大学のゼミで学んだこと

アメリカにある飲食店を想像してほしい。

味も接客も良い、と近所からは評判で多くの人が来店していた。

ある日、その店の前に看板が立った。

『黒人の入店、お断り』

次に日本にある温泉を想像してほしい。

値段も手頃で、その地域では人気の温泉施設だ。

ある日、その温泉の前に看板が立った。

『刺青のある人の入浴、お断り』

以上の二つの話にでてきた看板は差別的なモノなのか、あるいは差別を助長するモノなのか。

私は大学で、こうしたことについて研究していた。

前述したのは看板の例であったが、ゼミでは主にヘイトスピーチに関する議論を行った。

ヘイトスピーチとは、路上などの公の場所で「〇〇人は出ていけ」といった発言を行うことである。

こうしたヘイトスピーチは法的に規制されるのか。もし規制するならその基準はどうあるべきか。

この議論を行う上で最も大きな争点となるのが、基本的人権である表現の自由との対立であった。

もし上記のようなヘイトスピーチとしての発言を無尽蔵に規制したなら、「政府の〇〇政策はやめろ」といった発言もヘイトスピーチとして規制されることとなり、この国は一気に独裁国家へと進んでしまうだろう。

つまりは程度の問題であり、最近世間でも言われるような「誹謗中傷」と「批判」の線引きを明らかにしようという試みであった。

そこで冒頭の話に戻る。

まずはアメリカの飲食店の話について。

あくまで私の想像ではあるが、この看板に対しては差別的意図を感じる人は多いのではないかと思う。

近年は、特にアメリカではこうした人種差別の問題はかなりセンシティブなものであろう。

そうした状況のなかで、黒人を排除しようとする発言はヘイトスピーチにたるのではないか、という考えがある。

しかし店側から考えれば、「店をやる自由とともに認められるべきだ」という考えもあるし「嫌なら別の店に行け」という言い分もあるだろう。

こうした店側の意見にも一応の正当性があるのである。

もっと言うと、店主が生粋の黒人差別主義者で「黒人と同じ空間にいると、吐き気がして具合が悪くなる」という場合なら、生理的現象として身体に影響が表れているわけで、正当性という部分では認められるのではないかと考えられる。

こうなると個人の思想の自由は保障されることを前提として、一概に「あの看板は法的に規制すべきだ」とは言えなくなるであろう。

次に冒頭の日本の温泉の話について。

一般に「刺青のある人の入浴禁止」というのは、「ヤクザや暴力団からの危険の排除」を目的としていると考えられるだろう。

しかしこの話にも争点が2つほど考えられる。

まず1つめの論点として、現代の社会情勢が考えられる。

つまり、刺青のファッション化である。

欧米などのスポーツを見る方はご存じのとおり、海外のスポーツ選手にとっては刺青は髪型と同じ単なるファッションの一部で、そこには日本のような暴力性の表現は意図されていない。

近年でも若者を中心にそうした欧米文化を取り入れる動きはあり、今後、日本でも刺青の文化もファッションの一部として受け取られるであろう。

そうした場合、刺青=ヤクザとは結びつかないこととなり、看板の文言の意図とは異なるため、社会情勢を考えて随時検討していく必要性があるだろう。

そして2つ目は、「危険の排除」という趣旨に関する争点である。

つまりは、実際にヤクザや暴力団の人と一緒に温泉に入ることに関して危険が生じるのか、という疑問である。

いかに、そうした人たちであったとて、通常のルールにのっとって入浴していれば危険が生じる可能性は低いのではないか。

そう考えると、この話における看板の目的は「危険の排除」というよりは「危険性の排除」といった方がより正しいニュアンスが伝わるであろう。

すると新たな問題が発生する。

「危険性」という不確かな未来の利益のために、刺青のある人の利益を奪うは正当なのか、という問題だ。

※ここでこの文章中における「危険」と「危険性」という言葉の区別について。「危険」とは今まさに危害を加えられそうな状況であり、「危険性」とは将来危害を加えられる可能性のある状況のことである。前者はより場所・時間的に緊迫した状況であり、後者は将来の可能性に焦点をあてている状況であるとする。

差し迫った危機的状況ではないのに、危険性だけで排除するのは正当なのかという問題があり、この問題はヘイトスピーチに関しても言える部分である。

というのも、先述したとおり、誹謗中傷と批判の境目が曖昧であることが問題であるが、とある文言があった時に、それが人道的に許されるようなものであるか、対象者を不快にさせる言葉であるのかは、区別されるべきであろう。

例えば「〇〇人は殺してやりたいほど嫌いだ」という言葉は、言われた側は「実際に殺されてしまう、あるいはそこまででないとしても何らかの危害を加えられるのではないか」といった危険性を認識させるため、規制の対象なる余地があろう。

しかし、「〇〇人は嫌いだ」という言葉は、この言葉だけでは緊迫した危険性を感じられず、言われた側は不快感を覚えるにとどまる。

誹謗中傷と批判を区別する際に、上記のような「危険性を認識させる言葉」と「不快に思わせる言葉」を区別するというのは、ヘイトスピーチ規制を考える上での一つの基準となりうるだろう。

そして無闇に「不快に思わせる言葉」をも広く規制してしまうのは、表現の自由の著しい侵害につながる恐れがあるのではないかと考える。

結論として、ヘイトスピーチ(誹謗中傷)と批判の間にはグラデーションが存在しており、それをひとくくりに法律で制御するのは困難な課題である。

また、そうした基準もそれぞれの時代における社会情勢とともに変化していくものであると考えるべきである。

大学のゼミではこういった議論がおこなわれたが、自分の意見が簡単に論破されてしまうことも多く、難しい問題であることを再認識する機会となった。











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