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[読書メモ] 暇と退屈の倫理学

このごろ退屈がしんどいと感じることが増えた気がする。夜遅くに寝ようとするときにしばしば退屈が襲ってくる。それで眠くなってくれればいいのだが退屈を凌ぐためにスマホを見てしまったりして余計眠れなくなる。

そういったしんどさはずっと前からあるのだが、その辛さを「暇」とか「退屈」とかいう言葉で認識してこなかった。去年この本を読んで以降「これは退屈しているんだな」と思うようになった。

でもこの退屈にどう対処すればいいんだっけ?というのを完全に忘れてしまっていたので再読することにした。

問題設定

本書が掲げる問いは次のとおり。まさにいま自分が知りたいことだ。

 なぜ暇は搾取されるのだろうか?それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは暇の中で退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。では、どうすればよいのだろうか?なぜ人は暇の中で退屈してしまうのだろうか?そもそも退屈とは何か?
 こうして、暇の中でどう生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いがあらわれる。<暇と退屈の倫理学>が問いたいのはこの問いである。

p.29

結論

著者は「本書を通読せずに結論だけを読んでもその意味は理解できない」というようなことをはっきり書いているので結論だけ書くのは気が引けるのだが、二度通読した自分自身向けの読書メモとして書いているのだしまあいいだろう。

1. こうしなければならないと思い煩う必要はない

2. 贅沢を取り戻して浪費ができるようにする

3. 動物になる

うむ、確かにこれだけ見ても全然分からんな。

まず、一つ目に関しては著者からの注意書きがある。「あなたはいまのままでいい」とか「あなたはあなたのままでいいとか」「いまのままのあなたを皆が認めるべきだ」とか、そういったことでは断じてなく、むしろその反対でだという。決まった処方箋があるわけではないし、この本の読者は既に自分の頭で考えて自分で変化を起こす最中にいるのだからそれを信じたまえ、ということかな。そういえば、本の途中で「本来性」というものについて論じられている。本来人間はこうであった、もしくは本来こうあるべきだ、というようなことがよく言われるが、この <本来的なもの> は強制的で人間から自由を奪う危険のある概念だ。第一の結論については、こういった <本来的なもの> を想定しなくても自分で考えて進んでいく自由を人間は持っているんだよ、っていうことだと理解した。

二つ目は、消費ではなく浪費ができるようになりなさいということ。要は、食事にしても芸術にしても人との会話にしても学問にしても、それらを楽しめるようにせよと。楽しむためには一定のスキルなりコツなり心構えなりが必要なのでそれを身につけるべし。人間である以上は退屈から完全に逃れることはできない。ならば退屈とその気晴らしが共存する状態(退屈の第二形式)を十分に楽しもう。

三つ目は、たぶん「没頭できるものを見つけよ」に近い意味だと思う。人間は複数の環世界を容易に行き来する能力を身につけてしまったがために、ひとつの対象に意識を留めておくことが難しい。それが退屈の一因でもある。ひとつのものごとに没頭してしまっている状態というのは動物的でもあり、それだけではある意味奴隷状態でもある。でも、何かについて深く思考して没頭しているこのモードを、退屈と気晴らしを楽しんでいる上記のモードとバランスよく組み合わせられたら、結構幸せになれるのかもしれない。

用語

再読するときのために、本書を読み進める上で重要な用語についてその意味を整理しておく。

「暇」と「退屈」

  • 「暇」は何もすることがない時間を指す。これは客観的な条件。

  • 「退屈」は何かをしたいのにできないという気分や感情を指す。これは主観的な状態。

  • 暇と退屈の類型

    • 暇であって退屈でもあるのは暇を生きる術を持たない大衆。

    • 暇であるけど退屈していないのは暇を生きる術を持った有閑階級。

    • 暇がなくて退屈していないのは労働を余儀なくされた労働階級。

    • 暇じゃないのに退屈している人というのもいる。日々の仕事に忙殺されていて暇はないが、昨日と今日を区別するものが何もなくて退屈で、その退屈を消費によって紛らわそうとしている人。

「浪費」と「消費」

  • 「浪費」は必要を超えてモノを受け取ること。浪費はどこかで満足の限界に達する。

  • 「消費」はモノ自体ではなくそれに付与された観念や意味を対象とする。したがって消費は際限なく続けられる。

ハイデガーの三種類の退屈

多くの思想家による暇や退屈に関する考察が紹介されているが、その中で著者の主張の直接的な土台となっているのはハイデガーによる退屈論である。ハイデガーによると退屈には次の三種類がある。

  1. 何かによって退屈させられる(退屈の第一形式)

  2. 何かに際して退屈する(退屈の第二形式)

  3. なんとなく退屈だ(退屈の第三形式)

この分類はいまだにピンときていない。

第一形式は、比較的分かりやすい。駅のホームにいるけど電車が来るのがずっと先で退屈させられるという例で説明されている。興味深いと思ったのは、物にはそれぞれ固有の時間があり、それが主体となる人の固有時間と合わなかったときに <引きとめ> が発生して退屈するという説明。

第二形式は、パーティに参加したことを後から振り返って、自分は退屈していたのだと気づくという例。これが一番分からなかったのだが、第二形式の退屈は人間にとってありふれたものだと書いてあったから、たぶん身近すぎて自分でそれを退屈だと認識していないのだと思う。

第三形式は、もっとも深い退屈であり、退屈に耳を傾けることを強制されている状態。この状態ではもはや気晴らしすら機能しない。このとき人は自分の可能性と向き合うことを余儀なくされる。自分の可能性と向き合うというのはきっととても大変なことなのだ。だからこの深い退屈な時間はものすごくしんんどい。

退屈との付き合い方

さて自分は退屈とどう向き合おうか。

第一形式・第二形式の退屈は、第三形式のもっとも深い退屈から逃れるために生じている。人は自分自身の可能性と真正面から向き合い決断を迫られるという状況にそう易々と耐えられるものではない。

ひとまずは第二形式の退屈を楽しめるようになろうか。何か没頭できるものを探してみるのもいいだろう。そして、第三形式の退屈がやってきたら、それはただの無為な時間ではなくて、自分の可能性と向き合っている時間なのだと考えてみよう。それだけでも前向きな気持ちになれるかもしれないし、もしかすると何か決断することによって実際に前に進めるかもしれない。

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