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隠し子の叫び-半世紀後の父との再会物語#7 父との再会

  やっと父の心の準備ができて会えることとなったのは父との書面のやり取りが一年ほど経ってからだった。父は父の住む遠い他県から私の住む地域の飛行場へ来てくれ外へ出ることなく一時間だけそこで会い、蜻蛉返りで帰って行った。父に会いに行く時、夫も同行してくれた。なんとその日は私がずっと父親と思っていた祖父の命日だった。だから私はこの桜咲く日をパパ記念日と名付けた。到着ゲートから出てくる父をどきどきしながら待った。私たちが再会した瞬間失神してしまったらどうしようかと私は思っていたが、それはあちらも同じ心境だったかもしれない。会った瞬間感動というよりはただ不思議な感じがして、よくわからないまま年甲斐もなく父を抱き締めた。不思議な心のまま父に抱き締められ涙が出たわけでもなかった。ただ父がポンポンと私の腰あたりを軽く叩き、それがなんとなく、50代の私に「もういいよ、君の気持ちは十分だよ、ありがとうね」と、そして私の中にいるもう1人の私、50年前生き別れた頃の2歳の私には「お利口だね、よしよし」としてくれているように感じ取れ、その父の温もりが今も身体中に残っている。
  昼食を取るためにお蕎麦屋さんに入り父と互いに向き合って座った。父が帽子を取り、顔の輪郭がはっきり見えた時、なんとなく自分の心がスッキリしたのを感じた。それは御簾が開き帝の顔をやっと崇めることができたような、大雨が止み雲に覆われた太陽がやっと顔を出し日が射してきたような体験だった。私の顔を見て父が涙を流し始めた。私も父の手の甲をさすって慰めながら涙を流した。それを見て夫も泣き始めた。三人の大人は泣きながら蕎麦を食べた。それからたわいの無い会話をして蕎麦を食べる顔も笑顔に変わっていった。父の甘く優しい声がとても心地よかった。幼児の頃もきっと聞いていたかもしれない声なのにもう忘れていたのだなあと思った。あの頃の私はきっとまだミルクのような匂いがしていたのかもしれないなあ、そのままの私が父の中でずっと生きてきたのかなあと思うとお蕎麦を食べながらやっぱり又涙が溢れてきた。

  お蕎麦を食べ終え写真を撮った後、まだ搭乗時間まで時間は十分あったのに父はもうここらでお別れしようと言った。私も寂しい反面それがいいと心の中で思った。50年ぶりに会ったのに何を話していいか何をしていいかわからない。尋ねたいことはいっぱいあっても遠慮して尋ねられない。互いに心から思っているのにあまりにも長い時間が過ぎてしまい、実際に会うとぎこちないだけの関係になってしまう。それでもとても大切なお互い。とっても近くて、とっても遠い存在。やはり実際会うよりは週に1、2度SNSのメッセージを送り合い、感動を心の中で受け止めている方が心地よい。そんなソウルメイトのような関係の私たち。私の中で父という存在が50年前のまま共にいてくれたように、幼少の頃生き別れた時のままの私と姉が父の中で50年間生きてきたのだろう。
  それから少し経って同じ日本にいても折角繋がった父に頻繁に会うこともできず、毎日、憎悪の心を必死に隠しながら微笑みの仮面を被り、母の顔を見なけれいけないことに耐えきれず、様々な事情も重なり、マイホームのある外国へ夫と共に三年前戻ってきた。姉には母を任せきり申し訳ないと思うが、母と距離を置き、父とは時々メッセージを送り合い、日本にいる時よりは精神的に落ち着いた気持ちでこちらで生活できていることに感謝している。不思議なことにこちらに移ってから父から贈り物をもらうようになり、それも嬉しい。やはり、私の父は、とっても近くてとっても遠い私の中に内在する象徴的父性、アニムス(内なる男性像)、ソウルメイトと捉えるのが何より心地よく、しっくりいくようだ。
父との再会後約二年が経った今、最近、父の実家の応援もあり、姉も父と繋がることができ、私と父のやりとりは秘密事ではなくなった。父には第二の家族があり、私たちは50年前の家族に戻ることはできない。しかし、父母が80代、娘二人が50代の今、ばらばらになった家族が少しずつ和解の方向へ向かっていることは、切なくもあり嬉しくもある奇跡の家族物語だ。(続く)


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