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隠し子の叫び 半世紀後の父との再会物語#4 海外生活

  私はいつしか、母と距離を置いて生きることが互いにとってベストなのだと理解し、海外生活の道を選んだ。母はいつも姉に「なぜあの子はいつも私から離れていくのか」と寂しそうに語っていたというが、母は心の奥底では、自分が奪ってしまった父親を探し求める心の旅を私が無意識にも行なっていることを薄々気づいていたのではないかと思う節がある。私が駆け落ち同然で日本の難関な資格試験に合格したことも放棄して、母から逃れたい一心で、ヨーロッパ人の恋人の所へ我が身一つで渡った時、旅立ちの数日前に自分のダイヤモンドの指輪を私のサイズに合わせて、私にくれた。デザインが古い物だったので、母が若い時自分で購入したのかとずっと思っていたが、後でその指輪は父からの贈り物であった可能性があることを知り、父を奪ってしまった母の私への謝罪の気持ちと父の私への愛を少しでも託したいという思いがあったように感じられる。
  海外生活が始まる中で、いつしか私は新宗教から脱会し、クリスチャンになっていた。母からコントロールされている気持ちが苦しく、「母の娘」という重く苦しい状況から抜け出すためには、新しいアイデンティティが必要だと思ったことが洗礼を受けた理由の一つである。自分は母の娘という「人間に属するもの」ではなく、「主のもの」であるというキリスト教の教義に心より安堵していた。そしてもう一つ、クリスチャンになり心が楽になったことは自分は1人の「罪人」であるという自覚であり、それにより前生の「因縁」を切り自分の心を自力で直すという教えから解放されたことである。また、クリスチャンへの回心によって、神を「親神」ではなく「父なる神」と言えることは、地上で父と呼べる人がいなかった私にはこの上なく嬉しいことでもあった。慕っていた祖父母に教わった新宗教の教えを30年以上棄てきれなかったのは祖父母との密な心的関わりや長い年月の洗脳の力もあるが、1人のフェミニストとして「親神」という両性具有的「神格」の概念に惹かれ、その教義の中にフェミニズムを開拓していくことを生きがいとし、30歳前後には某一流大学大学院の宗教学科入学を試み、この研究テーマに挑もうとしていた経緯とも関連している。いつも「何かが違う、何かがある」と疑問に感じながら、隠されたものを掘り起こす作業をするような人生を歩んできたと思う。今、過去を振り返る時、一つ一つの人生の選択の中に「失われた父性の探求」という私のライフテーマが浮き彫りにされているのが分かる。
  海外生活を切り開いていく中で、最初の頃の留学の費用は母が負担をしてくれたので、その母からの経済的支援には感謝しなければいけないと思っている。しかし、海外で就職した後も、彼女からの中傷は続き、私の鬱病はどんどん酷くなっていった。独身の頃は毎週電話が来て「いつ結婚するのか」と聞かれた。「30歳を過ぎても結婚もせず子供もいない情けない女だ」と母は私を電話口で叱った。鬱病がだんだん酷くなり、ある日良いカウンセラーがいるからと知人に紹介され訪ねた。そのカウンセラーは聖職者であったことも関係してか強いカタルシス(心の浄化)の効果が現れ、今まで自分では大丈夫だと思っていたことが、やっと苦しみの言葉として口から湧水のように溢れ出てきた。「私が世の中で一番恐れているのは母です。私は彼女に人間性を否定され、コントロールされているような気持ちになります。結婚していないから一人前の人間ではないと非難されます。結婚できないのは顔が醜いからだと言われ、美容整形をさせられそうになりました。母が怖いので日本から出てきました。父にも棄てられた人間です。だから同じように多くの男たちも私を棄てたんだと思います。私さえこの世にいなければ世界はどんなに素晴らしいだろうにと思います」と大泣きしながら訴えた。カウンセラーが黙って頷きながら私の涙と言葉をじっくり受け止めてくれた後、彼が最初に口した言葉に私はハッとさせれた。「まず一つだけ大事なことを伝えよう。あなたのお父さんはあなたを棄ててはいないよ。あなたのお母さんとお父さんの間で何かあったかもしれない。でも、あなたを棄ててはいない」とカウンセラーは言ったのだ。その時、私は家族の真相について突き止めようという気持ちにまではなれなかったが、父に棄てられていないという言葉に大変癒されたのだ。
  34歳の時に海外で亡夫と結婚した。式の前に母と姉が私を感慨深く見つめた。母が私の花嫁姿の写真を撮った時、私は心の中で思った。晩婚になってしまったけれど、この写真も姉の花嫁姿の写真が父の元へ届けられたように、やっと父の元へ行くのだろうか。そう思うとドキドキした。そして「お母さん、この写真、お父さんに送るの忘れないでね」と口から出そうになる言葉を懸命に飲み込んだことを今でも思い出す。結婚後、やっと母から心理的圧迫を受けなくて良いかと思ったが、今度は別の質問が待っていた。それは「いつ子供ができるのか」というものだった。この質問は周囲の人にもよく聞かれてきたが面白い質問である。私は子供が欲しかったのになかなか授からなかったので(奇跡が起きて50歳過ぎた今私は子宝に恵まれている)、いつ子供ができるのかというのは私自身が知りたい質問なのであった。子供は授かりものとしか言えないのに、母は、子供がいる姉と比べ、私の生き方はおかしいと言い、子供のいない可哀想な人だと同情された。私はこの頃から、私がどんなに頑張っても母を幸せにすることはできないということを確信し始めた。私が姉のように結婚をして子供に恵まれ一般的な日本人主婦とならない限り、母の理想とする娘にはなれない。自分のアイデンティティーを殺してまで、親孝行というアジア的道徳感に従う必要があるのか。この永遠の課題は、現在、スクールカウンセラーとして思春期のアジア人の生徒たちのカウンセリングをする中、よく現れるトピックであり、過去の自分の苦しかった経験が悉く活かされている。
  私の一度目の結婚後数年経って、姉が夫との離婚を決意し子供を連れ去り家を出た。その時、母は大変喜び、姉を支援した。私は子供の連れ去りは子供たちと父親にとってはよくないことなのではと意見したが、母は「子供を産んだことがないあなたは、命をかけて子供を守る母親の気持ちがわからないのだ」と言い、相手にしてくれなかった。そして、結局、当時、私は家族として、姉と母の決断を支えるべきではと思い、結果的に姉の連れ去りを応援する立ち位置についてしまったことを今は悔やみ、義兄に申し訳ないと思っている。母や親戚たちにとって、シングルマザーの母を裏切るような海外生活を選んだ、ある意味逸脱した私とは違って、姉は母の側にいて一家を支える母親として常識的に生きているイメージがあったので、この姉の決意に驚いた周囲の人々も多かった。母のシングルマザーとしての誇り高い生き方が世代間連鎖として姉の生き方に影響をもたらした結果とも言えるかも知れない。姉や彼女のような生き方を選ぶシングルマザーたちがよく、「夫はいらない。子供さえいればいい。男はあくまでも経済力。お金さえ落としてくれればいい」といったことを口にするのを聞くが、私には理解し難い考え方である。母親の子供の連れ去りを容認し、シングルマザーとして誇り高く生きる決意を持った母親たちが尊ばれるような日本の単独親権社会が日本独特の「母性偏重」のイデオロギーに影響されているのではないかということを私の家族たちのような生き方の選択と私の意見の相違から強く考えさせられている。
   母と私の関係を分析する時、大変参考になったのが、信田さよ子氏の著書『 母が重くてたまらない−墓守娘の嘆き』( 春秋社、2018年出版)であった。信田氏は、臨床心理士としてカウンセリングで出逢う団塊世代の母親をもつ女性達の心理的葛藤を分析し、彼女達が母親の重たい愛情に苦悩した故にカウンセリングが必要となっていることを示唆し、母娘のタイプを「独裁者としての母−従者としての娘、殉教者としての母−永遠の罪悪感にさいなまれる娘、同志としての母−絆から離脱不能な娘、騎手としての母−代理走者としての娘、嫉妬する母−芽を摘まれる娘、スポンサーとしての母−自立を奪われる娘」の6つに分類し、問題提起を行なった。この分類の中で、私に当てはまるのは、3つ目の「同志としての母−絆から離脱不能な娘」以外全てであると思う。そして姉はこの3つ目の分類に当てはまると言えるかも知れない。子供の頃から「従者」、「永遠の罪悪感にさいなまれる娘」、「代理走者」、「芽を摘まれる娘」、「自立を奪われる娘」として生きていたが、これでは身が持たないと思い、距離を置いてうまく付き合う方法を大人になるにつれて学んでいくことで、自分の心理状態を最善のものにしていくことができた。そうはいえど、母と向き合って話をするということは80代と50代になった母娘であっても、未だに私には非常に苦手なことで、彼女と会い話をする時は飲酒ができる場面では必ず飲んで心をリラックスさせるようにしている。又、着ている物に色々文句を言う人なので、母の嫌いなデザインや色の服は着ないなど相当な努力と心の準備をして再会するように心がけている。
  私は前夫の死後、数年後に再婚をした。その頃、父が私が住んでいる国に私を追って来ており現地の人と再婚し暮らしているという情報を母から得た。これは偽情報であったことが後でわかったが、母はその時「あいつがあなたと同じ国に今いるけれど、近寄ってきたら危険だから知らないふりをしなさい」と言ってきた。私はどうしても父に会いたくなり、少しの情報を頼りに夫と共に父を探したが、その人と後一歩で会えそうになったところで連絡が途切れてしまったので「やはり私の父は悪者で変な人なのかもしれない。母の言う通り関わらない方が良いのかもしれない。でも会ってみたいなあ・・・」そんな思いを抱えながらその人とは会わず仕舞いとなってしまった。
  子供が授からず悩んでいた時、夫が大の子供好きなため、そのことを夫には申し訳ないという気持ちではいた。しかし子供を産めない女という悲しみの中で留まっているのではなく、これまでの人生の中でフェミニストとして「女であるが前に人間でありたい」と必死に生きてきた精神を忘れず、懸命に生きなければと思っていた。働きながら夜間に勉強を続け、いつしか気づいた時には心理学の博士になっていた。博士号を取得した時の私の一番の素朴な感想。それは「私はやっと人間になれた」と思ったことだった。もうこれでやっと母から馬鹿にされずに済むと思った。母からの中傷を気にすることなく、一人の人間として自分に自信を持って社会貢献し、堂々と生きる道を歩めると思えた時、私はやっと自信がつき、母からの呪縛から解放されたような気持ちになったのだ。
  5年前まで海外で心理士として非常にやりがいのある仕事をしていたが(現在は同じ国に戻り、また心理士として働いているが)、母が体調を崩し、長い間母のことを姉に任せ、自由気ままに海外で生きてきた自分の生き方を顧みて、最後の時ぐらい母とともにいてあげようと思い、2、3年間日本に住む決意で帰国した。しかし日本で私を待っていたのは、母との和解ではなかった。信じられないことが私を待っていたのである。(続く)

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