先々々々々々週の國松
先々々々々々週。
2020年1月16日。
三省堂書店神保町本店で、ぼくは、鬼才・國松と対談した。
対談のときにも思ったことだが、おそらく國松は、ひとつのセンテンス、ひとつの段落の中に似たような表現が繰り返し出てくることを避ける。
英語とかでもそういうのあるよね。I show ~~ が何度も出てこないように、showを使ったら次はdemonstrateを使うとか、findに変えるとか。
ある程度の長さの文章を書くときには、多くの人が「あまり表現を重複させないように……」と気にしている、とは思う。
しかし國松の場合、少々レベルが違うな、と思った。
彼は、ひとつのセンテンスとかひとつの段落で重複を避けているわけではない。
おそらく國松は、彼の人生全体を通じて、表現が重複しないように気を遣っているのではないか、と思う。
対談の日に購入した『ニッチなディジーズ』にて何度か引用されていた本、『Fever』を、さきほど出張の帰りに飛行機の中で読み終えた。
あくまで『ニッチなディジーズ』で引用されているからおもしろそうだなと思って買った本。
だから、とうぜん、『ニッチなディジーズ』で出てきた話が繰り返し語られるだろうと、こちらも予想して読む。
しかし……学術書だから、大事な内容はきちんと重複しているのだが、どうやら、表現は微妙に変わっているのだ。
彼がそういうことを無意識でやっているとは思えない。
おそらく狙ってやっている。
読者が飽きないように。そして、ほかならぬ、自分が学術や医療に飽きないために……。
なお『Fever』は震えるほどいい本だ。大曲先生も忽那先生もいて、ビッグネームそろい踏みなのだが、中でも國松の筆致だけ「図抜けて異彩」である。実におもしろい。ぼくは彼に会ったから、もはや、彼の執筆個所はすべて肉声で再生される。それが本当におもしろい。ひとつの章をまるまる「Mimicker」に割いている構成にも脱帽である。この視点で教科書を書こうと思いつくこと自体がすばらしい。
(来週に続く。)