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「自由」という「拘束」

「自由」と聞くと、多くの人々がその言葉に寄せる期待と希望は計り知れないものがあります。一般的には、束縛や制約からの解放、選択の自由、行動の自由といったポジティブなイメージが先行します。しかし、私たちはしばしば見落としがちですが、この広く求められる価値は、実際には内面的な葛藤や不安、さらには予期せぬ心理的拘束を生み出す可能性があります。仕事や社会生活における「自由の追求」は、多くの場合、時間や行動に対する外部からの制約を指す一方で、その果てに得られる「自由」がもたらす内面的な挑戦は、意外にも重くのしかかることがあります。このコラムでは、そうした「自由」の二面性に光を当て、私たちが日常的に直面する自由の理想と現実とのギャップについて考察を深めていきます。

「自由」を求める心は、多くの人々にとって普遍的な願望です。特に、仕事という枠組みの中で感じるこの願望は、会社や組織に属することで「自由」が制限されたような感覚に陥ることがあります。しかし、皮肉なことに、組織から離れ「自由」を掴んだとしても、不安や心のモヤモヤを感じることが少なくありません。心身条件反射療法(PCRT)で体調不良に関係する心の信号を探索していると、「自由」に関わる心の動きが関係することは少なくはありません。そこで「自由」とは何かについて話を進めていきたいと思います。

「自由」に関係するキーワードとして、「責任」や「主体性」という側面が深く関わっています。仕事における時間や行動の制限を経験すると、多くの人々は「自由がない」と感じがちですが、本当にそうでしょうか?ここには、「認知の歪み」が隠れているかもしれません。「自由」という概念は、多くの場合、何も拘束がない状態で、希望や解放の象徴として捉えられます。しかし、そこには様々な思い込みや先入観によって、「自由」という概念自体に縛られてしまっていることも少なくはありません。

「自由」に縛られる人

実際には、「自由」という追求が人々に新たな束縛をもたらすこともあるというのは、深みのある観点です。例えば、先日、頭痛で来院された患者さんに対してPCRTの認知調整法で原因となる無意識的な心の信号を探索していると、「恐怖」に関わる無意識的な心の動きが関係していました。その内容は、ある大きなプロジェクトを終えた段階で、休暇を取り、バケーションを過ごしていたひと時のことだったそうです。患者さんは、「このような自由なバケーション(休暇)は、今度はいつ取れるのだろうか・・・」という不安が、ふと心に浮かんだということでした。

普通に考えて、「仕事をする限り、自由はなくなるよね・・・」というような短絡的な解釈が生まれやすいと思います。しかし、その患者さんの事例では、もっと深い意味で心が揺れ動いている様子でした。読者の方々も人生のどこかでそのような経験はあるのではないでしょうか?私も米国での留学生活を追想すると、過酷な試験中は休暇を切望していたにも関わらず、いざ、休暇に入ると心にぽっかり穴が空いたような別の意味でのモヤモヤ感があったのを思い出します。もちろん、成績の心配もしていましたが、それとは別の心の空虚感が漂っていたように思います。

しばらく通院してくださっているその患者さんは、思考を深めるタイプの方でしたので、術者(筆者)が更なる深掘りをして誤作動反応の所在を探索していきました。その深掘りするための質問は「もしも、お金も時間も自由に使えるという前提で、毎日がバケーション状態だったらどうでしょうか?」という質問に対して、患者さんは「それはいいですね・・」と最初は言いながらも、生体反応検査で反応を検査してみると、生体が無意識的に誤作動反応を引き起こしているというのが分かりました。

つまり、意識ではその状態を望んでいても、無意識的にその状態に違和感を感じ、心がモヤモヤして不安を引き起こしている状態であるということが心身相関的に推測することができました。分かりやすく言えば、人はしばしば自由を理想化する一方で、実際に自由を得た際にはその自由をどのように使うべきか、どのように自分の時間を管理するべきかについてのプレッシャーや不安を感じることがあるということです。人は意外にも他者に時間や行動を管理してもらった方が安心する側面があるといえます。

それはなぜでしょうか?「自由」とは、「責任」と密接に関連しています。自由を得ることは、自己決定の機会を増やすことを意味しますが、それは同時に自己の行動に対する責任を負うことも意味します。自由を持つことは、自己の選択により積極的に自己の人生を形作る「主体性」を持つことを要求されるのです。多くの人々は、義務教育から始まって、高校、大学、社会人と、「大きな組織」に属すことを当たり前のように生きてきました。

例えば、家族という「檻」で生活する犬や猫などのペットたちも、野生へ戻れば「自由」を得られますが、「檻」から解放されて、「野生」という「自由」に戻されても、今までの生活習慣からすると、その「自由」には不安や恐怖が伴います。人間も、組織から離れて得た「自由」が、予期せぬ不安を生むことは珍しくありません。これらの例から、「自由」の捉え方一つで心の状態は大きく変わります。

「野生」に戻れば、自由ではありますが、自己の判断と責任で生きていかなくてはなりません。判断が間違っていれば命取りです。同様に、人間社会においても、自由を得たいがために組織を離れることを選択する人が多い一方で、組織を離れて自由を得た際に、別の意味の不安を感じるということは少なくはないようです。このように「自由」という解釈をどのようにするのかで、自己矛盾などの心のモヤモヤ感に影響を与えるのだと思います。

一般的に時間的な制限や行動の制限だけで、「自由がない・・」となりがちですが、本来は人の心は誰にも制限することはできません。心を制限するか否かは究極的に自分自身にかかっています。第二次大戦中に起こったアウシュビッツ収容所の悲劇の中で、過酷な労働や強制の中で生き延びてきた人たちがいますが、想像を超えるような身体的、行動的な過酷な制限の中でさえても、自己の心の自由は保ち続けたのかもしれません。このような事例は、「自由」という概念が私たちの内面にどのように作用するかを明らかにするものです。

自由の概念は、文化や時代を通じて多様な解釈を受けてきました。古代ギリシャでは、自由は市民の権利と公共の場に参加する能力として理解されていましたが、これは一部の特権階級に限られたものでした。中世ヨーロッパでは、自由はしばしば宗教的な文脈で捉えられ、天の意志に従うことが真の自由とされました。近代に入ると、啓蒙思想家たちは理性と個人の権利を重んじ、自由を個人の自治と自己決定の能力として強調しました。

一方、20世紀の社会主義国では、集団の利益と社会的平等が自由の重要な側面とされ、個人主義的な自由観に対する批判がなされました。このように、自由はその時々の社会構造、政治体制、経済システム、そして共通の価値観によって異なる意味を持ち、それぞれの文化や時代における人々の生活や思想に深く影響を与えてきました。これらの歴史的な流れを踏まえると、自由に対する現代の理解も、未来に向けてさらに進化し続けることが予想されます。

今回のコラムを通じて、我々は「自由」の本質とそれが個々の人の心にもたらす影響について深く掘り下げてきました。「自由」という言葉は多くの場合、ポジティブな響きを持ち、人生の究極の目標として掲げられます。しかし、実際には「自由」を完全に享受することは、それに伴う「責任」や「主体性」の必要性を含め、複雑な心理的プロセスを伴うことです。組織からの離脱によって表面的な「自由」を得たとしても、内面的な平和や満足を自動的に得るわけではないということです。むしろ、内面の不安やモヤモヤ、さらには自己決定に対するプレッシャーが、新たな形の心理的拘束として現れることがあります。

心理学や心身条件反射療法(PCRT)を通じて明らかにされる事例は、私たちに「自由」とは何か、そしてそれを如何にして健全に追求すべきかについて深い洞察を与えています。自由の追求は、単に外的な制約からの解放だけでなく、内面的なバランスと調和を見つけるプロセスでもあります。最終的に、真の自由は外部の状況に左右されるものではなく、自己の内面における深い理解と受容から生まれるものであることを私たちは理解することが求められています。自由に向き合う際には、自己の心理的な状態とそれを取り巻く環境の両方を慎重に考慮することが、より充実した人生への鍵となるでしょう。自分自身の内面に耳を傾け、日々の選択において真の自由を意識することから始めてみましょう。


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