嘘に塗り固められた自己開放という歌詞の二義性

にしのし

そちらお暑いでしょう。

全国ニュースから聞こえる各地の気温が体温より高くなってきた今日この頃です。いっぽう、札幌は平和で、日中いくら暑くなろうとも、夜に窓を開けて寝れば朝方には少しひんやりするくらいでございます。

いい季節ですよぉ。最高の季節ですよぉ。

「昔はもう少し過ごしやすかった」みたいな話をよく耳にしますけど、みなさん、札幌に来れば、タイムトラベルできますよぉ(?)。


でも、まあ、その「昔」の記憶というのも、

大意としてはおおむね合ってるけれども,直訳からはかなり遠い

まぜすぎ検知器がほしい/西野マドカ

だったりするから、油断ができないけれどね。


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我々は脳にだまされてばかりいる。

なぜこういう風に進化したのだろう。

進化の理由を考えてみる。

すると、「脳にだまされなかった人は、生き延びる確率が低かった」ってことになる。

「聞いたものを聞いたまま、見たものを見たままに記憶するシステム」ではだめだったということだ。

意図によって認知をゆがませ、希望によって記憶をゆがませる私たちの脳は、「そのほうがちょっとだけ生きやすかった」からこそ、今にこういう形で残っている。……はず。


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性愛の縁辺くらいにある話題をひとつ。

たまーに、「ちょっと嘘をまとった人のほうが魅力的だ」みたいな話、ありますよね。

詐欺師とかさ。

その魅力とやら、脳のバグだろ、なんて思うわけですよ。

「騙される幸せもあるのだ」みたいな話は、普通に考えて、認知ゆがんでんだろ、と。

でも、「うっすらと嘘をまとったほうが魅力的」って、じつは脳の機能的に、極めて普遍的な現象だったりしないでしょうか。

お化粧とか、ホストのトークみたいな話に留まらず。

地声と歌声の違いとか。小説とかさ。好かれる嘘っていっぱいある。

嘘が好かれていると言い換えてもいい。


何かに嘘をまとわせるというのはどういうことだろう、と考えて、今のところ、「客観的な現象に、主観的な服を着せること」だと考えておきます。

これを脳が「魅力的だ」と感じてしまうのは、バグなのだろうか。

いや、

脳という装置が「そのものずばりを記録する仕組み」から遠く離れたところで活動しているからではないか、と、ふと思いました。そもそも正しいものを正しく記憶する機能なんてないんですよ。脳にはね。

脳は、意識というある種の虚構をもって、世界の近似的な知覚を容易にしつつ、客体的な現象を決して「記録」することなしに、嘘で塗り固めてストーリーに仕立て上げていきます。

脳をCPU+メモリ+ハードディスクに例える人いるけど、絶対違う。

脳はCPU+メモリ+プロジェクタなんだよな。記憶なんて副産物に過ぎない。



たまにね。

「昔の記憶があいまいなんですよ。あー俺の頭はもうだめだなぁー。」

みたいなことを言う人がいるでしょう。私らの同年代なんかにもたくさん。

でもね。そこで言い返すことができる。

「世界を嘘で取り込むのが、あるべき脳の姿です。あなたの頭こそが、絶好調なんですよ!」


「嘘つけ!」



参考書籍:


(2023.7.14 市原→西野)