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コーラスの条件

にしのし


前回のぼくのお手紙でよくわからない創作物をあなたに送りつけたところ、

それに呼応するように、日常と幻想のはざまのような私小説的何かを送って頂き、ぼくはとてもうれしかったです。


最近、「事実のありか」みたいなことを、あらためて考えています。


同じ風景を見て、人それぞれに違う感想を持つのは当たり前としても、違う感想どころか、まるっきり見えている物の形自体が違うことがけっこうあります。

視覚だけではありません。

誰もが知っているヒット曲を数人でいっぺんに口ずさむと、微妙に音程やリズム、あるいは覚えている歌詞が違っていて、笑ってしまうこともあります。

これは単に歌唱力や再現力の問題だけではなくて、「実際に脳で鳴っているメロディや歌詞自体が違っている」と考えてもいいのかもな、と思います。

同じものを体感しているはずが、まるで違う体験になっている、ということ。



数人で晩飯を食っていたら、テレビから山本リンダの有名な歌が流れてきました。見ると、「ウワサのお客さま」という番組です。回転寿司やビュッフェなどで、食べ放題が可能な店で爆食いをするお客さまが出てきます。顔のところをCGで隠した一般人が思わせぶりに歩いてきて、さあ、今日はどんなウワサのお客さまが登場するのか……。

そこで、山本リンダの曲と、カメラのシャッター音が鳴り響きます。

「噂を信……」カシャカシャカシャ!

何度かくり返されるその演出に対して、思わずぼくは、

「噂を信じちゃいけないよ~」

と声を合わせます。しかしそこにいた若い男は、同時にこう歌ったのです。

「噂をすーれば……」



すーれば? 



何、今の、と聞くと、彼は言いました。「噂をすれば、でいいでしょ、合ってるでしょ。違いましたっけ?」

まあ、この年代で山本リンダは知らんわな、と、ぼくは訂正をあきらめます。


それにしても、歌詞をその場で適当に作り出してさっと口ずさめるのって、メンタル強いなあ。

半分あきれつつも、もう半分は状況に即応する脳の柔軟性に驚きました。だんだん、尊敬すら感じ始めています。



日常からかすめとった情報の断片を膨らませるということ。

悪く言えば、「苦し紛れに妄想でかさ増ししている」?

よく言えば、「足りない情報を想像力で補っている」?

これらは別に、小説やマンガと言った創作物の専売特許ではありません。

山本リンダを知らなかった若い友人。

彼と同じように、おそらくぼくも、しょっちゅう似たようなことをしている。



話題をこの先、どこに接続しても「自由」ですが、今日はなんとなく医療情報のことを語りたい気分なので、そこにドッキングします。

「正しい医療情報」や「証明された事実」というものの危うさを、毎日思っています。

「どう見てもこっちが合ってるじゃねぇか!」というセリフの、「暖簾に腕押し」っぷりと言ったらありません。

「どう見ても」が虚しく響く荒野にぼくは立っている。


「見ている立ち位置が違うからだろう」だけで説明できる振れ幅ではないです。山梨側から見た富士山と静岡側から見た富士山は違うよね、というのんきな話では済まされない。

同じような時代に、同じような場所から、同じような角度で物事を見たとしても、体感される刺激も、脳内で組み立てられた風景も、まるで違う。

ましてや、

見たものを「一部」しか見ずに、残りを勝手に脳内で口ずさむような補完をしている我々です。「噂を信じちゃ」と「噂をすーれば」ではハモれない。



日に日に認知科学に対する興味が強まっています。「なぜ人間はこのように、自分ばかり都合のいい、好き勝手な知覚をするのだろう」。「どうしてこのような脳で適者生存の論理をくぐり抜けてこられたのだろう」。手元の分厚いカンデル神経科学を通読する欲望に襲われます。いつでも脳のことを考えている。異なる脳を持つ我々が、この先、「合唱」できる可能性について、考えている。


(2021.7.2 市原→西野)