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街風 episode.18 〜命のバトン〜
次はいよいよ私の番か。この話を人前でするのは初めてだ。テーマは、“感謝”。私にはここまで育ててくれた両親に一番感謝している、そしてそれと同じくらいに感謝している人がいる。周りのみんなは家族に対してのスピーチばかりで私は浮いてしまうのではないかと思ったが、今さら原稿を変えられないし変えたくない。私は、担任のアケミちゃんに名前を呼ばれると、はいと返事をして立ち上がった。周りのクラスメイトの視線も集まる。私は、すうっと息を吸った。
「命のバトン。」
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私には右腕に一本の線があります。これは2年前に怪我をした時についた傷です。お医者さんからは、もしかしたら一生治る事は無いかもしれないと言われましたが、私はこの傷を無くしたいとは思いません。この傷には感謝しています。
私は、2年前に死んでいたかもしれません。
ある日、私は母親と2人で買い物に出掛けていました。車通りの少ない交差点で信号待ちをしている間、私は母親と他愛ない会話をしていました。信号が青になり、私は母親を置いて小走りで交差点を渡り始めました。向かい側からは黒髪がサラサラな美人なお姉さんが歩いてきました。すると、お姉さんは急に必死な形相で私の方へ叫びながら走り出しました。それと同時に私の右側から車のエンジン音がどんどん大きくなりながら響いてきました。私は、その方向を向くと同時に視界が真っ暗になりました。ドンッという衝撃音と同時に私は横断歩道に倒れこんだのです。倒れた私は状況を飲み込む事ができずにゆっくりと恐る恐る顔を上げながら周囲を見渡しました。
「きゃー。」
私のすぐ傍から母の叫び声がしました。私はその声にハッとし、先程まで私がいた場所を見ると前面が凹んでフロントガラスにヒビが入った車と、ほんの少し前まで黒髪をサラサラと靡かせていたお姉さんが倒れていました。そして、お姉さんの身体の下からゆっくりと真っ赤に地面が染まっていきました。そこから先までの暫くの出来事は記憶が曖昧です。私は、右腕にズキンとした痛みを抱えながら、ただその場を呆然と見ているだけでした。救急車とパトカーがサイレンを鳴らしながら現場に来て、私も救急隊員に抱えられながら救急車に乗せられました。救急車の窓のカーテンは閉められていたので、私はその少しの隙間からその場を目撃していた人と警察の人、そしてその少し離れた場所に事故を起こした車を運転していたであろう男性と警察官が立ちながら話をしていました。そして、お姉さんの顔には白い布がかけられて別の救急車に運ばれていくのが見えました。それが、お姉さんを見た最後でした。
「目が覚めたか。」
私は、気づくと病室のベッドにいました。枕元に両親がホッとしたような表情で私を見ていました。私は、救急車に乗った後に手当てを受けていたのですが、その時にいきなり倒れたそうです。急いで病院へ搬送されて検査を受けたのですが、特に異常は無く緊張の糸が解けて気を失ったのではないかとの事でした。そして、右腕には包帯がグルグルと巻かれていて、そこだけはずっとジンジンと痛みがありました。やっと落ち着きを取り戻した私は思い出したように両親へ質問をしました。
「私を助けたお姉さんはどうなったの。」
両親は気まずそうにお互いに顔を合わせた後に重そうに口を開いた。
「亡くなったよ。」
私は、その言葉を聞いた瞬間に涙が溢れ出しました。私のせいでお姉さんが死んだ、そう思うと私はお姉さんに申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
翌日には無事に退院でき家に帰宅しましたが、私は昨日からずっと塞ぎ込んで誰とも会話もせずに食事も喉を通りませんでした。学校も休んで部屋から一歩も出る事はありませんでした。母親からドア越しに話しかけられても私は答えることはせずにベッドに寝転びながら天井を見つめているだけでした。
学校を休み始めて二日後。誰かが家に来ました。玄関で母親と会話をしている声を聞くとどうやら男性のようでした。母親との会話が終わると、その男性と思われる足音がゆっくりと私の部屋に近づいてくるのが分かりました。足音は私の部屋のドアの前でピタッと止まりました。
「エリちゃんだね。初めまして。ダイスケっって言います。少し君と話をしたいんだ。開けてもらっていいかな。」
とても優しくて落ち着く声だった。
「嫌です。もう帰ってください。今は誰とも話したくないんです。」
私は少し声を荒げながらドア越しの男性へと言葉を投げつけました。
「先日、交通事故に遭ったカナエの彼氏です。」
その男性は静かにそう言った。私は、思わずあの日のお姉さんの顔を思い出した。そして、無意識のうちにベッドから起き上がってドアを開けていたのです。
「ありがとう。」
男性は部屋に入ると軽く自己紹介をした。ダイスケさんというらしい。
私はベッドに座り、ダイスケさんには学習机の椅子に座るように勧めました。ダイスケさんはありがとうと言うと椅子に座り私を見つめました。母親が二人分の麦茶を持ってきて机の上に置くと、何も言えずにダイスケさんにお辞儀をして部屋を後にしました。
「改めて、はじめまして。」
ダイスケさんは私に優しく微笑んでくれました。
「エリちゃん、だったね。お母さんから連絡をもらって今日はお邪魔しました。」
ダイスケさんはそう言って出された麦茶を一口飲んだ。コップをゆっくりと元の場所に置くと私の方を向き直って話し出しました。
「エリちゃん、君はあの交通事故からすっかりと塞ぎ込んでいるみたいだね。実は、もしも何かあれば、とあの事故の後に君の両親にカナエの両親から連絡先を書いたメモを渡していたんだ。そして、エリちゃんのお父さんとお母さんからも連絡先を教えてもらっていたんだ。カナエの両親はエリちゃんが心配で連絡をしてみたら、エリちゃんが今みたいな状況だと知って僕に連絡をしてきたんだ。実は、僕もここ数日はエリちゃんと同じような状況でね。それで、カナエちゃんの両親が無理矢理僕をここへ連れてきたんだ。」
ダイスケさんは穏やかな口調で話を続けました。
「エリちゃん、カナエは確かにもういない。でもね、それは君のせいでないんだよ。交通事故を起こした人が悪いに決まってる。エリちゃんは何も悪くないんだ。
カナエは、いつも笑顔が可愛くて周りのムードメーカーだった。誰にでも優しくてすぐに感情移入するような子だった。街中で困った人がいればすぐに声を掛けて助けちゃうくらいにお人好しですぐに一緒に涙を流しちゃうような一面もあった。
カナエの両親から、カナエが交通事故に遭って亡くなったと聞いた時はとてもショックで泣きながら病院へと向かったけれど、病院へ着いてカナエの両親から事の顛末を全て聞いた時にはカナエらしいなとも思った。最後までカナエは誰かのために生きていたんだからね。
だから、きっとカナエは自分の取った行動に後悔はしていないと思う。なぜなら、エリちゃんという素敵な子を救う事ができたんだから。」
「でも、私がいなければカナエさんは…。」
「それは結果論でしかないよ。」
遮るようにダイスケさんが言いました。
「カナエの両親もツラいだろうし、僕もツラい気持ちはある。エリちゃんと同じようにどうしてカナエがあの時あそこを歩いていたのか、どうして車が突っ込んできたのか、“どうして”ばかりが頭を堂々めぐりしている。でもね、そんなものは考えても仕方のない事なんだよ。
カナエの死に意味があったとしたら、エリちゃん、君を救ったことだよ。
だからね、エリちゃんがいつまでも自分を責め続けて毎日を過ごしていくだけなら、きっと天国のカナエは悲しむと思う。せっかく助かった命なんだからカナエの分まで笑って生きてほしい。起こってしまった過去には戻れないしやり直す事はできない。でも、これからをどう生きていくかは今を生きているエリちゃんや僕にしか決められないんだ。
エリちゃん、だからどうか明日からはまた笑顔で毎日を楽しく生きてほしい。もちろん、ツラいことやしんどいことも沢山起こると思う。でも、そういうのも含めて自分の人生を充実させてほしい。こんな事を初対面の僕から言うのは烏滸がましいし勝手な願いかもしれないけれど、どうかカナエとカナエの両親と僕からの願いだと思って聞いてほしい。」
私は話を聞いている間ずっと涙をボロボロと流していました。そして、今こうして涙を流せているのもカナエさんのおかげだということに気づきました。私は、包帯の上から右腕をぎゅっと掴んでうずくまるように泣き続けました。
泣き続ける私の背中を何も言わずに優しくさすってくれたダイスケさんの手は温かくて懐かしい感じがしました。
やっと泣き止んだ私に、ダイスケさんは色々な楽しい話をしてくれました。カナエさんとの馴れ初めや幼馴染の親友というか悪友二人の話など私を楽しませてくれるような話をずっとしてくれました。
私はダイスケさんの話を聞いているうちに自然と笑顔になれていることに気づきました。あの事故の後にすっかり笑うこともなくなったのに、初対面のダイスケさんのおかげで私は今まで通りの私に戻りつつありました。
夕方になって部屋に西陽が差し掛かる頃になると、じゃあそろそろ…と言ってダイスケさんは立ち上がりました。
「今日はありがとうございました。カナエさんの分まで私は一生懸命生きます。」
私はダイスケさんに誓いました。
「うん、そうして。エリちゃんには暗い顔よりも笑顔が似合うよ。」
ダイスケさんはそう言って部屋を後にした。私は玄関までダイスケさんを送り、母親と2人でダイスケさんを見送りました。
私は、今でも右腕の傷を見るたびにカナエさんの事を思い出しますが、それは決してネガティブな気持ちだけではありません。カナエさんの命とこの右腕の傷と引き換えに私は今もこうして生きています。
カナエさんと引き換えに繋がれたこの私の命のバトンは、これから先にどんな事があっても自分で落とすことはせずに、カナエさんの分まで笑顔溢れる人生にしたいと思います。ダイスケさんのおかげでこうして前を向くことができるようになったので、ダイスケさんにも感謝は忘れていません。
私は、これから先もカナエさんやダイスケさんに感謝を忘れずにこれからも生きていきたいと思います。
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私はスピーチを終えて原稿代わりのメモを折り畳むと、ゆっくりと着席した。
どこからともなく拍手が起こった。はじめはまばらだった拍手は一瞬の内にクラス中に響き渡るように大きくなった。
担任のアケミちゃんは声を震わせながら、次の発表者の名前を呼んだ。
私は、授業参観に来ていた母の方を振り返ると、母はハンカチで目頭を抑えながら私にウインクしてきた。私も母へとウインクを返すと再び前へと姿勢を正した。
窓際の私の席から外を眺めているとそよ風がカーテンを揺らしながら教室へと舞い込んできた。
「ありがとうね。私の分までよろしく。」
透き通るようなささやき声が私の耳元を通っていった。私は周囲を見渡したけれど声の主のような人はどこにもいない。
誰の声かは分かった気がした。
「ありがとうございます。」
私は心の中で感謝を伝えた。すると、またそよ風が優しく私の顔を掠めて吹き抜けていった。
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