約束の地
▼前回の大須賀先生の記事はこちらです。ぜひ。
そして、お時間があればもうひとつ、ぜひ読んでいただきたいのは、
▼前々回の大須賀先生の記事です。
この2つの記事を読み返すと、医療情報というものが三次元的にわかってきます。
前々回、大須賀先生が作って下さった模式図のひとつを示しますね。
「誤解の平原」に存在するさまざまな情報、意見の中から、「より適切なものを見分けるにはどうしたらいいか」を端的に表したイメージ図です。
さらに、前回の大須賀先生の図も見てみましょう。
こちらは、情報の適切さを判断する際に、「その情報がどれほど高みに達しているか」を判断しよう、という説明図です。
私(病理医ヤンデル)は、大須賀先生がこのような図を用いながら説明している様子をみながら、
ああ、私たちは、地図のないだだっ広い平原にぽつんと佇み、少しでも高い塔にたどり着くためにサバイバルをしているんだ、ということを考えていました。
本連載がはじまって間もないころに、漫画家・恵三朗先生に、イメージイラストをお願いしたときのことを思い出します。
私たちは、このイラストを見て大変よろこびました。ここには、
平原の孤独さ、
情報が氾濫している不安さ、
そこで戦うひとびと、
適切な情報がどこにあるのだろうと探し求める視線、
風の強さ、
太陽の心許なさ、
そしてなお、人間の意思の強さ、
そういったものがすべて描かれていたからです。
連載がはじまり、大須賀先生が描いた2枚の図を見て、私はあらためて、
「平面の広さと、立体の高さ、両方を考えて行かなければいけない」
と感じました。
そして、
「人それぞれの選び方があっていいと考えがちな、現代社会において強化されつつある考え方」
が、ある種の「罠」になるかも……と考えたのです。
キャサリン・コーラー・リースマンという人がいます(ボストン大学・社会学教授)。この方は、現代の西洋社会を、「自伝に固執する時代である」と評しました。
(※以下、参考書籍:『対話と承認のケア ナラティヴが生み出す世界』宮坂道夫、医学書院)
リースマンは、欧米において、誰もが幼い頃から自らの物語を語り開示することを当たり前だと考えている、と指摘します。
たとえばキリスト教では、個人が信仰や罪を語る「告白」confessionが、(教会の提示する信条creedと共に)信仰の中心にあります。「自分はこのように生きてきたと自分では考えている」と語る文化があるというのです。
ただしこの文化は、今や、キリスト教圏に限定したものではない気がします。
(宮坂道夫さんも指摘していますが)「自己語り」は、現代では欧米以外にも拡大しているのです。
なぜだと思いますか?
……みなさんも薄々お気づきかもしれません。そうです、TwitterやFacebook、Instagram、LINE。これらはいずれも、「自己語り」を身近にさせてくれるツールですよね。TikTokに到っては、自己歌い・自己ダンスまでできてしまいます。
「自分のことを自分なりに語れてしまうインフラ」の発達により、必ずしも社会に自己語りの文化が根付いていなかった日本人にとっても、自分で自分を物語ることは、もはや当たり前になってきていると感じます。
ま、そのこと自体はいいんじゃないの? ……と(私なども)考えてしまいがちです。
しかしリースマンや宮坂さんは強めに警鐘を鳴らします。
ここには「相対主義と独断の袋小路がある」というのです。
先ほど私が気にかけていた、「人それぞれの選び方があっていいと考えがちな、現代社会特有の罠」のことです。
自己語りの文化が発展していくと、「あなたがそう考えているなら、そうなんでしょうね、あなたの中ではね」という場面が多数現れます。あらゆる人々が、自分の身に起きたことを「自分ごと」として語り出すと、そこでは事実や真実と言ったものがよくわからなくなってくることがあります。立場ごとに違う見え方があるのは、当たり前ですよね。
たとえば、感染症禍で、ちっとも飲み会が開けない、職場で仲間と相談できない、まったく困ったものだ、非常に迷惑だと考えている人と、
リモートワークになったおかげで、行きたくもない飲み会に行かなくてよくなったし、上司の余計な雑談に付き合わなくてもいい、最高だと考えている人とがいたとして、
「どちらが正しいか」と考えることはナンセンスですよ。人ごとに違う視座、人それぞれの受け取り方があるのですから。
でも、すべてのできごとをこのように「相対化」してしまうことにはリスクもあります。というか、「明確な間違い」も潜んでいます。
たとえば先ほどの書籍の著者である宮坂さんは、歴史について、「ナチスによるユダヤ人虐殺はなかった」というような歴史修正主義が「そういう考え方もあるよね」と許容されることは問題だろうと書いています。
また、ここ数年常にメディアを騒がせている「フェイク・ニュース」のように、事実の確認を行わないプロパガンダ目的の発言も、「立場ごとに違う真実があるよね」と看過することはできないでしょう。
かくいう私も、医師として、「あやしいニセの医療情報に踊らされ、騙され、大金を巻き上げられ、それでも患者が満足していればいいのだ」という意見には与することができません。なぜなら、適切な医療を施しても患者はきちんと満足してくれるかもしれないから(わかりますか? ニセ医療で満足する人がいる、というのは単なる詭弁だということ)です。
このようなことを考えていると、私たちがときおり投げつけられる罵倒のセリフにも、おそらく時代背景・社会背景特有の事情……というかクセのようなものが見られます。
政府機関や国際機関の出す情報が適切だよと言うと、猛然と飛びかかってくる、「政府が間違っていたらどうする! 違うデータも、見方もある!」という声。
高いエビデンスがなければ医療情報は信用できないと言うと、すごい勢いで襲いかかってくる、「実際にこれで救われた人がいるんだ! 西洋医学が全てだと思うな! 何が統計だ!」という声。
これらには、どうも、「自己語りをすべきではないタイミングで、SNSのように自己語りしてしまう人たち」と我々との強いずれ、噛み合わなさが存在するように思います。
私たちは、もちろん、各人が生きて暮らし、自らの物語を解釈していく過程を尊重します。「あなたにとっての幸福」を私が勝手に定義することはできませんし、する必要もありませんし、してはならないと考えます。
しかし、public health(公衆衛生)の場面においては、「各人が好きなように考えて実行して良い」という考え方より、「みんなが足並みを揃えておいたほうが結果的にみんな少しずつ幸せになる」という考え方のほうが、おそらく適切だろうと考えられることがいっぱいあるのです。それはたとえば「手洗い・マスク・三密回避」であったり、「風疹、麻疹、HPV、そして新型コロナウイルスなど多くの感染症に対する認可済みワクチン」であったり、「標準治療」であったりします。
私たちは、世の中にあるあまねく文化・文芸・信条、あらゆる情報、あらゆる事情を、すべて「公的機関とエビデンスの言う通りにしなさい」と制限したいわけではありません。
自らの人生を自在に彩っていただくために、そのベースとなっているヘルスケアの領域については、最低限このようにして身を守っておいたらどうですか、
という気持ちで、誤解を少しでも減らすにはどうしたらいいかと考え続けています。
ここに必要なのは、「こういう正しさもあるよね」という相対化ではなく……。
私たちが社会という平原で自由に歩き回るために、基準にすることができる「約束の地」の存在なのだと思います。