声を書いて届けるまでのこと
にしのし
北海道ではそろそろ桜が散ります。これを書いている今日は、まだ、ぎりぎり咲いている。
桜。北海道に多くみられる桜、エゾヤマザクラ。
エゾヤマザクラは、満開のときも葉っぱがついています。花と葉っぱが混じっている。
だから、ソメイヨシノほどきれいには咲かない。けど、いいものですよ。
ところで札幌にもソメイヨシノがぜんぜんないわけではない。
たとえば、ぼくが勤める病院にも、敷地内にソメイヨシノが咲いています。たぶん。桜にそんなに詳しいわけじゃないけど、あれはソメイヨシノなはず。
その桜を見るたびに何度も何度も亡くなった祖母のことを思い出す。
これはすごいねえ。何度も読んじゃった。
たしかに祖母の記憶はかつての祖母そのものではないんですよ。ぼくが桜の木の下で、祖母の車椅子を押したときの顔は、当時の顔とはもう違ってしまっているのだと思う。
何を話したかも忘れてしまった。声だけはなぜか覚えているのに。
前回の西野氏のnote、今までの記事の中では「スキ」が少ないほうなんだけど、その理由がちょっとわかる気がします。
なぜならこの記事は、完全にぼくに向けて書かれているからです。他の人には届きにくいかもしれない。
ぼくが今いちばん読みたかったもの。
こういう往復書簡がやりたかった。分子標的治療薬みたいに、狙い撃ちするように、差出人から宛先へ、間違いなく届くタイプのお手紙を、なぜか公開するという倒錯をやりたかった。
それが叶ったような気がする。どうもありがとうございます。
まあ、今の、「やりたかった」という記憶も、レトロスペクティブ(後方視的)な解釈なのかもしれないですけれどね。
ところで。我々はこの往復書簡で、主に脳の話をいっぱいしてきましたが、「視る」についての話も、かなりしてきました。
視点、視線、視座。
俯瞰と接写もそうだ。
現在から過去をみたり、過去から現在をみたりと言った、時制をどの方向でとらえるかみたいな話もした。
途中、「触れる・触る」にかんする話にスライドしそうなときもあったけれど、今のところ、何度も何度も「視る」のことを考えています。
隠喩も換喩も、視覚になぞらえたものが多い気がする。
文字を使ったやりとりだからかな?
それとも、やはり五感の中でも視覚だけは特別、ということなのでしょうか。
で、話は急展開してしまいますが、最近のぼくは、ポッドキャストばかり聴いています。はまっている、と言って差し支えないレベル。
「聴く」を復権させようとしているのかなあ。
「視る」をはなれて、「聴く」をやろうとしているのではないかなあ。
一流の噺家。いや、落語に限らず、どんなジャンルでもね。
「しゃべった順番でしか聴くことができないはずなのに、しゃべった順番以上のことが脳内に浮かぶ」人がいます。
聴くことでだけみえる風景がある。それがすごくおもしろいなーと思っている。
このあたりのこと、どうやって言い表したらいいのか、まだ、ちょっとわからない。表現が追いついていない。過去のぼくも、今のぼくも、「聴く」に対する解像度が粗い気がするんですよ。
……解像度って書いちゃった。これも「視る」だよなあ。
「声だけは覚えている」ということのふしぎを、解像度という言葉で言い表すことはできないと思うんだけどなあ。
(2022.5.6 市原→西野)