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昨日の國松

感情の手前に情動があると言ったのは誰だったか?

ロウデータのような情動を、仮にそのまま叙述しようとすると、文芸になるのだという。

ほとばしるエネルギーを落ち着かせ、よくある枠の中に押し込めて近似して、現象として固着させ、ゆっくり統計をとったならば、科学になるのだという。


となると「彼」を語るには文芸で臨まなければいけない。

まったく難儀である。「彼」は科学者なのに。


昨日、遭った。

「彼」をぼくはこれから語り続けることになる。


語り続けることができた過去のことを、人は俗に「記憶」という。語り続けることができなかった過去は、情動に解体され、印象だけを残してアナロジーの海に溶けていく。

「彼」を記憶するためにぼくは語り続けなければいけないと思った。


しかし、困ったことに、彼を定義しようとしたぼくは、いくら地図を描こうとしても、国境線を引こうとしても、いつの間にか地図の中に降り立って、歩き出してしまう。

うまく俯瞰ができない。

全貌がまるで見えてこないのだ。


ならば虫の眼で歩むしかない。

ぼくは悪巧みをはじめた。


(2020.1.17 序文にかえて)