自己紹介、好きなものはゲームとラップです。

こんにちは、もう気付いたら27歳になってたし、何かを残しておきたいというお年頃になったので記していこうかなと思います。
なぜ27歳という中途半端な歳でそう思ったかと言うと、自分の好きな曲の一つに「27歳のリアル」というラップがあります。いろんな人がmixしてて、みんな別々な歌詞を歌っていてラッパーは「俺の27歳までの人生こんな感じだったんだぜ」的なことをラップにしてます。
話が逸れそうなんで生い立ち書いときます。

生まれはずっと北海道です。
親は詳しくは言えない例の傷有り人間の父と借金まみれの母の元で生まれ、アホな姉が1人いて末っ子が自分です。
物心ついた時から親父の好きな巨人が負けた時はだいたいぶっ叩かれていて、母がそれに巻き込まれて、その母が苛立ちで自分をぶっ叩くみたいな負の連鎖の中でいました。
誕生日プレゼントやクリスマスなんてものも知らない家です。
親父は毎回「んなキリストがやってること日本でやんなくても別にいいんだよ」と言い訳がましく言ってたことは記憶に濃厚です。
当然そんな家なんで自分は基本家にいたくないので遅くまで外で遊びますが、礼儀礼節のうるさい親父は当然門限も厳しくよく怒られてました。
ついでに保育園も幼稚園も行ったことのない自分は小学校といういきなり知らん奴らに囲われた集団社会にぶち込まれます。
でも大丈夫、親父の周りのイカつく厳しい人間達から鍛えられたコミュニケーション能力ですぐに友達も作れます。
なんやかんやで中学に突入すると自分はラップをよく聞くようになり、その頃から友達の家に入り浸りゲームと音楽三昧でした。そこで出会ったのが鉄拳でもありましたね。
学校でPSPの鉄拳が流行っており、そこでpspを持っていなかった自分はなんとかお金を貯めて買いました。(正月に親父の知り合い達が家に博打をしてそれで...)
そして鉄拳6をとある親友とずっとやっていました。
負けて勝っての繰り返し、次の日には「こういうのもできるんだぞ!!」なんて技の見せ合い、まさに切磋琢磨の青春でした。
気付けば学校で1、2位を争う(親友と)強さになっていました。謂わば村勇者です。
自分が最強だと思っていましたがだいたい高校生ぐらいで現実知って我にかえるので安心してください。
その頃同時にハマっていたのはラップをすることでした。
自分で歌詞を書き、適当なビートや有名な曲などをPSPから流し1人でずっとやってましたね。
とても楽しかったし、辛いことも全部忘れることができました。
家に帰ればお金の喧嘩の話題しかやっていなかった。
それを耳にするたびに「うちにはお金が無い貧乏なんだなぁ」と思っていたし、同じ服を何回か着ているのを同級生に見られて「それちゃんと洗濯してるのかよ〜」とみんなの前で笑われることもありました。けど、笑われるのは慣れっこです。
そこで大事なのが言われたことよりももっと笑いを取ってやろうとする気持ちです。
「洗っとる洗っとる、こうやって走って空気ぶつけて洗濯して汚れ落とすんやぞ!!」
一同爆笑、ムードメーカー狙ってやってましたけど、本当は凄い辛かった。
そんな自分の環境のことをよく知ってくれて、時には庇ってくれたり一緒にいてくれた人たちは今でも交流がある親友達になってます。
ここで勘違いしないでほしいのは「たまたまいい人に巡り会えたんでしょ」ではなく、持ち前のコミュ力と腹割って話せるほどの人間関係を気付ける自分とその親友がいたからこその関係性なんで勘違いせんといてくださいね。

高校進学のシーズン、自分はだいぶ捻くれていたので、親元から離れた高校がいいと思い、家から40km離れた高校を選択。
普通に市内のそこそこいい高校にも行けましたが親が嫌いすぎるのでわざと遠い場所にしました。
北海道は、大きいね。
そこでも親友2人を誘い3人で進学。
その高校は最高にバカばっかだったので友達もいっぱい作れました。
この頃は家庭環境が完全に崩壊しきっていたので、学校に毎日寝泊まりしたいぐらい好きになってました、学校楽しいよね。
授業中にゲームしたり遊戯王ばっかやって最高でしたよ、アホ。
そして高1になる頃に最高の親友と出会うことになります、Twitterで知り合った奴です。
自分と同い年のやつでした、趣味や考えも似ていた。そいつは栃木に住んでいて、当時東方projectが好きだったのでそれ経由で知り合い、一気に意気投合。
時には喧嘩したり、ずっと朝まで語り合ったり、家庭環境の話なんてことで毎日が楽しかった。

高2になる頃、進路を決めなきゃいけなくなりそろそろ大人の階段を登る覚悟をしなきゃいけませんでした。自分もそんな馬鹿じゃないので少し考えました。
教師になるか、臨床心理師になるかの2択でした。
どちらも大学に行かなければならないし、後者は博士号を取得しなければいけないものだったので色々大変だと考えてました。

この二つの理由?教師だったら自分みたいに悩んでる人を助けられるかもしれないし、教えることが得意だったことと、後者も同じです。
この頃おろらくだいぶヤバかったので(みんなの声がよく聞こえない、心気症、記憶が全然できなくリスニングが辛かった、心配が酷過ぎて息が苦しくなる)同じように苦しんでるいる人がいたら助けたいし、その処置の仕方を知っていれば自分で苦しみを和らげることができるんじゃないかなと思ってました。

バカな毎日を過ごしていましたが、学校が終わった後はファミレスや無料の休憩所に行き猛勉強して、成績は数学が3であること以外全部4、5を叩きだし、大学への推薦枠を勝ち取りました。
けどうちにはお金が無いので奨学金を借りなきゃいけません。
つまりは未成年だったので親の署名がいります。
親に進学の意思を伝えたところ「無理無理、奨学金もあんたに返せる訳ないから無理、就職にしな」
今思い出しても煮えくり返しますね。
そうして未来の一つを潰されたので急に就職の道へ。何も考えてないっつの。
それでも諦めが悪い自分はまだまだ道を探します。
次は自衛隊に行くことを考えました。
自衛隊で北海道から離れ、長く働いた退職金で大学を行くことを考えました。
自衛隊の入隊署名にも親の署名がいるとわかりました。
早速書いてもらおうと思い伝えたところ
「ダメだね、危ないし、戦争行かされて死ぬかもしれないんだよ?絶対無理、書きません」
もう絶望ですよね。

だいぶ母親はイカれてたのでしゃーないっすね。
仕方なく自分は地元のようわからん会社の経理部に就職(簿記の資格あったので)

三ヶ月後には給料少な過ぎるし面白く無いので経理部長に「辞めます」と伝えたら「じゃあ明日から営業部にいってもらおうかしら!!気分転換になるかもしれないし!!」
俺の話を聞いてたのかなぁと思い営業部にぶち込まれウォーターサーバーを売るハメになり、毎日設置型店舗で1人集客してました。
おかげで社内で一番ウォーターサーバーを売っていたらしく、何かいいことあるかなと思ったけど特に何もなくマジでゴミでした。
職場と会社だけの行き来、19歳、しんどい気持ちでいっぱい。お金も使う暇なく貯まる一方だったのでとりあえず会社を辞めて1年間ニートしました。
ニートなると色々辛いんですよね、一日の流れが長過ぎて地獄、自分の部屋から全く出れずに世界が怖すぎましたが、唯一栃木の親友は励まし続けてくれました。

栃木の親友は高校卒業時頃に病気が発症してしまい就職が困難になりました。遺伝性のアミロイドーシス。全身が徐々に弱っていく病気。遺伝性の場合発症確率は50%。親友はその50%を引いてしまった。
そんな親友がこんなニートの俺を励まし続ける。
このままじゃ恩を仇で返すことになると思い、世界が怖いですけど就活して無事社会復帰しました。
その頃には親友は片目が失明していて臓器不全も起こしていました。
次の職場では一生懸命働き毎日頑張って働き、家に帰れば栃木の親友と毎日通話していました。
親友は言う、「俺、死ぬかも、今回ばかりは無理」
自分は言う「お前が曲作って俺がラップするって約束したからなぁ、まだまだ大丈夫だべ?毎回それでここに帰ってきてるんだから」と。
毎回電話するたびにか細くなる声に体の一部が悪くなる知らせを聞き続ける。
弱っていく姿と報告を聞くことしかできない自分は辛かった。そんなある日でした。

自分はちょー優しい人間故に母親にキャッシュカードの番号を教えており、「本当に困った時は教えてくれ、その時何で困ってるか教えてくれればいいから」と伝えてました。
そろそろ免許取りたいと思っていて自分の口座からお金を出そうとした時、200万近くあった残高が5000円ぐらいなってました。
母親に問い詰めると号泣しながら土下座だけしてました。
あんだけ家にお金を納めておいて何をしてるのやら。
おそらく馬鹿姉の高校の私立校の奨学金返済と滞納していた自分の家賃や水道光熱費、借金などで全部失ったのだろう。
自分から一言言えたのは「唯一の肉親からも信頼を失って、誰にも頼れんぞもう。俺は縁切るから」
なんとかの切れ目はなんとかの切れ目的なやつでした。

そのまま家を飛び出し友達の家に泊まり歩く毎日、会社も辞めることになり地元からは消えました。
その時助けられたのは今の奥さんで、当時付き合っていましたが自分が情けなく一緒にすんでくれと懇願し力を貸してもらってました。
そこで就職したら土木会社がターニングポイントでしたね。

その頃に親友は両目を失明し、ほぼ寝たきりの状態になっていました。
時折り親友は携帯越しで語る、「夢の方がいいよ、色々見えるから」
絶句、なんと声をかければいいかと思ってたが自分は「そうだね、夢を見るならいい女がいっぱいいる夢見れたら最高」と。
エロい女の体の話をしまくって凌ぎました。
人の死を自分も親友も受け入れ、日々そうして接していました。
そして自分が仕事で色々忙しくなり、地元に去年帰ってくることができました。
親友とは入院により4ヶ月間話せていませんでした。
三月ごろ親友から電話がかかってきて嬉しくなり電話に出た。
「さすがお前だな!!復活したんか!!」
「すみません、父親です」
「ああすみませんでした!!何かありました?」
「今朝、息子が旅経ってしまいその報告でした。生前は本当に仲良くしてもらいありがとうございます。名前を毎日聞いていたので、本人が何かあったらあいつに伝えてやってくれと」
「あぁ、はい。わかりました。すみません。また、掛け直してもいいですかね」
おそらく人生で一番辛いことでした。
家族、兄弟と思えた親友の死。
今でも立ち直れません。
むしろ立ち直らなくていいです。辛いならそのまま辛くて大事な人を偲んでいたっていいと思います。

色々ありましたがなんとか生きて結婚もできて働いている人生逆転をいつまでも狙ってます。
結構呆気ないかもしれないです。
でも本当に大事なのは諦めずに齧り付くことだと思います。
自分が負けず嫌いだったし、何より何でもできた方がカッコいいと思ってたので職人の世界に入って大正解でしたし、同年代の中じゃ誇りに思ってます。

何か嫌なことがあった、上手くいかない、諦めようかな、なんて思ってる人はとりあえず負けずに嫌いになるか、もしくは
「こんなしょうもないことで苦戦してたらこの先何十年やっていけなくない?負けらんねぇわ!」って気持ちでやってみるのもいいんじゃないですかね。
上には上がいる、下には下がいる。当然です。
上や下ばかり見てるとそう感じちゃうからです。
大好きなラッパーで般若っているんですけど、「生きる」って曲ででこんなこと言うんですよ。

「上を見たって始まんねえから下でもねえその真ん中あたり」

前向けってことですね。オタク出しちゃって申し訳ない。
そんな27歳のリアル。ラッパーにもなれんかったしプロゲーマーにもなれんかった。
けど、色々あって楽しいです。
どん底を知れたから見えるリアル、寒いことばっか言ってる自分の里が知れる。
あの頃じゃないからこそ見れる未来があるからこそ色んなことは諦めないで齧り付いていたいですね。

人の人生の背景を知らずに人の人生馬鹿にしちゃいけないよ、自分がそれを言われる覚悟あるなら言ってもいいと思うけど。あんま人のこと馬鹿にせん方がいいぞ。以上。
これからもどうぞ付き合ってってください、色んなお友達。

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