「良いキャンペーン、」(2024/07/19の日記)
■ 2024/07/19の日記
・6月2日、梅雨前の大雨が降った日に演劇を見に行った。漠然といきなり見に行こうと思い立ったわけではなく、招待されたのだった。
・見に行ったのは「良いキャンペーン」というタイトルの劇だ。
・つまり今日は鑑賞レポート!
・以前にも、この劇を公演した「譜面絵画」さんという劇団の「幻幻幻幻と現現現のあいだ」という劇に招待いただき、感想をnoteで書いたところ、好評をいただき、今回も呼んでいただいたという次第だ。
・また、今回は推薦コメントを書いて欲しいという事だったのでそちらも寄稿した。他のコメントしている方々は普通に演劇関連の人だと思うんだけど、その中に堂々の「ドリルフィールド」。流石にはずい。内容も、私は譜面絵画さんの事を全然知らないので想像でしか書けなくて、これで大丈夫か?って感じだったが、それはそれとして今から見るものに関して、抱いている印象を纏めるのは悪くない行いだと思った。自分の中で、今回はどういう気持ちで見るか、どんなことを考えながら見るか、その要訣がまとまった感じがある。
・そう、演劇を見ている時「どういう事を考えるか」ってのは、すごく重要なファクターなのだ。前公演の「幻幻幻幻と現現現のあいだ」を見て以来の演劇鑑賞にあたって、当時の、人生で初めて演劇を見た時の新鮮な感想はもう覚えていなかったけども、ただそれだけは確実に覚えていた。
・そうやって、鑑賞における指針みたいなものがないと、劇を見るってのはすごく混乱する。それくらい、演劇初心者にとっては、抽象的なものを多分に含んだ多くの情報が交錯して、何を考えればいいかがわからなくなってしまうのであった。
・劇場は小竹向原という、東京に住み始めてから始めていく方面の駅にあった。周辺は閑静な住宅地で歩く人は見当たらない。駅を出てから雨が降り始めたのだが、知らない土地で雨音だけを聞きながら一人で雨宿りしていると、なんだかジブリ映画の冒頭みたいな切なさと、何とも言えない緊張感が生まれて不思議な気分になってしまった。
・劇場であるアトリエは、住宅地の建物の中の、普通にマンションっぽいとこの半地下にあった。螺旋階段を下っていくと、間接照明に照らされた、ウッド調のムーディな空間があり、私を招待してくれた劇団の三橋さんが出迎えてくれた。
・ここまでの非日常、そして今から劇を見るという緊張で、なんだかよくわからないテンションに充てられていたが、劇場の入口を開けると自然と身がすくむ、劇内は薄暗く、四方は黒い壁に覆われ、そして座席は、小さいひな壇の上に背中合わせに中央に置かれていた。
・脚本家であり演出家の三橋さんは、いつも舞台の空間を型に捕らわれずに使う事に挑戦しているらしい。つまりこれも意図がある演出という事だ、真ん中らへんの席に座り、勿論、知らない誰かと背中合わせの形になりながら、きょろきょろと、周りの小道具を眺めたり、知らない世界の情報が書かれたパンフレットやチラシを見てその時を待つ。
・幾分かして劇場の入口が閉まった。ただ閉まっただけだが、鑑賞中は出入り不可であることのアナウンスがされていたので、ぐっと緊張感が高まる。そして前回同様、いつの間にか役者さんは目の前にいて、いつ始まったかわからない様に劇は始まった。一番初めは写真の奥にある中央の段での語りから始まったが、程なく席の前でも演技が行われるようになった。
・席の前で演技が行われるという事は、この場合、背後で演技が行われるという事でもある。背後から声だけが聞こえてくる状態になる事があって、初めの内は振り返ったり、声だけ聴いたり、色々試していたけど、その鑑賞の仕方は間違っていることに気づいた。
・席と席の間、自分の正面の斜め上あたりに、鏡がついていることに気が付いた。つまりそれを使ってみればいいという事だ。でもすぐに気づかなかったのには理由があり、この鏡も完全な物ではなく、表面は波打って歪んでいた。ので、なんとなくシルエットしか掴むことができない。今、このセリフはどんな人が、どんな表情で言っているのか、目の前で行われている演劇のはずなのに、想像に考えを膨らませながら鑑賞した。
・サイトのあらすじにも書いてあるが、作品は死生観をテーマにした話だった。死生観は私の人生においても重要なテーマであり、前回観た作品よりもかなり気持ちの入った鑑賞ができたと思う。セリフと演出の意味を、私には不可解な、演劇的な観点ではなく、純粋な、脚本に込められた意味を想像しながら見た。そして考えている途中、急に劇は終わった。
・前回もそうだったのだが、演劇ってやつはいつも急に終わる。意味深な演出やセリフの繰り返しの果てに、やりたいことを全て終えたら何も成し遂げないままに終わるのであった。前回も、だんだんと自分がその場に馴染んできて、考えることに慣れてきて、今演劇を見ているんだぞって事を忘れた頃くらいに終わって、ああそういえば演劇を見ていたんだったって事を思い出したんだった。ってことを思い出した。ドアが開き、それをきっかけにさっきまで舞台だった場所は別の何かに変わる。
・鑑賞後、三橋さんと少しだけ感想を共有させて頂いた。今回特に興味深く感じたのは、度々、人の顔が見える事だった。それはつまり、さっきの写真で言う奥と手前側、背中合わせの席の間で演技をする時、必然的に顔はそちら側に向く、そうすると、観ている人たちの横顔が見えるという事だ。老若男女、様々な立場の人がどんな事を考えながら見ているのか…ひとりひとり聞いて回りたかったくらい、色々な表情が見えた、それがとても興味深かった。
・最近、他人が考えていることがとても気になる。私はよく、思慮深いとか、たくさんものを考えてるとか、そういう評価をいただく機会が多いけども、それは別に私に限ったことではなく、みんなきっと色んな事を考えてはいると思うんですよね。ただそれを自分の言葉で発表しているかどうか、言語化しているか、それだけの差ではないかと思っている。
・それを顕著に感じた、可視化したようであった。色んな人の色んな表情。私同様に、立場によって色んな事を考えながら見ているのだろう。
・そして、演劇は贅沢な体験だとわかった。目の前で誰かがその回の客のためにする演技。公演は、何日にも分けて複数にわたって行われる。三橋さんに聞いたところ、やはり初回と最終では演技の内容も質も全然異なるらしい。役者さんだってたくさん練習していても、その日のコンディションや、演技をしていく中で良かれ悪かれたくさん考えて、変わっていくのだ。この日だって特に、半地下の劇場内には、途中まで外の大雨の音が遠く反響していた。これは劇にどういう影響を与えていただろうか。演劇とは体験で、生モノなんだなって感じがした。
・この日は最終公演だったので、こんな話をしながら隣では解体作業が行われていた。先ほどまで間接照明に照らされたムーディな空間は、白熱灯に直接照らされ、機能のみを追求した無機質な工具によって、どんどん解体されてゆく。それを見て、当然は当然なのだが、ああ、この空間も誰かによって演出され、作られていた場所だったんだな。と実感させられた。入ってきた時は「そういう場所」だと感じ取っていたんだけど、それもやはり演出の一環だったってことだ。世の中にはそんな場所、いっぱいあるんだよな実は。例えばバーは、ムーディな場所にバーがあるんじゃなくて、バーを作るためにムーディな場所を演出しているのだ。それもきっと、演技に通じる事だね。
・帰る頃には雨も止んで晴れており、突然流れ込んできた現実に、なんか白昼夢を見ていたような体験だった。相変わらずたくさんの発見があって、とてもよい経験でした。譜面絵画さん、三橋さん、お招きいただきありがとうございました。
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