いなかもんの型
にしのし
北海道はすずしいです。ギリギリ半袖で寝られるか否か、というくらい。
……あ、今、「~か否か」という構文を使う必要は全くなかったですね。お手紙としてあなたにしゃべりかけているのだから、「~かどうか」みたいにもう少しくだけた感じでもよかったし、「寝られるか、ちょっと目が覚めちゃうか」みたいに具体的にふくらませてもよかった。
のに。
口に出しては絶対に言わない「~か否か」を、なんとなく、サラッと使ってしまった。
ついキータッチしてしまう感じ。
おそらく私の「型」なのでしょうね、これは。
無意識に、「これくらいの修辞を入れておこう」みたいなことを、指先がやっている。
手癖?
いや……脳癖?
以前の私のお手紙では、脳の中でだけうごめいている、言語にできないもろもろが、思考をドライブする上で一役買っているのではないか……という意味のことを書きました。
それを受けて書いてくださった、あなたのお返事のさいごに、
とあって、ああなるほどな、と思いました。すべてのニュアンスでやりとりしたらたぶんパンクする(そしてゲル状に溶ける)。それはそうだ。
表出した/された言語で繋がるくらいがちょうどいい。
ただ、さきほどの「~か否か」のように、表出された言語の一部は、思考とはあまり関係なく半自動的に整えてしまった「型」だったりもするんだよな、ということを、今日は考えています。
表出した/された言語の、どこまでが、「その人が脳の中で練った内容」なのだろう。4割くらいは、「型」によって自動的に出てくる、お決まりのフレーズだったりはしないだろうか。
私たちが交流をする場面では、ああ言えばこう返す、がほぼ決まっていることで「我々は同じ型を共有する『同志』である」という安心を得ているように思う。
「おはよう」に「おはよう」を返すことにはもはや意味はない、というか意味は抜けている。
意味が抜けていても、型と型とをぶつけ合うことで交流自体はできてしまう。「日本剣道形(にほんけんどうがた)」のようだ。
いや待てよ。
そもそも、交流以前に、自分の思考自体も、型に動かされているということはないだろうか。
「非言語的なモヤモヤを使って考えている」なんて、偉そうに書いたのがついこないだのことだけど……。
まだ言語化される前の思考においても、「自由な思考」とは真逆の、型によって自動化された思考が、じつは存在している?
型で考えてしまうことに対する「いやだなあ」がある。
ああ来たらこう返す、に対する「ああ、いやだなあ」がある。
「拝啓」に「敬具」がくっつくみたいな、
ナ行五段活用の動詞に「た」「て」などが続くとき、連用形の活用語尾が「ん」になるみたいな、
「犠牲フライ」には「きっちり」が冠せられるみたいな、
「おきまりの自動化」が思考の形成過程でも起こっているのだとしたら。
脳の中ですら型に沿ったことをしてしまっているとしたら。
ああ、うん、まあ、みんなもそれがわかっているからこそ、「型破りの思考」が気になってしょうがないわけか。そりゃそうだ。当たり前のところに落ち着いたな。型どおりである。
すぐれた「芸術」は、思考の型をうちやぶってくれるという。
でも、少なくとも私は、「芸術」を見るといつも、「なんかよくわからんけど新しそうだなあということはわかるよ」みたいなことを、言語として表出しないまでも、真っ先に思考している。
これ根深いぞ。
世に在る「自由な発想」のほとんどは、「ライバルの少ない商売方法を考え付く」、という意味で用いられているし。
思考ってじつは自由じゃないんじゃないか。ウウ! 言語で考えているか否か、っていう以前に、型で考えちゃってますって……すっげえかっこわりいな!
あっまた否かって書いてる。
(2022.9.9 市原→西野)