先々々々々々々々々々々々々週の國松
先々々々々々々々々々々々々週。2020年1月16日。 三省堂書店神保町本店で、ぼくは、鬼才・國松と対談した。
ついにログミーで対談の文字おこしの掲載がはじまった。
3か月沈黙してたくせに突如の毎日更新で、関係者一同はあわあわしている。
全5回。今日もおそらくこのあと、第4回目が更新されるだろう。
とんでもない記事である。絶対読んだ方がいいぞ。
さぞかし文字おこし大変だったろうな。ぼくは事前に原稿に手を入れたんだけど、ぶっちゃけ、
自分の言ってること半分もわからなかったからだいぶ編集した
というのはここだけのヒミツである。なお前にも書いたかもしれないが、國松の言葉のほうはぜんぜん手を入れなかった。彼はしゃべればそのまま原稿になるタイプなのだ。ぼくとは違う。
そりゃあ文字おこしにも3か月かかるよな……どうもすみませんでした。
さて、ログミーがチンタラしていた3か月の間に世の中ががらりと変わってしまったけれど、今読んでもその価値は変わらないから安心して欲しい。
ただ、そろそろ、豪腕即断マガジン『今週の國松』も終わりが見えてきた……と個人的には考えている。
そもそもはぼくの思いつきだったのだ。
この天才が4月に(日本内科学会の総会の書店ブースに叩きつけるつもりで)4冊の医書を同時刊行すると聞いたとき、ぼくはただ呆然唖然としてしまい、二の句が継げぬまま感情失禁した。
(写真は國松の本をAmazonで見たところ。1冊を表示させると、関連書籍として、同じ月に國松が別々の出版社から出した本がすべて表示され、Amazonの画面が國祭りになる。)
懇親会の席でぼくは、心の中に残ったわずかな感情を絞り出すように告げた。
「noteをやりましょう。國松先生が4冊同時刊行するころまで。
ぼくは國松先生をひたすら毎週褒め称えます。
でもひとりでずっと中年男性を褒め続けるのはキモイので、中立さん、あなたは國松先生の担当編集者のひとり……國松番の代表として、ぼくの往復書簡相手をしてください。
まずはあなたが『今週の國松』を短く語る。現状報告です。軽くオチを先行させるくらいの気分でいいと思います。
ぼくは毎週金曜日にそれを読み、インスピレーションを得ながら、今日のすばらしい対談で得た着想、そして激情を、文章に叩き込みましょう。」
……まさかこれほどまでにインスピレーションを混線させるタイプの報告を毎週毎週読まされるとは思ってもいなかったが……。
ぼくはこの連載を通じて、國松淳和という男が、
ずっとああなのだ
ということを確認できて、とてもよかった。明石家さんまは家でもああいう感じらしいよ、というのと、國松淳和は家でもああいう感じらしいよ、というのは、令和になってもなお国民を震撼させる事実として記憶に値する。
さて、なにやらフィナーレを感じる書き方をしてきてしまったが、本連載は、今日が最終回ではない。
まだ、仕込んでいるものがある。
その内容は、すぐに明かされる。
おそらくは中立……本連載ではゲス立と呼ばれた、最強の國松番によって。
存分に期待して欲しい。
(来週に続k
危ない、忘れていた。
ゲス立が知っているのかどうかわからないが、ぼくが知る限りで、仕込み刃は2つある。
(もっとあるかも? でもそれはもう、ぼくの関与する範囲ではない。)
あたかも書籍を4冊同時刊行(+医学雑誌で小説の連載をスタートさせている)のと同じようなノリで、○○企画を同時に進めている國松を見ている。まったくこれでは頭皮まで脱帽しないと追いつかない。残るは頭蓋骨と脳だけだ。
彼はおそらく、退屈なのだと思う。
あれだけ多忙な生活をしていて、肉体的にはおそらく常人の何十倍も働いているであろう國松の脳は、おそらく、退屈なのだと思う。
その退屈は、ぼくが常日頃感じている「無常の退屈さ」とは、たぶん異なるけれど、ぼくには彼の退屈が少しだけわかる気がする。気がするだけかもしれないけれど。
國松は、仮に肉体が限界であっても、脳にわずかなアイドリング領域がある限りは新しいコンテンツを……いや、コンテクストを作り続けるタイプの医者なのだ。理由は、退屈だから。ヒマだから。
凡人の退屈はコンテンツに向けられる。
國松の退屈はコンテクストを生み出す。
ぼくは、彼が構築しつづけている文脈の庭で、遊んでいるだけなのだ。
(来週に続く。)