さよなら、ブラック・ジャック(1)
柔らかそうなセーターを着た小児科医・堀向健太が、控室に現れた。
開口一番。
「うちの奥さんがヤンデル先生に渡してほしいって。」
そう言って、どでかいおみやげを渡してよこす。
ああ、またやられた。ぼくは小さなロイズ1個しか持ってきていなかった。こういうところで、格の違いが出る。
これからはお互いおみやげ禁止にしよう。ね。なんだか悪いもの。会うたびにおみやげ合戦やってたら、きりがないし。あなた方夫婦は、そうやってすぐ気を遣うんだから。
こんなツイートまでさらっとしてやがる、やめろよ、ったく、恥ずかしいだろ!! どこまで聖人なんだ。ヤダナー、ここまでいい人だと、またぼくのあくタイプ(ポケモン)っぷりが相対的にクローズアップされるじゃないか。
いつもありがとうございます。
穏やかな風貌にブルーライト軽減メガネ。話し相手から優しい視線を外すことがない。いつもにこにこしている。あらゆる人類に対して敵意がないことが、たたずまいから伝わってくる。
彼がキャリアを通じてずっと胸に抱えてきた苦悩は、決して軽いものではなかったはずだ。それなのに、彼は、どこまでもやさしい。
診察室では、子どもが患者用のいすではなく、彼のヒザに座ってくるのだという。
子どもが業務用のハンコを診察デスクのそこらじゅうにペタペタ押すのだという。
診察の最後には、子どもとハイタッチをして終わるのだそうだ。
ああ、それはとてもいい診察室だろうなあ、と思った。
小児科医、アレルギー専門医、ほむほむ先生。
曰く。
医療情報を発信することは、ぼくが普段、診察室でやっていることの延長だと思っています。
患者や、患者の親・家族に、診察室の外でも安心してもらうこと。
さらには、自分と同じように患者を診ている医療者たちと経験を共有しあって、お互い、明日からの診察室に活かすこと。
ぼくにとっては、そのための、医療情報発信ですね。
【さよなら、ブラック・ジャック(1)】
麴町駅は静かに凍えていた。
「夏の思い出」というタイトルの、ずいぶんとファンキーなかっこうをした銅像を見つけて、写真を撮った。
冬だね。
12月13日金曜日。
文芸春秋ビル新館8階、オズマピーアール会議室。
#医療マンガ大賞 アフタートークイベント。
この日までに、「医療マンガ大賞」の企画自体は大筋が終了していた。
・キックオフイベント開催。オフィシャルウェブサイト開設。
・ツイッターでのエピソード募集(応募総数156本)。
・選考委員(1)によって8つのエピソードが選び抜かれる。
・各エピソードを元に作成したマンガを募集(応募総数55作品)。
・選考委員(2)がマンガを審査、大賞決定。
ここまでが11月中に無事終わっており、麹町で開催されたイベントはあくまで「アフタートーク」に過ぎない。つまりは祭りの後であった。
だから別にまとめの記事なんて作らなくてもいいかな、とは思っていた。けれどもいざイベントが終わってみたら、思うところが山ほどあった。
なのでnoteにイベントのレポ、とちょっとした感想をまとめておくことにする。しばらくお付き合いいただきたい。なあに大した長さにはならないだろう、全3回くらいかな(フラグ)。
医療マンガ大賞は、横浜市医療局が、広告代理店(PRエージェンシー(オズマピーアール)、博報堂系列)と連携して開催したはじめての試みである。
選考委員(1)と(2)には、横浜市の職員だけでなく、SNS医療のカタチ(堀向・大塚・山本)をはじめとする医師や、コミチ(マンガプラットフォーム)が参加し、エピソードの選定やマンガの審査に携わった。ぼく(病理医ヤンデル)は、(1)をちょっとだけ手伝った縁で、アフタートークイベントに出ることになった。
今でこそ、ハッシュタグ #医療マンガ大賞 はとても好評で、よいイベントだったことが誰にも伝わるようになっているけれど、決して、企画運営段階からずっと安泰だったわけではない。
そもそも座組みが固まりきらないままスタートした。そのため、全体的に駆け足感があった。エピソード選定からマンガ投稿の締め切りまではなんとたったの10日間。さまざまな事情(後述)の末の強行日程であった。ぼくは思わずつぶやいたものだ。「月刊誌でももう少し締め切りに余裕があると思う」。
それでも55作品の立派なマンガが応募された。注目度の高さがうかがえた。タイトな日程であったにも関わらず、応募作のクオリティが総じて高かったことにもまた驚かされた。
「もう少しゆっくり企画を進めればよかったのに」
という声が出るのもわかる。なので「さまざまな事情」のひとつを書いておこう。
企画が出てから年度内にイベント含めてすべてを終わらせる必要があったのだ。なぜなら、お役所の予算の仕組みが単年度予算だったから!
ま、それはしょうがない。
そもそも横浜市という巨大な自治体が「医療エピソードとマンガ」というファンキーな組み合わせに予算を振り分けたこと自体が快挙なのだ。むしろよくここまで自由に医療者やコミチにいろいろやらせてくれたと思う。お役所のイメージって、昔とだいぶ違うんだね。
汗をかいた立役者、O山やM山に、感謝したい。
横浜市医療局のホンモノの職員であるO山は、アフタートークの冒頭で、こう述べた。
「高齢者の人口がどんどん増えて、医療が必要な人の数もどんどん増えていきます。ですから横浜市としては医療をしっかり広報したいんですが、チラシ作って、リーフレット撒いても、なんか、全然雰囲気が変わっていく感じがしなかった。ここでSNSを用いることで空気を変えたかったのです。」
・・・
O山にマイクをふる直前、ぼくはニセモノの横浜市職員となるべく、最近あまり着ていないスーツに身を包み、いつものメガネを外して、会場の横で待機していた。
冒頭で横浜市職員のフリをして、緊張のおももちで司会進行をはじめ、
「横浜市医療局医療政策課のO山……さんにマイクをふるためだけに札幌市中央区から参りました! 病理医ヤンデルです!」
とメガネをかけてスタートした(なおこの台本については関係者全員がやめろと言った)。結果、完全にすべって、会場の空気はお通夜となった。ある意味、SNS(発のアホ)を用いることで空気を(微妙な方向に)変えることには成功した。
冗談はともかく。
そんなかんたんに空気を変えられたら、苦労しない。
医療の広報なんてそうそううまく行くものではない。素人はチラシでも作ってろってこった――
――でも、今日のぼくは、強気だった。
会場に、一人で世界の空気を変えることができる人間が来ていたからである。
発信者としてこれ以上優れている人はほかにはいない。おそらくすべての参加者たちもその辺はよくわかっていただろう。アフタートークイベントのチケットが4時間と持たずに完売となったことも、人気の証左であったろう。
今日はカメラマンが来ている。だからこのイベントは大丈夫だ。
ぼくはトークイベント中に「どういう名言が飛び出すか」を期待していたし、「なんとか名言を引き出そう」と、少し身震いすらしていた。
今にして思えば、このときのぼくはまだ何もわかっていなかった。
ぼくは心のどこかで、「今日のイベントは幡野広志がいるから大丈夫だ」と考えていた。
けれどもわずか1時間半後には、数えきれない量の感情が行き交う交差点のど真ん中に、ふらふらになって立ちすくんでいたのである。
会場には医者がいた、
朝日新聞の野瀬がいた、NHKの竹内がいた、複数の報道・メディア関係者、広告代理店、ウェブ編集長がいた、Twitter Japanの谷本がいた、
多くの患者がいた、
そして何より、多くの傍観者がいた。
その上で言う。
この日ぼくらは等しくニューロンであった。
この連載ではそういう話をする。
(文中敬称略)(2019.12.15 第1話)
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