xRの一部としての"FR"概念の提唱
※SSなどの創作ではなく、割と真面目な文章です※
はじめに
xR/XRとは、近年実用度と注目度が向上してきているVR,ARなどの概念をひとまとめとして表現する包括的な語である。辞書的には、VR(Virtual Reality), AR(Augmented Reality), MR(Mixed Reality), SR(Substitutional Reality)が包括される概念であるとされている。
それぞれを和訳すれば、VRとは仮想現実、ARとは拡張現実、MRとは複合現実、SRとは代替現実と表現される。これらを包括するXRは"eXtended Reality"のことであるとされ、直訳すれば拡張現実[1]となる。
ただしこの表記も一種の便宜的なものであり、実際にはxRと表記することでxを「未知数」ないしは「クロス(交差)」の意味として強調して用いることも多い。
[1] extended=拡張、augmented=増大 が単語の直訳。ARが先にできた語なので拡張現実と訳されるが、混同を避けるためもあってかXRは明快な日本語の単語として訳されず「エックスアール」と発音されることが多い。
このような歴史的経緯を紐解いても、xRとは基本的に現実世界を何らかの形で拡張するものという意味合いを含んでいる。AR,MRは現実世界にレイヤーを増やす形で情報量の拡張(質的拡張)を行っているし、VR,SRは現実世界とは異なる領域に世界空間をつくる=現実世界の領土拡張(量的拡張)のような意味合いを持つと言えるからだ。
しかし、xRのxを未知数として定義した場合、それは拡張という概念だけに留める必要はない。逆の”縮小”を考えることは出来ないだろうか。
拡張しないxR
実はすでに類似の概念の提唱は行われている。DRというのがそれで、Diminished Reality つまり減損現実や隠蔽現実と呼ばれるものである。どのようなものであるかは、youtubeなどの技術デモを見ることである程度把握できる。
つまりDRとは、端的に言えば消すARである。動画像(当然極力リアルタイムに近いほうが良い)から前後のフレーム内容を補完、推測することで本来そこにあるものを背景で上書きするというものだ。こうすることで、前景にあたる「何らかの存在してほしくない物体」をなかったかのように見せかけることができる。
もちろん技術的な理由により背景での上書きを直接行えなくとも、ぼかしやモザイクなどをその上に描画するという方法もある。しかし現状のDRという概念はそこにあるものを消すという目的に帰結したものであり、技術的にもその方向へと収束する技術がいずれ磨かれていくことは容易に想像ができる。
繰り返しになるが、DRとは都合の悪いものを消し去るための技術である。古くは黒澤明監督の「天国と地獄」での民家解体エピソードにはじまり、映画の撮影で不都合な部分を物理的、あるいはCGで除去する技術の延長であると言える。あるいは、xR概念の先駆けとも言えるアニメ「攻殻機動隊」作中の笑い男事件との類似性を見出すこともできる。
……いずれにしてもこれらは、そこにあってほしくないというややネガティブなマインドにより実現されている技術であるとも言えるだろう。では、そうでない可能性の模索という観点ではいかがだろうか。
SF作品に見る先行事例
先ほどの攻殻機動隊の例と同様、実はSF作品においてこのような発想におけるxR技術の例が提示されている。富野由悠季による「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」に象徴される宇宙世紀0090〜0100年代におけるモビルスーツ(巨大人型ロボット)のコクピット周りの表示系がそれであり、逆襲のシャアの作品内で提示されているコクピット内映像はCGによる再構成を経ているという設定がある。
同作の作中では明確に言及されていないものの、随所でCGであるという前提を踏まえた会話がなされている。同作の中でキーアイテムとなるダミーバルーン(センサー系を欺瞞することで偽情報を敵機に認識させ、ただの風船をCG再構成で本物の機体であるように誤認させる装備)もこうした前提を踏まえたものであり、同作の派生作品のひとつである、さびしうろあき版「逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン」では漫画媒体であることを活かしその過程が明確に描かれている。
こうした設定は「宇宙空間では音が鳴らない」「大気反射による散乱光が存在しないため絵的に地味になる」などという作劇上の欺瞞を緩和するものであると同時に、作品内においては「戦争行為を行うパイロットの心理的負担を減らすために、わざとチープなCG(前時代のゲーム相当)で敵機を描画すしている」といった説明が与えられている。
無論、「音が鳴るように補完する」「あえて厳密な光線計算を行わないことで視認性を向上させる」など、作劇上の欺瞞がそのまま作中パイロットの負担を軽減するための技術として反映されていると考えることも可能であろう。
これらは一種の代替現実であり、SRと分類できるかもしれない。しかしながら、xRという語はVR,AR,MR,SRなどの概念が技術の発展により相互にオーバーラップすることで垣根が消失しつつあるからこそ包括的概念として誕生した語であり、技術的な分類はもはや意義を失いつつある。
そこであえて筆者は、最終的に目指す方針、あるいは目標という精神的な分類における概念として、FRという分類を提唱したい。
人に寄り添い縮小する現実=FRの提唱
「逆襲のシャア」における類例は、戦争という極限状態における心理的負担の軽減を目的としていた。しかしながら、高度に発達した情報化社会=現代に生きる我々にとっては(それが極限状態ではなくとも)心理的負担、もっといえば情報処理的な負担は増大する一方である。
そこで、これを補助するものとして FR すなわち Filterd Reality を筆者は提唱する。あえて無理に日本語化するのならば濾過現実となるかもしれない。
ここまでの論説を見ての通り、技術的に見ればこれは現時点ではDRなどとあまり変わらないかもしれない。だが、この概念が目指すのは、都合の悪いものの消去ではなく、都合の悪いものを含めた現実世界へ立ち向かうための補助をするものだ。そこには消す、隠すとは似て非なる精神性と技術が求められることが将来的には期待される。
そして、筆者はこのFRやそれに類する精神性の技術がいずれ大きく発展することを期待してやまない。なぜならば、筆者自身がFRを必要とする不都合な現実に直面しているからだ。
FRの目指すソリューション
HSP(Highly Sensitive Person)という概念が近年注目されるようになってきている。参考:wikipediaの該当記事
一部の書籍で「繊細さん」と表現される概念だが、一般的な人に比べて細かいことに気が付き、深く物事を考え、別の角度から物事を捉えることができる……というような大まかな説明を与えることができる。
注意すべきは、これは病名ではなく気質を表現するものであるということだ。WHOの分類において病気として定義されていないため、病気としての確定診断というものも存在しない。
しかしながら、ここでいう気質とは精神的な傾向といった意味合いであると同時に、これまでの研究では脳神経に先天的差異が存在するという報告もなされ始めている。
ただしHSPという概念自体が比較的新しく注目され始めたものであるため、こうした報告がありつつも研究は途上であり、そもそもHSPという語の定義自体が単なる自己啓発における語ではないかという見方もあり一部に混乱もある。
筆者としては、実際に脳神経の先天的な差異が存在する人が存在し、それに起因して一般的にHSPとされる精神的な傾向を持つ人が存在するという点を重視し、HSPという概念自体の定義についてはここでは追求しない。
ご多分に漏れず、私自身は私自身をこのHSPであると考えている。先述の通り医学的な確定診断を受けることはできないため、同様の志向を持つ人の述懐などから類推することしかできないのだが、そのような自身の境遇からして様々な生活上の「生きづらさ」を抱えることがある。
たとえばひとつには、音についての問題がある。エアコンやPCの冷却ファンなどの雑然性を持つ生活音が非常に耳障りであり、そのような音の常時する場所で過ごすだけで大きな疲労感を伴うことがある。
「何故か」についてはこれも類推でしかないが、雑音として認識されるものの中に何らかの信号(「言葉」として認識可能な成分)を感じ取ってしまい、勝手に脳の一部の領域で言語処理をしてしまうからではないかと考えている。
これは単に手前勝手な推測でしかないかというと一応は根拠があり、APD(情報聴覚処理障害)と呼ばれる現象を引き起こすものと類似すると考えられるためだ。実際、私自身もレストランや居酒屋での会食時には「聞こえない」という体験を多く経験しているし、そのような場所では数日間寝込むような疲労感を伴うことが多い。
そして、聴覚だけに限るわけでもない。
家族とテレビを見ていれば無意識に目を凝らして様々な情報を収集してしまうために、内容を深く理解すると同時に大きな疲労を伴う。
街や人混みでも同様であり、意識して「考えない」ようにしないと次々に現れる街中の刺激を連続処理する羽目になる。買い物をするとなればスペック表とにらめっこが始まるし、単なる性状だと言われても抗いきれない場面も多い。仮にこれが先天的な脳の仕組みの一部だとするならば、ある意味ではうまく付き合う以外の解決法はない。
このような現状に際し、筆者はFRという概念がいずれ花開く日を期待している。エアコンのノイズが気になる私に対して、耳栓というソリューションはそのひとつかもしれない。しかし、それは私に対する呼びかけや危険を察知するための音など真に必要な情報の遮断をも伴うものである。
先ほどのADPのような例、レストランや居酒屋での会食でも、まさか耳栓をするわけには行かないだろう。
つまり、FRの目指すひとつの形とは、(一部の)人が扱いきれないほどに情報が溢れつつある社会において、情報の取捨選択を補助してくれるものであると信じてやまないのだ。取捨選択、すなわちフィルタリングということだ。
まとめ
xRは、人が新たな領域として現実を拡張する方向へと発展してきた。
しかし、それをあえて縮小させることで、現実という我々が離れることができない大地をもう一度見つめ直すことはできないだろうか。それこそが、FRという当たり前かもしれないが見落としているような気がする概念の提唱に込められた願いである。無論いますぐではなく、いずれ将来生まれくるであろう世代たちのためだ。
この文章は第一回XR創作大賞を契機に書かれたものであり、まさに「XRが存在するミライを空想したのちに実現方法を考える」という精神に賛同したものであることを付記しておく。
「辛い現実から逃れる」のではなく共存する。そんなミライを目指すものとして、パワー・オブ・ドリームの発端となれば幸いである。
余談ではあるが、HSPとされる人の生まれる割合は「5人に1人」程度、つまり20%前後とされている。不思議なことに、この割合は数多くの動物においても共通しているらしい。
これらの存在は群れ社会において「最初に外敵の存在に気づき警告を発し、場合によっては犠牲となることで群れ全体を生存させる」という役割を負っている「炭鉱のカナリア」としてしばしば説明される。
炭鉱が次々に閉鎖される昨今、カナリアたちにもそろそろ新しい鳥かごが与えられても良いのではないだろうか?
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