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帰れない病院

 完全に出口を見失った。

 ヤツはまだ、しつこく追ってくる。サイレンのような、長く尾を引く雄叫びを上げて。

 首を上下左右に激しく振動させ、中途半端に伸びた白髪頭を振り乱す。動作のせいか、元々そうなのかを確かめる術はないが、目も、鼻も、口も、グチャグチャで顔の判別がつかない。

 破れた白衣に、汚れたパジャマのズボンという姿は、医者とも患者とも区別がつかない。

 かろうじて、この廃墟がかつて病院だったと推測できる程度だ。

 LEDライトの揺れる明かりを頼りに、ストレッチャーや車椅子の残骸が散乱する暗い廊下を、もうどれほど走り続けただろう。

 僕も、そして前を走る三人も、とっくに息が切れていた。

「いい加減にしろよ化け物……ぶち殺すぞ!」

 テルキが声を震わせて毒づいた。逃げ腰でも罵倒の言葉は忘れない。いつものことだ。

「まだ逃げ道見つからないのか……もっと頭使えよ、ケンジ!」

 ヒロヤが自分を棚に上げて僕を責める。いつものことだ。

「どうしてアタシがこんなメに遭わなきゃなんないの? 何も悪いことしてないのに!」

 世界一不幸な女になり切ってイズミが嘆く。いつものことだ。

 先頭を走るテルキが、突き当たりの階段を駆け上がった。さっきも階段を上った気がする。上へ上へと追い詰められているようで、嫌な予感がする。嫌な予感に限って当たるのも、いつものことだった。

 階段を上り切ってしばらく進むと右手に半開きのドア。テルキが体当たりするように室内へ転がり込む。追われている最中、閉鎖空間へ逃げ込むのは危険だったが、もう体力の限界だった。リスクを取っても息を整える必要がある。ヒロヤに続いて部屋へ駆けこんだイズミが、後続する僕の存在を忘れたか、叩きつけるようにドアを閉じた。危うく僕の顔面を直撃するところだったが、間一髪両の手のひらで受け止め、室内へ滑り込むと後ろ手にそっとドアを閉じる。舌打ちが聞こえたが、多分気のせいだろう。

 薄暗い室内は、カーテンで仕切られたベッドが十床ほど並んだ病室。ドアごしに耳をすませば、サイレンのような雄叫びを響かせ、ヤツがドタドタと通り過ぎていく。

 とりあえず、やり過ごした。

 全員が大きなため息をつく。束の間安堵した反動か、イズミが駄々をこねるように泣き喚いた。

「もうヤダ。どうしてこんなことになっちゃったのよ!」

 誰も、答えなかった。誰もが、分かり切っていた。



「総合病院跡へ肝試しに行こうぜ」

 放課後、テルキがそう切り出した。

 総合病院跡は、僕たちの住む街にある廃病院。廃墟マニアの間で人気のある物件だったが、過去に何度か死亡事故も発生しており、いつしか心霊スポットとしても有名になった。

「総合病院跡ってたしか、最近も人が死ぬ事故なかった?」

 イズミの質問にヒロヤが答える。

「ああ。隣町の高校の生徒な。半月ぐらい前、五人一緒に廃病院の中庭で死んでたらしい」

 被害者は僕たちと同じ、高校二年生だったと聴く。死体を発見したのも、同じ学校の友人たちらしい。登校すると、同じクラスの五人が揃って行方をくらまし、騒ぎになっていた。そういえば彼らは前日、総合病院跡へ行く話をしていた。あんな場所で夜を明かすとは思えないが、念のため友達と連れ立って廃病院へ確認に赴いたところ、中庭で変わり果てたクラスメイトを発見したという。

「やめた方がいいって。噂どおりあそこは呪われた廃病院だよ。洒落にならない心霊スポットなんだよ」

 説得する僕の頭を、テルキが平手ではたいた。

「ビビってんじゃねーよケンジ、テメエ相変わらず腰抜けだな」

「だいたい、呪いとか霊とか非科学的なんだよ。頭わりーなケンジ」

 ヒロヤが僕を鼻で笑う。その様子を見ていたイズミが手を叩いて笑う。

「ちょーウケるんですけど」

 テルキもヒロヤもイズミに気がある。だから二人とも競うように、僕を蔑んでは自分の優位性を主張するのだ。一年生の頃、僕は中学から一緒だった友達のグループにいたが、二年生になってからテルキやヒロヤとつるむようになった。そうすれば、イズミのそばにいることができる。それで満足だった。バカにされたり、パシリに使われるけど、それぐらいなんでもなかった。

「それにしても納得いかねー事件だよな」テルキがしきりに首を傾げる。「新聞でもニュースでもネットでも、事故死の一点張りで、詳しい死因には触れてねーだろ」

「それは俺も気になってたんだ。まあ肝試しじゃなくて、現地調査だったら行ってもいいかな」

 ヒロヤの尻馬に乗って、イズミがはしゃぐ。

「アタシたちで事件の真相つかんじゃったりして。テンション上がるんですけどー!」

 それが、発端だった。

 


 しばらく病室に籠っていたが、ヤツが戻ってくる気配はない。

「いい加減に出口見つけて帰るとしようぜ」

 テルキの提案に反論はなく、僕たちは恐る恐る病室を出ると、ヤツが立ち去った反対方向へ進んだ。

「このままだと上へ追い詰められる。今度階段があったら下へ……」

 僕の提案を、ヒロヤの叱責が遮った。

「おまえに言われなくても分かってる!」

「だったらケンジ、その階段を探してくれよ」

 テルキに襟首をつかまれ、僕は先頭に立たされた。

「ところでヒロヤ、さっき何か言いかけたよな?」

 背後でテルキがヒロヤに問いかける。

「ああ、死体の発見者の一人が、俺の友達だったって話?」

 そうだった。病院内の探索を開始して間もなく、そんな話をしていたとき、ヤツに遭遇したのだ。ヒロヤが話を続けた。

「そいつ俺と同じ塾に通ってて、詳しい話を聴くことができたんだ。中庭では確かに五人が死んでいた。四人はクラスメイトと確認したが、もう一人は見ず知らずのオッサンだった。しかもそいつだけ、どう見ても腐りかけていて、死んでから相当時間がたってたらしい」

「何ソレ、じゃあ高校生の一人は、いまだに行方知れずってこと?」

 イズミの声が不安そうに震わせたが、僕の不安は少しだけ薄らいだ。前方に階段を発見したのだ。思わず走り寄って、階段を下りかけ、僕たちは脚を止めた。

 踊り場にヤツが立っていた。

 破れた白衣と、汚れたパジャマのズボン。髪を乱し、頭部を激しく震わせ、僕たちとの再会を喜ぶようにサイレンの雄叫びを発した。

 無我夢中で身を翻し、走り出す。また階段を上っている。僕は最後尾となった。よほど慌てたか、前を走るイズミが壁に立てかけられた点滴台を倒した。それにつまずて転びそうになったが、なんとか体勢を立て直して後に続く。また、舌打ちを聴いた気がした。

 踊り場を回り込むと前方にドアが見えた。テルキとヒロヤが体当たりするようにドアを抜ける。しかしイズミは不意に立ち止まると振り向いて、戸惑う僕を突き飛ばした。一瞬体が宙に浮く。階段を転げ落ちる直前で手すりをつかみ、かろうじて転落を免れた。体重を預けた手のひらが焼けるように痛んだ。呆然と見上げる僕に、イズミがあからさまな舌打ちを投げつける。

「ねえケンジ、あの化け物の生贄になってよ。あんたがアイツに襲われてくれれば、その隙にアタシたち逃げられるし」

「そんな……」

「いい加減空気読めよ。テメエはその程度の利用価値しかねーんだよ!」

 踵を返すと、イズミはドアから出ていった。イズミの言う通りかもしれない。僕が犠牲になれば、彼女は逃げ出すチャンスに恵まれる。思いつめている間にも、背後でヤツの雄叫びと足音は迫ってくる。

 恐怖を前にして理性は本能に勝てなかった。

 僕は身を起こし、走り出す。

 ドアを抜けると、視界いっぱいに暮れかけた空が広がった。屋上だ。かつては周囲を覆っていたと思しきフェンスは朽ち果て、支柱だけが屋上の縁に等間隔で立っている。その一本にすがるように、テルキとヒロヤとイズミが肩を寄せ合い、逃げ場をなくして震えていた。僕の背後からは階段を駆け上るヤツの足音と、雄叫び。

「追い詰められた……結局、逃げられなかった」

 よろめいた僕の腰に何かが触れた――大型の室外機が並んでいる――僕は咄嗟に、その陰にうずくまって身を隠した。

 雄叫びと足音が夕空にこだました。ヤツが屋上へ出たのだ。

 屋上の縁で三人が悲鳴を上げる。足音は僕の隠れる室外機を通りすぎた。イズミと、ヒロヤと、テルキの順に悲鳴は遠ざかり、やがて地を打つ鈍い音が三つ響く。ようやく顔を上げると、三人の友人が姿を消していた。屋上の縁では、ヤツが夕空を背景に、誇ってか嘆いてか両手を天にかざし、サイレンの雄叫びを上げている。

 僕は無我夢中でダッシュし、ヤツの背中へ体当たりした。ヤツは一瞬宙を泳いだが、すぐ引力に捕まって、屋上の縁で尻もちをつく僕の視界から消えた。

 四つん這いのまま見下ろすと、遥か下界に中庭が広がり、テルキとヒロヤとイズミ、そしてヤツが倒れていた。周囲に散らばる枯れた花束は、半月前に謎の死を遂げた高校生たちに手向けられたものだろう。早すぎる弔いにも見えて、どこか滑稽だった。

 僕は生き延びた――勝った。

 もう追手はいない。僕は時々眠りながら、ゆっくりと出口を探し続けた。頭がぼんやりして、時間の感覚が曖昧だった。何時間、いや何日間、病院内をさまよっただろうか。そもそも、この病院はそんなに広かっただろうか。

 やがて行く手の闇に、ライトの明かりがいくつか動いた。

「ケンジ、どこだ?」

「返事をしてくれ!」

 テルキやヒロヤとつるむ前、一年生のときに仲がよかった、友人たちの声。助けに来てくれたのだ。僕は彼らの名を呼んだが、舌がもつれてうめき声しか出なかった。それでも気付いてくれたらしく、ライトが僕を照らす。

 なぜか、友人たちは悲鳴を上げた。

「ばっ、化け物!」

「くっ、来るな!」

 逃げ出す友人たちを僕は全力で追いかけた。いつ着替えたのだろう。破れた白衣と、汚れたパジャマのズボンがはためいた。

「逃げないでくれ、お願いだ、助けてくれ!」

 そう言ったつもりだったが、喉から絞り出された声は、サイレンのような雄叫びだった。


#短編小説 #ホラー

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