無意識加工自撮りシステム
にしのし
かつて、あなたからこんなお手紙が来ました。
それに私は、こう答えました。
そして、前回、あなたからいただいたお手紙には、こう書かれていました。
「ああ、私という人間は、かなり根っこの部分で、これ系の話をかなり好んでいるなあ」と感じて、小さく深呼吸をしたのです。
***
デジャブ、既知感、リアルではない体験の「ホンモノっぽさ」。
実際に経験したものではないはずなのに、自分にとってやけに「しっくり」来てしまうもの。
私はそういうものに惹かれる。
人間が何かを記憶することについて、これでもかこれでもかと、念入りに書かれている、ある教科書を読む。それはもう、本当に綿密な本だから、きっと、デジャブや体験にかんする何かも、見つかるはずなのだ。
いわく――
『カンデル神経科学』によれば、記憶、なかでも意識にのぼるほうの顕在記憶は、あったことをそのまま脳に固定し、再現するようなプロセスではどうやらないらしい。
ひごろ、「記憶がよい」とか「よく覚えている」と聞けば、細部まで漏らすことなく、一字一句間違わず、暗記しているさまを想像していた。しかし、記憶とは本質的にいじくられるべきものであるようだ。
それはあたかも、一流の写真家が、写真を撮ったあとに必ず画像ソフトで色調やトーン、明度に手を加えるかのように。あるいは、撮影の時点で明かりやレンズに工夫をし、元々そこにあったものをそのまま写し取らず、強調や変換を加えてからシャッターを切るように。
いや、もっと言えば、カメラすら使わず、スケッチブックに「自分が好きな部分だけを描く」ことが、案外一番近いのかもしれない。
"知覚は、外界の受動的記憶ではなく、求心性の回路が知覚刺激を処理することにより情報を形成する過程である"
とは、つまりそういうことである。
記憶とはものごとをありのまま保存する機能ではない。
脳は情報をいじくりまわして、創作物としての記憶をつくりだし、更新していく。
そして、おそらく、「まだ知覚していない情報」にも、脳の「いじくりまわし」は及ぶ。
たとえばそれが、「リアルでは目にしたことのない、機関車の走行音」であっても、脳は、「視覚情報込みの記憶」を作り出すことができるし、
「まだ一回も経験したことのないできごと」であっても、記憶として変換する過程で「体験済みフィルター」を通して、デジャブ的に想起することができるのだろう。
つまり、私が惹かれ続けている、音からリアルなイメージを連想すること、見たこともない風景に出会ったときになぜか懐かしいと感じることなどは、いずれも、情報をついいじくりまわしてしまう、「脳の手癖」によるものなのではないか。
ところでここで、あるひとつの問題にぶちあたる。
「記憶」が実際の情報からだいぶ変形されているのだとしたら、なぜ私たちは、「記憶は加工済みである」ということを失念してしまうのか?
なぜ私たちは、いつも記憶を「実際に起こったこと」として信頼しきっているのだろうか?
不思議だ。
いっそ、「自分の記憶だからなあ。あてにはなんないよ」と、自然と思えるように進化してくれたら、楽(?)だったのに。
自撮りを加工しまくっているにもかかわらず、それが自分の顔そのものだと誤認してしまう「不具合」が生じている。
いや、ま、自撮りは無意識にカッコ良く変換されたほうが幸せか。
となると、記憶の加工に気づかないように進化したというのも、当たり前のことなのかもなあ。
(2022.7.1 市原→西野)