ベルナールのガンキャノン
▼前回の大須賀先生の記事はこちら。力作です。
この記事の中で、大須賀先生は、
「科学というものは、時が経つに連れて変化していくものである」
「医学もまた、資料を足すごとに、より適切な方向にどんどん変化する」
ということを述べられました。
非常に強度があるメッセージです。
科学は、変化する。まったく同感です。
この点において、コナン君と我々の相性は悪いと言わざるを得ません。
コナン君「真実は、いつもひとつ!」
VS
大須賀ン君「科学は、常に塗り替えていく!」
映画的には、ラストシーン近くで大須賀ン君が腕時計型麻酔銃の餌食になるところしか思い浮かびませんが、殺人事件や公共施設の爆破事件ならばともかく、医学においては、大須賀ン君のほうに分があります。
「昔のデータ、昔の状況、昔の科学技術に照らし合わせて妥当だったこと」が、将来にわたってもずっと通用することはありません。
神ではない我々が語る「真実」は、常にバージョンアップしていくのです。
だいいち、コナン君だって、映画の前半から「ピキーン」とか「待てよ」とか「妙だな」とかいろいろそれっぽいことを言いますけれど、テレッテレッテレナマレバー♪テレッテレッテレナマレバー♪の曲が流れないタイミングでつぶやくこれらのセリフは、たいてい、映画後半で出てくる新たな証拠によって塗り替えられて、なかったことになっているんですよね……。
「起承転結」でいうと、コナン君の映画は、起転転転転結、くらいになっています。だから盛り上がるんですが。
科学というのは証拠集めが一生終わらない謎解きです。
幾多の証拠によって組み上がった科学は、後世に受け継がれ(承)、新しい証拠が出るたびに仮説の微調整が行われ(転)、それが新たな手法によって検証されてまた後世につながっていきます(承)。
たとえるならば、こうです。
起承転承転承転承転承転承転承承承承承承転承承承承承承承承承承承承承承転承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承転承承承転承承承承承承転承承承承承承承承転承承承承承承承承転転承転承(←イマココ)
コナン君がもう少し大人になって、「見た目は大人、頭脳はもっと大人、名社会人コナン!」となった暁には、真実はいつもひとつ! というセリフを多少改変することになるでしょう。
「現時点でもっとも妥当な科学はほぼひとつ(ただし将来は証拠が増えるのでアレンジされることが確実です)!」
劇場版名探偵コナン「巨人の肩の攻城砲(ベルナールのガンキャノン)」の公開を楽しみにおまちください。
さて、大須賀先生の手紙に花束を添えるだけで終わってもいいのですが、せっかくですので、関連したことをひとつ書きましょう。
なあに、すぐ終わりますよ。
/) /)
( 'ㅅ')
(集中力を取り戻すためのうさぎです。)
*
人が集まれば派閥ができるのは、人間社会の常ですね。
だったら当然、医療現場においても派閥があるだろう……と考えるのは自然なことです。
医療現場にも派閥っぽいものは、あります。
「B'z派」とか「アンチB'z派」とかね(これはフィクションです)。
ただし、医療の活動原理の根底には「医学」という学問が存在します。
学問においては、「派閥」という言葉を使うよりも、もっといい言葉が存在します。
それは「学派」。
学派は、一般に言う派閥とは少しだけ性格が異なっています。
学派というのは具体的にはどういう「派閥」でしょうか?
具体例をあげて考えてみましょう。
たとえば、「邪馬台国はかつてどこにあったのか」という命題があります。これには論争があり、かつて、「九州派」と「近畿派」という二つの学派が存在しました(今もかな? あまり詳しくは知らないんですが、例え話ですので大目に見てください)。
それぞれの学説を支持する人々は、互いに証拠を見せ合いながら、争います。
「真実はいつもひとつ!」と決められればいいのですが……。
なにせ、遠い昔の話ですからね。仮説と仮説を戦わせて、どちらがより「今をうまく説明できるか」という形でしか、論争は前に進みません。
タイムマシンが開発されない限り、「正解」は手に入らない。
かけ算や割り算とは異なり、歴史に何が起こったかを考える作業には、たった一つの正解は存在しません。だからこそ、「学派」が生まれ、学問的な争いが起こります。
ただし、このとき……。
二つの学説が、まるっきり反対のことを言っているわけではないということに注意してほしいのです。
二つの学派が争っているのは、あくまで、邪馬台国が「どこにあったか」についてであって、邪馬台国の「有無」については争っていませんね。
「昔の日本には人が住んでいた」ということはまず間違いがないし、それが邪馬台国という集まりを作っていたこともおそらく間違いがないし、「邪馬台国があったのは関東や東北ではなさそうだ」ということもほとんど間違いがない。
「ここまではたぶんみんな同意だよね~」という基礎の共通認識があるわけです。
学問は、「ここまではOKかな、ここまではいいよね」という作業をずっとくり返して作られていきます。今日の記事の序盤に書いた話でいうと、
起承転承転承転承転承転承転承承承承承承転承承承承承承承承承承承承承承転承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承転承承承転承承承承承承転承承承承承承承承転承承承承承承承承転転承転承
みたいに、「転」を織り交ぜながら、「承」がめっちゃ続いているイメージです。
たくさんの証拠を集め、多くの仮説をぶつけ合った結果、「みんなもここまではいいよね」という地固めがなされます。
学派が戦うのは常に「承」の先なんです。多少過去に戻ったところから「転」でやり直すこともありますが、「起」まで戻るということはありません。あり得ません。
ここで、歴史のことをまったく知らない人が、途中から議論に入ってきて、「邪馬台国って本当はなかったんじゃないか。日本人は全部宇宙から連れてこられた可能性もあるよな」と言い出すことには、かなりの無理がある……と思いませんか?
えっ、「起」に戻っちゃったの? みたいな。
「邪馬台国は存在しない説+日本人は昨年宇宙から連れてこられて記憶を植え付けられた説」を突然提唱して、「学派」として名乗りをあげられるかというと、
それはなんかまあ、無理じゃないかなーと思うんです。
先人達が慎重に語り合った学問の歴史の先端部、「ここまではいいよね」の先で、「今なお決着がついていない部分」について争うのが学問です。
さあ、話を医学に戻しましょう。
(集中力を取り戻すためのうさぎ+αです。)
医学にも派閥(学派)は存在します。しかし、学問における対決は、あくまで、「現時点までに積み上げたことの先で、細部を微調整するように戦う」もの。
そこにある「派」は、一般的な意味での「派」とはだいぶ雰囲気が違います。
たとえば、非医療者の中には、医学の世界に「反ワクチン派」があると思っている人がいます。しかしこのような学派はそもそも存在しません。
なぜなら、ワクチンという道具が有効であることは、天然痘、ポリオ、日本脳炎、麻疹、風疹など、さまざまな証拠が揃いすぎていて、「そこを疑うのは医学としてはちょっとね……」というくらい当たり前のことになっているからです。そこは「起」です。
「日本は24年前に来日した宇宙人が全部つくりました派」が歴史学に存在しないのといっしょです。
ワクチンの科学的な議論は、もはやそんなところには収まっていません。
少し前に、「新型感染症についてファイザー製のワクチンを1回だけ打つか、2回打つか、どちらがより効果が高いか?」という「議論」が繰り広げられました。ただしこの議論、一般にはあまり知られていないかもしれません。なぜなら、これは人と人がテレビに出て口角泡を飛ばして「議論」を行ったわけではなく、各国で行われた臨床試験によって、つまり「データのぶつけ合いによって」検討されたからです。
すでに、「ファイザー製のワクチンを打つなら2回がいいだろう」という証拠が集まっており、実際に日本国内でもそのように運用されていることは、みなさんご存じの通りです。
話はとっくに先に進んでいます。いまさら「反ワクチン派」が出る幕はありません。医学のプロセスの中ではもう存在していません。
えっ、「起」に戻っちゃったの? という話です。
顕微鏡がなかった時代、人体には四つの体液があり(血液、 粘液、胆汁、黒胆汁)、これらのバランスで人間は元気になったり病気になったりする、という説を唱えた人たちがいたそうです。医学の「起」の部分。
19世紀以降、このような段階の議論は誰もしなくなりました。「今はもう、そういうレベルの話はしなくてよくなった」。
これが、科学の進歩です。
これぞ、「科学は、変化する。」ということです。
小田和正を流してください
「科学がすべてなんですか」「反医学はありえないんですか」という意見もたまーに目にします。
はっきり言いますと、「反医学」はあり得ません。「起」だからです。なおかつ、「医学の中でなお、慎重に議論を戦わせるべき部分」は存在します。
「変化する」ということと、「共有できる部分がある」ということ。
たったふたつの冴えたやり方で、科学は進んできましたし、これからも進んでいくのです。