山際の向こう、2秒の先に(終)
前回記事↓
「やさしい」っていうテーマさ、
今日の放送見て、
引っかかってる医者とか患者とか、
実はいっぱいいたと思うんだよね。
死ってそもそも苦しいことじゃん。
病ってうれしいことではないじゃん。
なのに「やさしい」なんてさあ。
だからさ、やさしいってのはこうですとか、幸せってのはこうですとか、
それこそ「宝くじが当たって幸せだってのとは違って」、
(※おかざき真里先生の言葉を引用しましたありがとうございます)
ズバッと定義できるもんじゃないんだよ、
そういうことじゃないんだね、
きっと、
和尚がおっしゃったようにさ、
グルグル、
やさしさはダイナミズムの中にあるんだよ。
あーうんいろいろ腑に落ちた、以上20秒のまとめ!
(※62秒かかった)
たらればさん……
20秒は無理だったよごめんね……。
***
犬は黙るがセッションは進む。
キーステーションの浅生鴨さんが、ハッシュタグ #やさしい医療 によせられた「おたより」を読む。そしてひとこと。
「長時間の視聴は疲れますからね、あと、室内であっても、水分はとってくださいね、熱中症に気を付けて」
かもはやさしいなあ、と思った。
そんな自分の思考に、すぐに軽くツッコミを入れる。
「やさしい」って、ぼくらすごい汎用してるけど、実はめちゃくちゃ可塑性のある言葉だってことに、たった今気づいたばかりだよな。
なのにこんなに軽々しく、脳内にポップアップさせていいのかな(笑)。
たとえば、「患者にやさしい医療者でありたい」という言葉がなぜ、どことなく「軽い」感じがするのか。最大公約数的なものたりなさ。お仕着せ。四字熟語辞典を買ったばかりの子どものような、「その言葉を使いたかったんだねー」感。
ぼくだけの懸念ではなかったろうと思う。
実際、この日を迎えるにあたり、Twitterでは幾度となくつぶやかれていた。
「やさしいって言葉を軸に据えても、医療の大事な部分はあまり見えてこないよ。」
うん、あるいはそうなのかもしれない、と、ぼく自身口には出さないにせよ、感じるところはあった。
ただ。
おかざき真里先生が最後に「私も……動き続けようと思います」と言ったとき。
ぼくは、ああそれはやさしい結論だなあと実感した。
面倒くさいくらいに複雑なニュアンスから出た、シンプルな体感。
ぼくはこれにツッコミを入れなかった。
やさしいとは、能動側と受動側が固定された関係の中にはなくて、動的平衡の中にあらわれる。
やさしい医療は定義して分配するものではなくて、ダイナミズムの中に見出される。
発し手と受け手の関係すら自在に入れ替わる、よく考えたら、ぼくらはいつもそうだ。
医者が、和尚が、ではなかった。
「患者が努力すれば」というものでもなかった。
運動体の中にやさしさが包摂されている。ぼくらはそれを、ひとすくい、できるかどうかだ。
***
なんだか壮大な連続ドラマの最終回を見た気分である。
札幌スタジオひとりで設営(しかも微妙に失敗)、
接続トラブル、
2秒のズレ。
いち視聴者として体感してきた、「偶然とのステキな衝突」。
ここまでで、もうとっくに満ち足りていた。
へとへとだったし。
でも、ここからは楽しみにしていたゲストが、立て続けに登壇する。
幡野さん。
糸井さん。
そしてあらためて、今度は司会ではなく、登壇者の側に回る鴨さん。
我々の準備的にも、世間の印象的にも、いよいよここからがメインイベントのムード。ぼくだって、楽しみだ。それは本心だ。
けれど。
正直にいうと、ぼくはあと2時間もあるというのに、なんだか、やりきってしまっていた。司会にもスタッフにも申し訳ないなとは思ったけど、いろいろ限界だった。主に脳が。思考の雪だるまはもうシュレックくらいのサイズに育っていた。
そして、何気なく、いつものように、メモを書いた。やりきった気持ち満載で。
ありがとう
ありがとう
ありがとう
そして すべてのスタッフに……
笑っちゃう角度でシナプスがつながった。だからメモっていいんだよな。
ぼくは軽く息を吸って、少し別のことを考え始めた。
エヴァのテレビ版の最終回(ありがとう ありがとう ありがとう)を思い出し、当然次は……
こうなるわけである。
だいたいこのあたりで、noteにどういう記事を書くかが、固まった。
***
SNS医療のカタチTVの最中に書き殴ったメモはいずれも、連想からの産物だ。雑である。一部漢字が書けていなかったりもする。
けれどこのメモを、ぼくは、軽視していいものだとは思っていない、だってこれらはきっとぼくの核から出てきたものだからだ。
連想で出てきたものをきちんと言語化すると、たまに、自分で気づいていなかった「橋がかかる」。……和尚とはまたお話させてもらいたいなあ。
エヴァ。
エヴァ、あるいはパトレイバー、さらには映像研。
これらは複数の作品が複数のメディアで公開されているという特徴を共有している。タイトルこそ同じだが、テレビ版と劇場版(あるいは実写版)では、登場人物こそ共通するものの、切り口が違うし、背景の設定も、なんならストーリーまで違う。
「テレビ版のアスカ」と「旧劇版のアスカ」と「新劇版のアスカ」がなかなかの勢いで別人だということは、よく知られている。
(※知らない人も別にそのままでいいです)
さて翻って、ぼくら。
医者は、ツイッタラーは、つい「ファクト」みたいな言葉によりかかって、がちがちに固まった「事実」とやらを取り扱っている気持ちでいるけれど……。
「あるもの」を照らした人の居場所、気分、照らしたものの光量、角度、彩度、色温度、そして照り返し、とにかくいろいろなものによって、ものの見え方は変わってくる。歴戦のアニメオタクはそのことを知ってか知らずか、あのアスカとこのアスカが違うからと言って(あまり)ガタガタ言わないものだ(個人の感想です)。
休憩時間の間に、ぼくは考えた。
ここまで、医者4名がしゃべり、堀向がシャープとタニタ相手に東大王でも答えられないような超難問をアドリブで振り、矢方さんと中山祐次郎が和気あいあいとズレを見つめ、浅生鴨さんと新城健一がテクノロジーを前に未来の医療のやさしさを語ってきた。
(※第4話参照)
そして、和尚さんとおかざき先生のお話を聞いて。
「これでもう十分じゃないか」と、一度は考えた。
けれども、
これは、
言ってみれば「テレビ版・新世紀エヴァンゲリオン」が終わったに過ぎない。
ほむ襲来、
見知らぬ担当医、
フェムテックダイバー、
心のカタチ人のカタチ、と、放送が続いてきたに過ぎない。
角度が変われば反射も変わる。
アンプが変われば残響も変わる。
話者が変わればおもしろいくらいに異なる。
流動する中で相対化される慈悲。
良くも悪くも「いい結論」に向かって収束しつつあったYouTube LIVEだが、あるいはもう一度、二度、「ズレやスキマやギャップ」が現れてきてもいい。
そうだ、ここからは豪華な劇場版だ。神作画に豪華キャスト、立ち上がる考察厨、虎視眈々の同業ライバルたち。
ぼくは、がぜん、楽しくなってきた。
「解釈違い」でオタクが混乱するさまを見てみたい。「死海文書をどう読むか」みたいな話が沸き起こるのも歓迎だ。
そもそも、たぶん、そういうことなんだろう。医療というもの自体が。
人の数だけ物語があり、それらが動体として影響し合う中にあるやさしさ。
ひとすくいのやさしさで、ひとをすくう。
よーしもう大丈夫だ。ここからもがんばれる!
そして同時になんとなくぼんやりと決意。
最後のほぼ日セッション2つは、ぼくがまとめなくてもいいや。
たぶん、誰かが、やるだろう。
……で、なんか、ほんとにまあ、そのうちなんか出ますので、
ご期待下さい。ぼくも楽しみにしています。
(2020.9.4)
(完結です。どうもありがとうございました。最初から読み直したい方はこちらからどうぞ。第4話のフォントとLCLの段階でエヴァ展開(しかも劇場版への流れ)を予測した人が2名いました。すごいですね。)