アレクサ、看取って③ knowと書いて苦悩と読む
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ビュッフェのサラダを取って、お互い席に着く。朝食をはじめよう。
大須賀は「日本のビュッフェは豪華だなあ」と小さくつぶやいた。ぼくは、このホテルがたまたまそうなんじゃないかな、と思ったが、自分のホテルでもないのに謙遜するのも変なのでとりあえず黙っておいた。葉物の種類がやたらと多い。ドレッシングがキラキラしている。というか全体的に光量が多い。部屋は暗いのに食べ物が明るい。確かに豪華だ。ふと自分の革靴をみると細かい傷がいっぱいついていた。暗くてよかったし、暗くても少し恥ずかしかった。
そういえば今になって思うけれど、せっかく日本に帰ってきた大須賀と朝メシを食うにあたり、和食メニューがぜんぜんないレストランを選んでしまったのはどうかと思う。日ごろ裏方仕事ばかりやっている割に、ぼくはオモテナシがへたくそだ。彼はそんなことは全く気にもかけていないようだったけれど。
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大須賀は言った。
「たとえばCDC(アメリカ疾病管理予防センター)には、医療者や研究者以外に、多くの情報担当班が勤めています。彼らは医療情報を正しく人々に届ける仕事を専属でやっています。紙媒体、SNS、動画。丁寧で緻密で戦略的です」
初めて聞く話だ。大須賀はさらに続ける。
「CDCに限らず、大学病院も民間病院も、最低でも数人、多ければ数十人という情報発信のプロを雇ってる」
ぼくはこう答えた。
「日本では最近、一部の私大とか専門学校などが、ようやくオシャレなインスタグラムアカウントを開設したり、ちょっとかっこいいPV的動画を作ったりしているけれど……ああいうのはたいてい、職員が兼任で、一人でやってますよ――」
―――日本は遅れてますね。
思わずそう続けそうになったが、少し考えて、言い方を変えた。
「―――ここは我々も、アメリカのシステムをマネするべきなんでしょうか?」
それにしてもサラダを少し多くとりすぎた。葉っぱばかりだ。かたっぱしから口の中に放り込んでいく。ドレッシングの味が弱い。何だこのツブツブは。いったん手元のフォークにそらした目線を再び大須賀に向けると、彼は考え込んでいた。
「いや……日本とアメリカでは、背景が違うので」
続けて彼は言った。
「アメリカの面積と人口密度を考えてみてください。あの国は広い。病院と病院の距離がとても離れている。病院側は、人々に正しい医療情報を伝えることで医療施設の評判を高めて、遠くに住んでいる患者に向けて魅力を発信し、飛んできてもらうことが重要になってくる。つまり、アメリカでは正しい医療を広報することが、結果的に営業利益に結びつく。ちゃんと商売になる。だから構造として人を雇えるんです。
でも、日本は違う。大学病院も市中病院も、すでに黙ってても十分な量の患者は来る。日本では、情報戦略を駆使して患者をかき集める必要性がない」
ははっなるほどそのとおりだ。明快な答えにぼくは納得しかけた。しかし、先ほどから内心なるほど、なるほど、とうなずいていたぼくは、とうとう「なるほど」と口に出せなかった。
彼がなんだか苦々しい顔をしていたからだ。
それは何かを探しているように見えた。おそらく答えはまだ見つかっていないのだろう。続けて、いくつかのことを、試すように言った。
……たとえば国立がん研究センターのがん情報サービスのようなもの。あれはあれでいいが、ほかの施設からも多様なスタイルの発信があればなおいい。
……省庁やメディアが協力し合って、正しい医療情報をつなげるシステムをもう少し積極的に作っていったほうがいい。
……システムは、アメリカと異なる背景を持つ日本では、独自に作り上げていかなければいけない。
いちいち全くそのとおりだ、とぼくは思う。しかし、当の大須賀自身がなぜか、システムの話をするときには必ず瞬間的に心の首をひねっているように見えた。不思議で、ちょっとおかしかった。
ぼくはこのとき、同時に、少し違うことを考えていた。
医療情報については、発信者と受信者の二相で考えるべきではない。きっと、もっと多数のレイヤーを想定すべきだ。確かに、発信側、すなわち医療者側にもやることは多くあるが、ほかのレイヤーを細かく想定しておくことも必要だろう。もう少しシステム全体を俯瞰した方がよいのではないか?
ぼくはそう言おうと思った。実際、一度は言ったかもしれない。しかし、大須賀と話しているうちに、なぜか、これは本当になぜかよくわからないままだったのだが、自分が普段試みている俯瞰思考自体に不十分さを感じた。大須賀がときおり見せる苦悩を解決するのに、俯瞰だけでは心もとなかった。
こんなことははじめてだ。
だいたい、マネジメントとかコンサルテーションみたいな場面において、俯瞰がマイナスになったことなどない。俯瞰こそは、知性が高みに到達するために必要な絶対無敵の筋斗雲だと思っていた。けれど、なぜか、いつもしているように筋斗雲を呼ぶことを、ぼくはこのとき、少し躊躇した。
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前日、新千歳から羽田に向かう飛行機の中で、ぼくは、とても古い本を読んでいた。『情報の文明学』という。
この本にはいくつかの論説が載っているが、最も古いものはなんと1960年代前半のものである。SNSはもちろんだがインターネット自体がほぼ存在していない。そんなときにすでに、ITやコンピュータ産業が発展した現代のことをよく見通している、なかば伝説的に語り継がれている本……だという。
申し訳ないが、ぼくは伝説ではなく日常に生きるモブなのでそんな伝説はまったく知らなかった。
ただ、糸井さんとかシャープのちぢれロン毛がこの本のことを何度か口にしたので気になってはいた。何の因果かこれを渋谷イベントの前日に読んだ。結果的にぼくはこの本から読んだ内容の一部を大須賀にも語った。やっぱり名著だったのだ。
本書によると、例えば、農業を一次産業、加工や輸送を二次産業としたとき、三次産業にあたるのが「情報産業」なのだという。
むかし、人は農耕によって栄養を確保した。文明が進んで工業が出現すると、食物を加工したり輸送したりする二次産業が可能となり、隆盛を極め、一次産業に従事する人間の数は減少した。これがいわゆる産業革命と考えてよいだろう。
その後、社会が大きくなるにつれて情報のやり取りが高度化し、通信機器やコンピュータの進歩も相まって、三次産業として情報産業が出現した。製品そのものよりも、製品がまとう情報のほうが価値がある時代がやってきたのである。強いて言うならばIT革命? いや、情報は必ずしもITだけとは関連しない。
「肉ならどんな肉でも良かった時代」に我々は生きていない。おいしく加工するシェフの仕事が必要だ。レストランは、言ってみれば二次産業だろう。食べ物をおいしく加工して提供してくれる。では、そのシェフの評判が広がるというのはどういうことか? 食べ物が直接流通していなくても、よいレストランであるという口コミ、料理がおいしいという評判といった情報だけが流通する。取りざたされる。吟味され、選ばれる。客は情報をもとにレストランに入る。まだ食べたことはないのに、もう期待して席に座っている。もちろん実際に食べてみたらまずかった、ということはあるだろう。商品よりも情報が先に届くリスクというのは確かにある。けれども、現代は実際にこうして、情報が先に届く中で我々は多くのものを先に選択してしまうし、味に大差なくても情報が優れているほうをもてはやしがちである。
考えてみれば、映画館に映画を見に行くというのも不思議なことだ。実際に見るまでおもしろいかどうかわからないのに金を払う。
スポーツ、演劇を観戦することも同様である。これらは基本的に先払いシステムによって、すなわち商品そのものよりも情報に先行して金を払うシステムによって成り立ってきた。レストランの支払い自体は後払いだが、食べて金を払わないということは許されないわけで、情報をたよりにして椅子に座った時点である意味「商品そのものよりも情報を重要視して選択している」という点では変わりがない。
もっとも顕著な例は「広告産業」かもしれない。買ってもらえるかどうかわからないのに金をかけて、商品ではなく商品のイメージを人々の脳に届ける。完全に情報産業だ。
ぼくはここまでの解析を、どこかわかりきった話として、多少なりとも退屈に読んだ。しかしおもしろかったのはこのあとだった。
情報産業が発展した世界において、もはや純粋な一次産業というのは存在しづらくなってきている。
ネットワークの発達によって、もはや、野菜を作る農家からも、肉を出荷する畜産農家からも、情報は発信されるようになった。うちの野菜は無農薬だ、うちの肉はブランド牛だ、といった情報は、三次産業の担い手が拡散・消費する前に、まず一次産業に従事する人々の手から発信される。
すなわち情報産業とは、IT企業や通信・メディア企業にいる人だけが取り組むものではない。素材を提供する側、それを輸送する側も、常に情報という調味料を商品にまとわせている。
服飾雑貨になぜブランドという情報が付随するのか?
デザインだって情報だ。
あらゆる商品にはなんらかのかたちで情報が付随し、ぼくらはどちらかというと、商品そのものがもたらす効果、価値よりも、付け加えられた情報をありがたがって、比べて、満足している。だからもはや、純粋な素材なんてものは、世の中には出回らないし、素材そのものが経済の仕組みに乗っかって健全にやりとりされることはほとんどあり得ない。
医療だってそうだよな。
命が何年伸びた、縮んだ、なんていう結果を実際に見届けたら、それはある意味手遅れだ。
あなたはこれだけ生きそうだ、何もしなければこれくらいで死にそうだ、っていう、事前に予想した情報こそが、人生において最重要視される。
結果が出る前に、情報をたよりに、金や手間や時間を払って、治療をする。
医療こそ、情報とは切っても切れない産業だ。
医療情報ってのは、暇な医者だけがてきとうに取り組んでおけばいい兼業案件じゃない。情報は医療の根幹、もっといえば医療の価値そのものだってことになる。
だったらぼくらはがっちり戦略的に、医療情報産業学みたいなものを見据えて、いい医療をきちんと人々に届けるためのシステムを作るためにがんばらないといけないのではないか。
農業も漁業もすべて広告の世界に取り込まれたのは当たり前だ。今やすべてが情報抜きには語れない。だったら医療においても広告の手法を参考にしたり、メディアのやり方を学んだりすることは役に立つだろう。
ぼくはやっぱりシステムの虜。
大須賀にちりちりと脳の中の何かを刺激されながらも、やはり、今日の渋谷イベントでのメインテーマは、「医療情報をまつわるシステム作りを多くの人と一緒に取り組んでいこう」になると考えた。そのためには誰をどこに配置すればいいだろう。どのレイヤーに人が足りないだろう。どこで誰ががんばるべきなのか?
ぼくは結局筋斗雲に乗ったのだ。
***
大須賀と連れ立ってヒカリエに向かって歩く。
11階の受付スペースでウィズニュースの朽木さんと水野さん、あと数人と顔を合わせる。挨拶をする。ぼくら同伴出勤ですよ。えへへ。エェーうらやましいー。なんですかこっそりー。
茶番を終えて、歯を磨きにお手洗いに向かった。スーツケースからあらかじめ取り出してあったトラベル歯ブラシセットを手に持つ。歯を磨き終わって、ひらひらと受付に戻ると、そこに大型犬が待っていた。
「なんだ君の、その、ひらひらした登場は!」
いつもどおりだ。気分がいい。イグニッションが回った。イベントが始まる。ぼくはわくわくとした。これから高いところに上るのだ。ヒカリエ最上階。
さあ、世界を俯瞰しに行こう。
(2019.10.2 ③)
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