私がクリスチャンになった訳【プロローグ】
私がクリスチャンになった訳【プロローグ】
キリスト教の洗礼を受けて約20年が経った。新宗教の家庭に生まれ、大変熱心な信者となり、その新宗教本部のある大学に進学し、海外布教まで試みた私がクリスチャンになったことを知り大学時代の先生たちや仲間たちはどんなにか驚いていることかと思う。私自身もまさかこんなことになるとは思っていなかった。波乱万丈としか言い難いような半世紀の人生を送ってきた私。傷つきボロボロになりながらもなんとかここまで這い上がるように進んで来ることができた。こんな私の人生をいつも後押ししてくれたのは、宗教や神について問いかける姿勢と勇気だったと思う。クリスチャンとして成人を迎えた記念にこの手記をどうしても残しておきたかった。
私がクリスチャンになった訳、それはたった一言で表せる。神様が私を呼ばれたから。
「あなたはわたしのもの。 わたしはあなたの名を呼ぶ。」
(イザヤ書 43:1 )
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
(ヨハネによる福音書 15:16 )
聖書を読み始めた頃私はこういった聖書の言葉にとても惹かれていた。これらの言葉に描写される神は「神というものはあると思えばある、無いと思えばない。信じる心の中に神は見えてくる」という新宗教で教えられた神の特徴とは随分違っている。心を鍛え、求め続けるうちに見えるようになる神。見える人には見える、見えない人には見えない神。新宗教信者時代はこんな神格が無神論者にも通じる哲学的に深い教えなのだろうと思い感銘していた。しかし私は今「ある神」に惹かれている。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記 3:14 )
この「ある神」が私を見つけ救ってくださった。この神に従うことを断ることもできたが私は受け入れる決意をした。自分の意志で洗礼を受けるということはまるで恋愛のようであり理屈では語りきれない。理由を挙げれば、もちろんいくつかあるし、その理由についてこれから書き始めるつもりだが、結論的には私の受洗は神の不思議な技によるものとしか言えないのだ。
こんな私の雑談がこれから始まるが、この細やかな私の独り言が、真理を求める過程で挫折を味わったり、宗教二世の諸問題の中で苦悩する若い人々にとって、結果的に、何らかのメッセージとなれば良いなあなどど烏滸がましくも思っている。(続く)
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