鈴虫の宴
「たかが虫の音に、大袈裟だな、サヤカは」
彼は呆れながらも、三十分で駆け付けると言い置いて電話を切った。その三十分が、いまとなってはもどかしい。もっと早く助けを求めるべきだった。
数日前、窓の外から鈴虫の鳴く声が聞こえた。
去年に比べて帰省のスケジュールを短縮し、盆の行事を済ませると間もなく、私は母の小言を背に実家を後にした。大学の夏休みはまだ一ヶ月ほどもある。早すぎる帰京は、彼と一緒にいる時間を少しでも多く確保するため。日が暮れてから1DKのアパートへ帰りつき、すべてのドアと窓を開け放って、およそ一週間分の熱気を追い出しにかかったとき、その声を聴いた。
「……鈴虫?」
別に不思議なことではない。アパートの周囲には低木の植え込みがあるし、都内とはいえ郊外だけに緑も多い地区だ。アパートの隣は越してきた時から更地で、いまは夏草が獰猛に生い茂っている。月に一度ほど業者が草を刈っているようだが、とても追い付くものではない。小鳥や昆虫にとっては楽園だろう。
最初に気付いたときは、鳴き声から察するに一匹か二匹程度だった。湧きあがる嫌な予感を押し殺し、「風流なものだ」と自分自身を誤魔化す余裕もあった。だが鈴虫は日ごとに増えていく。しかも爆発的に。数を数えたわけではないが、虫の音の大きさが、量が、規模が、指数関数的に増加している。五日目には騒音のレベルに達した。苦情が出なかったのは、アパートの住人がやはり大学生で、私以外はまだ帰省中だったせいだろう。
不規則な虫の音は十重二十重に合成され、複雑な不協和音を奏で、一部はノイズと化し、人間の声として耳に届くこともあった。
細く、高く、引きつれたような、聴き覚えのある女の声。それは何度か探るように調子や音階を調えながら、やがて言語化した。
「……リョウスケ」
マリエの声だった。
「虫の音の向こうから、リョウスケが語りかけてくるの」
あの頃のマリエは、かなり病んでいた。
元々メンタル面が不安定で、パワースポットやら占いやら環境音楽やらに依存しがちな女子だった。一番のお気に入りは虫の音を特集したCDで、中でも鈴虫の鳴き声に惚れ込んでいた。それが高じて鈴虫の飼育にも手を出し、繁殖と追加購入で数は増え続け、しまいには飼育箱の数が二桁に届き、マンションの部屋は耳を聾さんばかりの虫の音で会話もままならないほどとなった。
おびただしい虫たちが発するノイズの向こうから、リョウスケが語りかけてくると、マリエは言い張るのだ。
リョウスケは、私とマリエが所属するサークルの一年先輩。優しくて話が面白くて容姿も平均以上の、どのサークルにも一人はいる典型的な「憧れの先輩」だった。私とマリエとは同期で、入学して間もなくそのサークルに入った。
「サヤカだけに言うけど、わたし、リョウスケと交際し始めたの。みんなには絶対に内緒だよ」
そうマリエが耳打ちしたのは新歓コンパ直後。それ以降、耳の奥が痒くなるようなのろけ話を毎日聴かされることとなる。そして驚くことに、早くも連休明けには、マリエののろけ話がすべて妄想だったことが明らかとなった。
「じつはマリエに付きまとわれて困ってるんだ」
そんな相談を、私はリョウスケから受けた。
聴くところによると、新歓コンパで親しく話して以来、マリエはリョウスケから好意を持たれていると思い込み、恋人気取りで彼の生活に土足で踏み込んでいったらしい。サークル活動の場でこそ、そんな素振りは見せなかったが、帰り道を待ち伏せしたり、行きつけのカフェに居座ったり、最近ではリョウスケのアパートまで押し掛けるようになったという。付きまとい行為は日に日にエスカレートしている。何度か相談を受けるたび、私はリョウスケにこうアドバイスした。
「先輩は優しすぎるんです。迷惑ならはっきり拒絶したほうが、マリエのためにもなります」
リョウスケは実行したらしい。
拒絶されて妄想のよりどころを失ったマリエは、鳴き交わす鈴虫の向こうから届く(と彼女が言い張る)リョウスケの声にすがった。
「虫の音の向こうから、リョウスケが語りかけてくるの」
などと言って恍惚とした表情を浮かべてはみても、秋も深まれば頼みの綱の鈴虫も死に絶えてしまうことは、マリエが一番よくわかっている。
リョウスケはおろか、鈴虫さえ目の前から消え去る前に、彼女は自分が消え去ることを選択した。
バスルームのドアノブに巻き付けたタオルで首を括ったのだ。なぜか一糸まとわぬ裸体で。
死体を発見したのは私だった。
夏休みも残りわずかとなった、あの日。実家から戻ったその足で、田舎の土産を手にマリエのマンションを訪れた。鈴虫の世話で帰郷出来ないと聞いていたので、部屋にいるはずだった。しかし、何度チャイムを鳴らしても応答がない。ドアノブに手をかけると、鍵は開いていた。ドアを開くと、おびただしい鈴虫の鳴き声に圧倒される。間接照明が灯り、空調も最低限機能する室内は、湿った土の匂いと青臭さ、そして古くなった干物の臭気が充満していた。鈴虫は雑食のため、野菜の他に動物性たんぱく質を与えないと共食いするらしい。マリエは無農薬のキュウリや長崎産のアゴ煮干しを取り寄せては、かいがいしく愛する虫たちに与えていた。
部屋に足を踏み入れるとすぐ、異変が目に飛び込んでくる。室内は荒らされていた。とくに鈴虫の飼育箱が顕著で、見る限りすべてが引っくり返され、中身が床にぶちまけられている。その奥、バスルームのドアにもたれ、マリエのなれの果てがいた。いや、しばらく彼女とは気付かなかった。黒っぽい座椅子かなにかが、ドアに立てかけられているのかと思っていた。
それは、人間の色をしていなかった。
マリエの死体には、鈴虫がビッシリたかっていた。
一一〇番へ通報したり、駆け付けた警察官へ事情を説明したり、警察署に連れていかれて同じことを何度も聴かれたりして、帰宅したのは夜も更けてから。マリエの部屋に響いていた虫の音が、まだ耳に残っているようで不快だった。荷物の整理をしようとバッグを開けた瞬間、全身に鳥肌が立った。
荷物の隙間で、十数匹の鈴虫が蠢いている。
マリエの部屋で紛れ込んだのだろう。マリエが育てた鈴虫。マリエの死体を食らった鈴虫。
私は思わずバッグを掴んで、開け放った窓の外へ中身をぶちまけた。
それが、およそ一年前のこと。
私は致命的なミスをした。鈴虫が潜んだバッグの中にありったけの殺虫剤を吹き付け、一匹残らず殺しておくべきだった――後悔しても、もう遅い。窓から放たれた鈴虫たちは、植え込みや隣の更地で生き延び、交配して産卵し、冬を越し、爆発的に増殖した。そして現在、盛大に勝どきを上げてアパートを包囲している。
不意に部屋のドアが叩かれた。
「サヤカ、僕だ。大丈夫かい?」
彼だ。本当に三十分で駆け付けてくれた。飛び付くようにドアを開け、彼を迎え入れる。
「リョウスケさん!」
マリエの付きまとい行為について相談し合ううち、私とリョウスケの間には、サークルの先輩後輩を超えた信頼が構成されていった。マリエの死後、二人が男女の関係になるのに、さほど時間はかからななかった。
玄関に滑り込んで後ろ手にドアを閉めると、リョウスケは私を抱き寄せ、唇を吸った。「虫の音が怖い」と電話したのは、急に抱かれたくなった言い訳とでも解釈したのだろう。リョウスケがそう考えたなら、それでもよかった。とにかく、虫の音に包囲されたこの部屋で独りすごすのは耐えられない。全身の緊張を解き、彼に身を任せようとした、そのとき……。
「イテッ!」
片手で首筋を押さえたリョウスケが、弾かれたように身体を離す。首筋からは一筋の血。手のひらには、黒っぽい小さな虫が潰されていた。
「これ……鈴虫?」
突然、部屋中に虫の音が、大音量で響いた。
「そんな、窓は閉め切ったはずなのに……」
「外から聞こえるんじゃない。これ、部屋の中で鳴いてるぞ!」
二人で部屋中を見回す。一匹たりとも虫の姿は確認できない。だが少しも安心はできなかった。キッチンの裏、ベッドの下、本棚の奥――ヤツらが百匹単位で潜むことができる隙間はいくらでもある。
そうしている間にも不規則な虫の音は十重二十重に合成され、複雑な不協和音を奏で、一部はノイズと化し、人間の声として耳に届いた。
「ユルサナイ……」
細く、高く、引きつれたような、聴き覚えのある女の声。
「この声……マリエ?」
リョウスケが力なく呟く。彼にも同じように聞こえたらしい。気の迷いや幻聴の類ではなかった。自分の精神が破たんしたせいではないと分かって、少しだけ安堵した。だが、私のそんな思いとは裏腹に、リョウスケは血の気の引いた表情で振り向くと、怒りを含んだ声を投げかけた。
「どういうつもりだサヤカ。わざわざ呼び付けて、こんな声を聴かせて……いったい何を企んでいる?」
言いながら数歩後ずさると彼は、踵を返して玄関へ走り、踏みつけるように靴を履いて部屋を出た。
「待ってリョウスケさん、誤解よ……」
追いすがる私の目の前で、無情にもドアが閉ざされる。直後、虫の音の嵐を裂いて、リョウスケの絶叫が響いた。
「やめろ……来るな……許してくれ……マリエ!」
ドアごしに叫ぶリョウスケの声に反応して、虫の音が沸騰する。もう、外で鳴いているのか中で鳴いているのかも区別はつかない。鈴虫の声は再び、マリエの声を合成し、人の言葉を奏でた。
「……ニガサナイ」
ドアを隔てて、リョウスケの悲鳴はまだ続いていた。
了