移住へと進んだリアルな毎日を思いつくまま綴っています。

立ち寄っていただいたあなたにとって、生き方のヒント、元気のもとになればうれしいです。

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