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私は断端だけにはいない

西野氏


お誕生日おめでとうございました。これからも、変わらずよろしくお願いいたします。

まあ人間はどんどん変わっていきますが、そこは微調整しつつ。


変わると言えば、近頃、「誰かにものをすすめること」ができなくなってきました。本当に難しいなーと感じます。

人によって、心のアンテナが受信している信号の帯域が異なるんですよね。
その人がそれまでに歩んできた道のりや、浸かってきた周囲環境によって、届くフレーズや刺さる映像がまるで違う。

だから軽々しく「おすすめ」できない。

以前、サンキュータツオさんに、

「自分が好きなものを、自分だけが楽しんで、楽しかったとただ言う、それ以上のことはできないのではないか」

と言われたことがありますが、今、全く同感です。

思い起こせば、「ヨンデル選書」企画も、あれはつまり、ライフログに過ぎないわけです。「ぼくはこんなのを読んでおもしろかった」と発信しているだけ。
「こっちに来いよ、これを読めよ、絶対おもしろいぜ!」と、自信を持って誰かを勧誘できるほど、ぼくは、他者との差異を甘く見積もっていないのでしょう。


そしてこのたび、あなたから届いたお手紙を見て、「おすすめの難しさ」をさらに一歩進めて考えることになりました。

そこにあったのは「自分が楽しむこと」すらもまた変わっていくのだろうという予感でした。

たとえばいまの流行歌をじっくりと,歌詞を眺めながら聴いたとき。あるいは,ぜったい好きな予感!と勇んで購入したエッセイ本を読み終えたとき。


(たしかにすごく良いし好きだけど,20代か30代の頃に出会ってたら,めちゃくちゃ号泣して大ファンになっただろうな)


そう思ってしまった瞬間に,わたしは軽く愕然とするのです。

海援隊の歌は未聴ですが
西野マドカ



「ああ、過去の自分も、未来の自分も、ほのかに他人なのか?」




つい最近も。
学生時代の自分だったら好きだったろうな、というライトノベルを、少し読んだところであきらめてしまいました。

その後、文庫を本棚に戻そうとして、すでにそこに刺さっている本たちを、何気なく見やったとき。

これらはいずれも、「過去の自分が好きだったもの」だなあ……と思いました。すかさず、ちょっとだけ残酷な疑問が思い浮かびます。

「これらを今日再読しても、まだ、好きだろうか?」――


***


人体病理にはホメオスタシス(恒常性の維持)という言葉がある。
ホメオスタシスとは、昨日までの自分と同じ状態を保つしくみだ。それによって保たれるものを「健康」と言う。

肉体が昨日と同じでいられるのは、ホメオスタシスのおかげ。
では、精神はどうか? 人格はどうか? 霊性みたいなものはどうか?

なぜ私たちは、「昨日と同じ私」だと言い張ることができるのだろうか?

自分の家がどこにあって、自分の名前は何で、家族が何人で、と言った「個人情報的な記憶」があるから、私は私だと言える……のだろうか?

それとも、もっと身体的な感覚や、周囲の環境からどういうイメージを受け取りがちかという「五感のクセ」みたいなもの、好き嫌い、得意不得意、
こういった、その人固有の「脳のありよう」が、アイデンティティになっているのだろうか?

しかし……。

20年前の自分を覚えていられる人は少ない。私だって、学生時代の記憶はほとんど残っていない。
それに、本や映画などの「好き嫌い」だって変わってきた。きっとそれは、あなたが愕然としたのと同じくらいに。

もし、記憶や脳のクセがアイデンティティだというならば、それらは時間とともにどんどん変化してしまう。

微調整を続ける脳のはたらきは、「私が私である理由」を時と共に失わせてしまうのだろうか?


***


――片手にラノベを持ったまま、少し背表紙の色が変わった本を、本棚から引っ張り出します。読み終えてから一度も手に取らなかった本たち。

これは3年ほど前に読んで、ぼくの考え方を大きく変えてくれた論説。

こっちはたしか10年以上前、釧路出張のときに乗ったJRの中でゆっくり読んだ小説。

これは高校時代に読んだあと、大学時代に買い直し、その後引っ越した際にどこかになくしてしまったけれど、やっぱり手元にあったほうがいいなと思って再三買い直した本。

3年前と、10年前と、20年以上前に、私がそれまでの私から変わった「理由」になった本たち。

これらが本棚に並んでいるところを見て、私は突然、確信します。
アイデンティティというのは、「今この瞬間の脳のクセ」とは違う、と。


アイデンティティとはおそらく屈曲しながら歩んできた道のりすべてのことなのです。途中、記憶が茫漠として、思い出せない風景はいっぱいあるけれど、それはあくまで思い出せないだけで、歩んできた自分の足腰は確かにその疲労をため込んでいるし、そこから受け取った何かを引き継いだ私が、その後も私だけの道のりを歩んできたことは間違いがない。今の私の脳はあくまで、変成しながらたどり着いた過程の断端にいるだけで、「私が私である理由」というのは、今の私の脳だけを見てもわからないものです。きっとそれは、断端だけでなく、歩んできた道、見回してきたものすべてを見てはじめて浮かび上がってくるのでしょう。



……話を最初に戻しますと。
「誰かに何かをおすすめする行為」というのは、結局、なんなんでしょうね。

自分の旅行の写真を、友人に見てもらうようなものだと考えればいいのか。



(2022.3.4 市原→西野)