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The story of a band ~#28 confused ~
深呼吸をする。もうこれ以上できないというぐらい。
緊張はしているが、やっとこの時を迎えたかと思うと安堵の気持ちが大きかった。
仁志は、ヘッドフォンを耳に当て、伊東からの合図を待つ。
歌詞カードを見つめながら最初の出だし音をそっと練習する。
「それじゃあ、仁志。始めるよ。」
「OKです!」
ヘッドフォンから曲が流れ始めた。これまでのモヤモヤとした気持ちを吹き飛ばすように、仁志は歌った。
「もっとピッチを意識して歌ってみて。もう一度ここから。」
「はい。」
声が楽器のボーカリストは、なるべく失敗の回数を稼ぎたくない。意識を集中させてトライした。
1曲から2曲、3曲と連続で歌い続けている。テイクを重ねれば重ねるほど声の調子が悪くなる。仁志は、自分の力不足を感じながらも、歌い続けるしかなかった。
「よし、良い感じだと思うよ。結構歌ったから、ちょっと休憩入れよう。こっちきて休んで。」
ソファに座ると、伊東が一枚のCDをかけた。J-POP調の音楽が流れた。
「今、うちの事務所で押している女性シンガーなんだけど、ピッチがずれないんだよねえ。うまいんだよな。」
そう言われ、聴いてみると、確かにうまかった。安定した伸びのある声は、一押しする理由が分かるほどだった。
(俺も負けてられないな。)
密かに仁志は思った。
レコーディングは、18時から始め、現在20時を回っていた。順調に進んでいるので、この分だと深夜に及ぶことはなさそうだ。そもそも、声帯も疲労度を増してくるので、次のラストの曲を歌いきることが仁志に課せられた責任である。
「じゃあ、そろそろラストの曲・・・・」
そう、伊東が言いかけたとき、50代半ばくらいの年配の人物が、若い女性を連れてスタジオに入ってきた。女性は、ストレートの金髪、短いスカートとかなり若い感じがした。
「おう、がんばってるね。」
その人物が伊東に声をかけると、伊東は立ち上がって挨拶をした。聞けば、事務所の社長らしい。男はにこやかに、女性を伊東に紹介する。
「よろしくお願いします。」
女性もにこやかに挨拶をした。
実は、社長は、事務所からデビューさせる女性シンガー候補を伊東に会わせるために連れてきたのだった。
「ランちゃん、歌ってみない?」
社長は、提案した。
伊東は、今から録音する「If anywhere 」という曲に、女性の声を入れると良い感じになりそうだとは思っていた。
そうかと言って、「ラン」に、その役をやらせてみてはどうかという社長の提案は強引ではないかと思った。
しかし、急遽、ランのレコーディングをする運びとなった。
仁志は、困惑した。
突然訪れた見ず知らずの人物に、なぜ俺たちの歌を勝手に歌わせるのだろうか。これも、いい作品を作るためには必要なことなんだろうか。
今河と誠司も何か不思議な光景としてそれを眺めていることしかできなかった。
ランが歌う箇所は、サビ後半部分のバックコーラス。仁志は、仕方なく歌詞をらんに見せ、歌い方を教えた。
「そうそう。そんな感じで歌うといいと思うよ。」
ヘッドフォンをランに渡し、隣で見守る。透き通ったいい声ではあったが、感情はあまり感じられなかった。
歌詞の意味を理解してはいなかったから当然である。
レコーディングは、あっという間に終わり、伊東はスタッフに、ランの声をミックスするよう指示を出した。
社長は、ランにねぎらいの言葉をかけると、伊東に「じゃあ、またね。」とランを連れてスタジオを去って行った。
(俺たちの音楽には、全く興味無しって感じだな。デビュー間近の女の子にレコーディング経験を積ませたかったのかな?っつうことは、俺たちの曲は練習曲か?それが世に出るのか?)
誠司も仁志も内心困惑し始めていた。
そして、その困惑の中、やっと仁志のレコーディングが始まった。
困惑する思いを一旦シャットダウンし、伊東に言われたとおり、ピッチを意識し、思いを込めて歌った。
「はい、お疲れさん!」
伊東からオーケーのサインが出た。
仁志はブースから出てソファに座った。
伊東はスタッフと一緒に曲のマスタリング作業に入っている。
時刻は21時を過ぎたあたり。
思っていたより、余裕がある。
3人はしばらくの間まったりと時間を過ごすことにした。
今河が、ふと仁志がテーブルに置かれたメモ用紙に落書きしたdredkingzのバンドの文字を目にした。
「それ、仁志くんが書いたの?」
「あ、はい。」
「それ、いいね。CDのジャケットに使えそうな字体だね。もらっていい?」
「どうぞ、どうぞ。」
時間は過ぎ、マスタリングにはまだまだ時間がかかりそうだ。
伊東が言った。
「あ、今日中には終わらないからね。とりあえずあとはこっちで何とか頑張るよ。みんなどうする?」
「あ、終わったなら、もう秋田に帰ります。今から帰れば、明日の朝には着くので(笑)レコーディングありがとうございました!」
誠司が笑顔で言った。
「そうか。お疲れ様だね!絶対に気をつけて帰ってね!それと、とっつぁんをよろしくな(笑)また、連絡するから。」
前回とは大違いで充実感に満たされていた。
3人は、伊東とスタッフに丁重に挨拶をして、スタジオを後にした。
自分達の曲がCDとなり、世に出ていく。音楽が形となった時、どれほど嬉しいことだろうか。
少し困惑した場面が頭の中でリピートされていたが、未来を考えると楽しみの方が勝ってきた。
誠司たちは首都高の闇夜の中、秋田へと向かう。
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