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私がクリスチャンになった訳 [第9章:洗礼後の試練と課題(完結)]

  これまでの20年を振り返ると本当に様々なことがあった。洗礼前と同様正に山あり谷ありの人生で、私の人生は波瀾万丈としか言えない。33歳の時受洗し、新宗教からカトリックへ改心した。34歳で結婚した夫をクリスチャンとして導き、1年3ヶ月後天国へ見送った。この夫の死と再生の物語「青い蝶々」と題して執筆中である。前夫の他界後すぐに出逢った夫と再婚し、16年間不妊治療を続けてきたが、奇跡が起こり、3ヶ月前に一子である健康な男児を出産した。もう一つの家族にまつわる奇跡。それは日本の単独親権下、生き別れとなっていた実父と半世紀後に再会したことだ。この実父のことについては「隠し子の叫びー半世紀後の実父との再会」に書き記した。キャリア面でも随分頑張ってきた。40代を前にして語学教師から心理士にキャリアを変更したいと思い、40代は仕事と勉強に追われ、三つのキャリア目標を10年かけて叶えた。その三つの目標とはカウンセリング心理学博士号、公認心理師、国際箱庭療法士の資格であり、経済的にも苦しく、お金も時間もない中、セックスもお金も与えてもらえないLGBTQの夫から文句を言われつつ、このキャリアだけは諦めたくないと必死に頑張り、全て手に入れた時、実父に出逢ったり、妊娠という奇跡の贈り物が与えられたりした。クリスチャンとしてはまだ成人したばかりの私。何事も遅咲きである私の人生はスタートしたばかりで、これから展開する神の計画を楽しみにしながら、「然り然り、否々」と言いながら歩んで行きたい、行かねばならぬと思っている。
  クリスチャンになった後、全てがスムーズに進んだ訳ではなく、信仰の面での試練も多くあった。カリスマ的福音派に嵌ったりニューエイジに関心を持った時期もあった。その当時の私は、私の求める奇跡がこういった世界で与えられると信じていた。カリスマ的福音派の教会に通うことで、私は夫のLGBTQが治ると思っていた。ニューエイジ、特にレイキマスターとして活動していた時は、私は奇跡を起こし、人の病を癒せると思っていた。しかし、殊にニューエイジは私の人生を狂わせることを知って恐ろしくなり、神を冒涜した自分を大きく反省し、すっかりその世界から足を洗った。ドーリン・バーチューの大ファンであり、ニューエイジを一度離れても、自分の未来を簡単に知りたいという誘惑に狩られ、ある日、彼女のサイトを検索したところ、彼女がクリスチャンとして回心していたことを知り大変驚いた。彼女はカトリックの教えを認めていなかったりという相違点もあるが、彼女の人生から大きく学んだことは、異郷の神についていくことの恐ろしさと必ず神は時が来れば私たちを救ってくださるということだ。私は今カトリック信者であることに100%納得できているという訳でもない。ただカトリックでいることが、一番私にとって、神と自分との関係を築き上げる上で、最善であり心地よいという理由からカトリックに留まっているという感じである。結局宗派は人が築き上げた物で、私たちは一人の罪人として如何にしてキリストと向き合い生きていくかがクリスチャンとして生きる大きなポイントであると思っている。
  苦しい過去があるからこそ私は前に向かって生きていける。50代で母となりフルタイムの仕事を抱えながら慌ただしい生活をしている私は10年後のプレゼントを最近私に渡した。それは、これまでの半世紀の人生を締めくくる心理学研究(喪失、片親疎外、宗教2世、LGTBQ 等)と執筆と臨床ができるスペースと時間を作るということだ。そして最後にどうしても勉強したいこと、それは神学である。神学を勉強し、小さなコミュニティーを作り、聖書を読み祈りと分かち合い、すなわちレクチオディビーナを行なう場所、物書きをしたり臨床を行なう空間を持てたらと思っている。こんなことを思うようになったのは、5年ほど前、衝撃的な二つの夢を見たためだ。一番目の夢は、カリスマ的福音派教会で多くの人たちが私の未来について祈ってくれた日の夜に見た夢。二番目の夢は、その3ヶ月後ほど後に、神様、あの夢が本当なら具体的にどうそれが実現されるのか教えてくださいと訪ねた日に見た夢だ。ドリームワークで教わったように、現在形でこの二つの夢を語ってみたいと思う。

一番目の夢:
  私は勤め先の高等教育機関の教室で生徒たちと過ごしている。黒い肌のイエス様が教室に入られ私を見つける。そして私を導く。たどり着いた場所は、私の研究室。そこに私より5歳くらい年上の西洋人女性が白い服を着て座っている。彼女の後ろは書斎。イエス様が私たちを紹介してくださる。その女性は私に言う。「私はね、三つも仕事を持っていてなんとかそれを上手く回しながらやっているのよ。牧師で、心理士で、教授なのよ」私はその人に大変好感を持ち、まるで私の理想の人だと思っている。

二番目の夢:
  私は日本のマンションに住んでいて、半分寝ている状態。急にパウロがイエスに出逢った時のように目が見えなくなり失神しそうになる。夢の中で箱庭が現れ、私はその箱庭の中にある鏡の中の自分を見つめる。すると次は私の枕元に何か気配を感じる。東南アジアの家に置いてきた夫にプレゼントされたピンク色の鉛筆の形をした枕が現れ、それが歩き出す。

 これらの夢を通して、イエス様は私と神が出逢う最も深淵な神聖な部分で、真の私に出会わせてくださったと思っている。牧師、心理士、教授・・・そのような人でありたいと私は今でも思っている。カトリックの私は修道女になる気持ちはないが牧師のように聖書を伝えたい。私は教授ではないが教師であり心理士であって、子育てが一段落したら研究も開始したいと思っている。私の臨床心理の道具は箱庭と夢療法である。箱庭療法士として心理療法を行い、ユングや自分のこれまで見た夢について執筆したり、研究もしたい。これらの夢により、神が私に求める私という人間象が罪人というアイデンティティと共に顕になり、私の人生の計画と使命が簡潔に示されたと感じている。
  だから私はこれからも恐れず前を向いて苦しい過去を手放し、主と共に生きて行きたい。けれど、きっと今後の人生の中でも迷いがあると思う。その時は、以下の祈りの詩を思い出そうと思う。この祈りの詩は、私がうつ病にかかり自死を考えていた際、インドへ行けば死ぬ気持ちは消えるよと友人に後押しされ、インド旅行をすることを決めた時に、カトリックのアメリカ人の女性がプレゼントしてくれたもの。私の一生の宝物となっている。私の拙いこのストーリーを最後まで読んでくださった方が神様に守られ、導かれ、歩んでいかれることを僭越にも祈りながら、このストーリーの締めくくりとしたいと思う。

My Lord God,
I have no idea where I am going.
I do not see the road ahead of me.
I cannot know for certain where it will end.
nor do I really know myself,
and the fact that I think I am following your will
does not mean that I am actually doing so.
But I believe that the desire to please you
does in fact please you.
And I hope I have that desire in all that I am doing.
I hope that I will never do anything apart from that desire.
And I know that if I do this you will lead me by the right road, though I may know nothing about it.
Therefore will I trust you always though
I may seem to be lost and in the shadow of death.
I will not fear, for you are ever with me,
and you will never leave me to face my perils alone.

(Thomas Merton, Thoughts in Solitude, page 79.)

主よ、私はこれからどこへ行くのかわかりません。
私の前に道は見えないのです。
そしていつ終わりが来るのか私にもわかりません。
私が実際に行なっていることがあなたの意志に従っているのかさえわかりません。でも私はあなたを喜ばせたいという願い自体がきっとあなたを喜ばせていると信じています。そして、その願いから離れて私は何も行わないようにしたいのです。この信仰によって私は、たとえ私が全く知らない道であっても、正しい道へ導かれていくということを知ります。
なので私は、道に迷い、死の影を歩む時も恐れません。あなたが共にいてくださるから。あなたは決して私を一人にしてはおかれません。

(著者による翻訳)     


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