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日本のアメリカン・フットボールの代名詞と言えば、篠竹幹夫である。日本大学フェニックスを率いて、伝説を作り上げた男だ。2006年7月10日、糖尿病を患った末に他界された。享年73歳。個人的にはプロ化へのキーマン的存在だと思っていたので、残念の思いは未だに消えない。

――by Drifter(Koji Shiraishi)Tokyo Sports Press News Paperに約20年在籍した。アメリカン・フットボールはNFL、カレッジの来日時に取材したくらいだったが、篠竹幹夫との出会いで、日本のフットボールに注目するようになった。

【監督が呼んでます】

 1987年(昭和62年)晩秋、11月中旬、デスクの電話が鳴った。不惑間近、野良犬のように外を這い回ってネタを集めることも、あまり歓迎されない状況になっていた。もやもやが続いていたところへの、ベルだった。
「あのさぁ、元気?」
 声の主は中年の女性。新橋五丁目の地下、スナックRの常連で、シャンソン歌手、Katsuko Kanaiの友達でもあるKさんだった。
「元気って、この前会ったばかりじゃないですか」
「今日はちょっと頼みがあるんだけど、いいかしら?」
「お金なら無いよ」
「No,No‼ ある人が是非紹介しろって、せがまれているんだけど」
「一体誰なんですか? その人は?」
「アメラグのさぁ、鬼とか言っている人もいるらしいんだけど……」
「えッ!? 日大の? 鬼の篠竹?」
「そうなのよ。シャンソンのKanaiさんとも友達になっていて……」
「あの篠竹さんがどうして?」
「会って相談したいことがあるらしいんだ。詳しいことは会ってからで……」
 次の日の夕方。新橋五丁目のRで待ち合わせた。
 少々、気が重い感じもあった。"鬼の篠竹"とは面識はなかったが、名前はもちろん知っていた。
 選手を締めあげているらしい。時には日本刀を抜いて脅すこともあるらしい。一応、教職にあるけど、その所業は堅気とは思えない……記者仲間では変人の烙印を押されていた。鬼――さて、どう対応したら良いものか……。

☆篠竹幹夫 1932年8月29日、神奈川県横浜生まれ。商社『篠竹商店』の次男。日本大学高等学校でラグビーで鳴らしたが、日本大学ではアメリカン・フットボール部に入部。卒業後、コーチを経て、1959年に日本大学アメリカンフットボール部監督に就任。パスに重点を置いた「ショットガン隊形」を導入。2003年3月、定年により退職するまでの44年間の監督在任期間中、17度の学生王座に導くなど、日大アメリカン・フットボール部の黄金時代を築いた。社会人に送り出した名選手も多く、日本フットボール界の伝説と呼ぶにふさわしい。

 Kさんの車で、下高井戸の日大フェニックスのグラウンドへ行った。グラウンドの脇に大きなドラム缶。くべられた廃材がメラメラと燃え上がっていた。プロテクターを装備した体の大きな学生が行き来している。何か、戦国時代の砦のように見えた。サイドラインの真ん中あたりに監督小屋はあった。ますます武将じゃないか。
「監督、お望みの方をお連れしましたよ」
「おッ、来たか。練習終わってから話したい事がある。見ててくれ」
「それじゃ私はこれで」
 Kさんはさっと帰ってしまった。私一人が監督小屋に残った。大丈夫かな。サムハラと大書されたものが壁に張ったあった。
 テーブルには差し入れと思われるミネラルウオーター、お茶、コーヒー、スナック、オニギリ……が所狭しと。まるで長丁場を覚悟しろ、言われているような感じだった。監督小屋に入って仁義を切ったのが午後7時を回っていた。練習は何時まで続くのだろうか。
 来客が途切れるのを待って、篠竹に訊いた。
「面白い文字を掲げてますね」
「分かるのか? この字に気が付いた奴はあんたぐらいだ。面白い」
 サムハラーーこの名の神社もいくつかある。千人針の各所に現れるそうで、簡単に言えば、戦時中に話題になった"弾除け信仰"だそうだ。篠竹に敵は多い……お守り、ゲン担ぎであったのだろう。

【鬼からの相談】

 夜9時を回った頃、監督小屋の前に選手が整列して、最後の叱咤が飛んで練習は終わった。
「さぁ、合宿所へ行って話そうか」
 愛車と思われるシーマの助手席に乗せられて、中野区南台の合宿所へ向かった。後年、有難くない話題でテレビにさらされることになる合宿所……。
 シーマが走り出した。運転席の篠竹がニヤリとしながら、言った。
「あんたシャンソン好きかい?」
「Kanaiさんのお友達だとか聞いてますよ」
「K.がしゃべったか。シャンソンは良いじゃないか、ドラマがあって」
 篠竹はそういうと、カセットテープを入れた。軽快なリズムが響き出した。
「おッ、百万本のバラじゃないですか」
「分かってるね。良い曲だよな」
 百万本のバラは、ソビエト連邦時代のアーラ・プガチョワの代表曲。日本では加藤登紀子がカバーした、世界的民謡である。
「何言ってんだ、俺の持ち歌でもあるんだぞ」
 篠竹はまたニヤリと笑った。音楽に趣味を持っているのか、悪い人間ではなさそうだ。今までのイメージが少し、崩れた。

 シーマはスーパーマーケットの駐車場に滑り込んだ。
 後部席に乗っていた、お付きのマネジャーがさっと降りて、店内へ飛び込んだ。
「さあ、付き合えよ」
 篠竹に促されて、後をついて店内に入った。
 二人のマネジャーはすでにパン、オニギリ、スナック菓子などの軽食を抱えて、篠竹の次の指示を待っていた。
「果物も見繕ってな」
「はいッ‼」
「選手に夜食を差し入れするんだよ。練習がきついから、寮の夕飯だけじゃ足りないんだよ」
 監督自ら、選手の夜食を仕入れているのか……またしても、篠竹の強面イメージが崩れていった。
「何考えてるんだ。これは毎日の事だからな」
 再び、シーマの助手席へ。ものの10分ほどだったろうか、南台の合宿所へ着いた。降りると、幹部学生が玄関へ”花道"を作っていた。
「お帰りなさい‼」
 篠竹の背中に張り付くようにして、合宿所へ入った。何だか、凄い緊張感が漂っているようだった。
 
 監督室は3階の最上階にあった。
「まぁ、そこへ座ってくれ」
 応接のソファに座った。足元には、虎の毛皮が敷かれていた。
「もらいもんだから、使わなきゃ義理が悪いからな」 
 篠竹と距離が近くなってきたので、訊いてみた。
「日本刀を抜いてなんて話はどうなっているんですか?」
「馬鹿野郎、あれか。お客さんに抜いて見せたことはあるけど、あんなもので学生を脅したりしないよ。教育者だぜ。日本刀は警察から頼まれて預かっているんだ」
 そういうことだったのか。面白そうな話はどこかで曲がって行くものである。

「監督、お食事の準備ができました」と学生が報告に来た。
 私は監督について1階の食堂へ降りた。
「さぁ、食べながら話そうじゃないか」
 篠竹と相対して座った。驚いた。目の前にお刺身定食風、きれいに配膳されていた。
「学生の修行でもあるからな。お客さんを接待するのに、それなりでないとダメなんだ」

 20分ほど、こんな会話が続いた後、篠竹は本題に入った。
「今、実業団のあるチームのヘッドコーチでK.K.という関西から来た奴がいるんだ。なかなかの理論派で、買っている所があるんだが、こいつが関東の監督連中にいじめられて困ってるんだ」
「ほ~、何が原因なんですか?」
「それが、今まで我々の世界では、指導者はボランティアがほとんど。俺の場合は教育を行う教授だから、フットボールを教えることも"プロの範疇"なわけだ。しかし、他の連中はOBとなって、なし崩し的に指導者になっている。大学からギャラをもらっているわけではない。部費の中から交通費とか割り出しているのだろうけど……」
「いじめられている実業団の指導者と、どうつながるのですか?」
「その実業団はOというアパレル・ファッション系のチーム。関西から名のある指導者を呼んで発表した時に、この度、関西よりK.K.氏をプロ指導者としてお迎えして……と派手にやったんだ。途端に関東のほとんどの大学の指導者たちは一斉にへそを曲げた。俺たちがボランティアでやっているのに、それを差し置いて、関西からプロっていう話はないだろう、とね。話は何だか勝手に膨らんで、プロ指導者のギャラが1億円だとかになって……」
「やっかみですね。そもそも指導者がボランティアということこそ、おかしな気がしますね」
「そこなんだよ。さらには、その問題になった実業団チームOからは、M大学のOBに指導者としての誘いがあったような話も……で、いくつかの関東の大学の指導者は申し合わせて、卒業生は送らないって言い出した」
「で、私はどういう役割を?」
「関西のK.への風当たりを弱める、実業団Oへの批判を弱める……俺が言いに行ったんじゃ、おかしな話になるから、第三者のマスコミが何か良い方法でやってくれると……と思ったんだ」
 話は理解できた。仕掛けは嫌いな方ではない。頭を高速回転させて、策を思考した。
「何か名案があるかね?」
 篠竹は私の顔を覗き込むように言った。
「一つ方法があります」
「何だ、何だ? 言ってみろよ」
 篠竹は目を輝かせた。
「それは、Tokyo Sportsを1ページ買ってもらって、"日本のフットボールを発展させるために、指導者はプロ、専門家であるべきだ”というキャンペーン記事をぶち上げましょう」
「面白そうだな。うまくいくか?」
「盛り上がって来た実業団リーグの現状をスケッチして、監督の直撃インタビューを入れましょう。吠えてください。指導者はプロじゃなければいかん。もう、その時代は来た、と。これで実業団のOが取った行動が正当化されるし、それを受けた関西のK.は、Oチームのリクエストを受けただけ、となるでしょう」
「それでやれるか?」
「まずは実業団Oの責任者を呼んで、この仕組みを説明して、Tokyo Sportsを1ページ買う費用、100万円を承諾させてください。中身の文章は私が責任を持って書き上げます」
「よし、やってみるか。しかし、安いもんだな。あんたのギャラは?」
「私は社員ですから、ありません」

 日を置かずして、Oチームの代表者が内密に篠竹と面会。作戦の詳細を聞いて、承諾した。紙面を提供するTokyo Sportsには、深い事情は話さなかったが、アパレル大手のOが全面広告を打つようなものだから、美味しい事この上ない話だった。
 ネタはほとんど頭の中にあるのだから、改めて取材するようなこともなかったが、形だけ、Oチームの練習を覗いた。
 レイアウトは名人のN.さんが引き受けてくれて、素晴らしい紙面が出来上がった。"日本実業団フットボール緊急特集 指導者はプロ化すべきだ=鬼の篠竹『爆弾提言』"である。
 私は紙面の清刷り(印刷前の確認版)を持って、都心にあったO社を訪問した。部長のN.氏は紙面を見て、驚いた。
「こんな事になるんですね。さすがプロですね」
 念のため、と言って、副社長のG.氏の所へ報告に行った。5分ほどで戻って来て言った。
「このままいってください、とのことでした。喜んでました」
 この紙面は2.3日後の夕刊となって、全国を駆け巡った。
 新聞が出た日の夕方、どこかへ飲みに行こうかと思案していたら、デスクの電話が鳴った。
「あの~、監督がお呼びです。グラウンドの方へ来られますか?」
 日大のマネジャーからだった。断れない。"yes"の返事をした。

 下高井戸のグラウンドへ着くと、もう暗かった。いつものように"篝火"が焚かれ、グラウンドにゆらゆらと影を漂わせていた。
 篠竹は待ち構えていた。
「おッ!? 来たね」
 手招きされて小屋に入った。篠竹は身を寄せて来て、少し小声で言った。
「お前さぁ、結構大変な事になったようだぞ」
「あれで良かったでしょ?」
「良かったどころじゃない。大正解。文句を言ってた奴らが、ハチの巣を突いたようだっていうんだ。笑っちゃうよな」
 篠竹は相好を崩した。
「それは、それは。甲斐がありましたね」
「誰がやったんだって聞いてきたのがいたよ。だから、俺んとこへTokyo Sportsの記者だっていうのが来て、あれこれ聞くから、思っていることをしゃべった、ってな。そしたら、不思議そうだったので、アメリカじゃ。指導者はプロで当たり前じゃないかって解説してやったんだ。文句無いだろう」
 篠竹は仕上げも心得ていた。できる‼ この爆弾によってOチームへの風当たりはぐんと弱まり、関西のK.に対する"妬み"も勢いを失ったようだった。
私の中の篠竹のイメージもすっかり変わってしまった。距離が大分近くなった。

【プロ化へオーナー会の設立】

 88年11月、Tokyo Sportsは江東区越中島のスポーツニッポンの新社屋に引っ越しを始めた。新聞の売れ行きが落ち始めていた。他社に負けないニュースを抜いて、という編集局の緊張感も薄れていた。現場を知らない輩が幅を利かせて、物言えば唇寒し……では、居場所が無い。ちょっとだけ悩んで辞表を出した。止められたらどうしよう、と思ったが、あっさりで拍子抜けした。そんなものか。
 転職先は決めていた。実は実業団Oチームの一件で関わりのできた、関西のK.と再び接点を持つことになる。K.は既存のフットボール専門誌に不満を持っていたようで、大学同窓のベースボール・マガジン社(故)Ikuo Ikeda氏(当時は副社長)に、アメリカン・フットボールの月刊誌の創刊をリクエストしていた。
「誰か良い人がいたら、考えましょう」
 Ikeda氏は乗り気だった。K.はフットボール・フリークで知られていた、知り合いのルフトハンザ航空のM.T.氏に、"適任者はいないか?"と相談。私はT.氏の飲み友達でもあったので、めぐり巡って、お鉢の誘いが来たのであった。世の中、どこかでつながっているものである。
 私はIkeda氏に呼び出されて、正式に話を聞かされ、そして承諾した。
 フットボールという競技には詳しくないのに、創刊に関わろうというのである。
 88年12月、ベースボール・マガジン社に入社して、アメリカン・フットボール月刊誌の編集長を仰せつかった。私はすぐ、篠竹に挨拶に行った。
「実業団リーグに力を入れてやっていこうと思います。援護射撃をよろしくお願いします」
「これから、財力のある実業団の時代になるだろう。その気になれば、プロ化も遠くないはずだ」
 篠竹はちょっと目を細めながら、言った。

 雑誌の仕事は思っていたよりも大変だった。新聞の場合はデイリーなので、締め切りに追われっぱなし、でもあるが、エイやッと間に合わせれば、いったんは切れる。月刊誌の締め切りは月一ではあるが、それに合わせて粘らなければならない。時間があるうちは、あれやこれやと思考を巡らすのである。

 創刊号は第23回スーパーボウルの大特集を組んで、そこそこ売れた。サンフランシスコ49ersがモンタナ・マジックと言われる奇跡の逆転劇にて、シンシンティ・ベンガルズを破った一戦である。日本でも結構話題になった。それにご祝儀相場が加わったのか……。
 といって、褒められるような黒字でもなかった。広告を増やせ、高校生も扱え、など様々な感想とアドバイスを頼りに月刊誌を作った。しかし、思い通りにはいかなかった。
 さて、そろそろ勝負をかけなければならない。温めていた企画を実行に移すことにした。
 実業団チームを持つ企業のトップに紙面に登場してもらって、"夢・展望"を大いに語ってもらうのだ。聞き役は篠竹に務めてもらおうと思っていた。実業団チームとしては、トップレベルの選手がひしめくフェニックスは魅力だ。"卒業時にはよろしく"と直接訴えることができるチャンスだ。そこに広告露出も考慮することになる。月刊誌を仕切る立場としては、これ以上の合わせ技はないだろう。
 篠竹に談判するために、下高井戸のグラウンドへ行った。私の話を聞いた篠竹は、二つ返事で乗ってくれた。篠竹にしても、"寄付を頼みますよ"という、良い機会でもあったはずだ。
 まずアサヒビール(シルバースター)の樋口廣太郎社長。話は専用競技場を造ってプロ化にまで踏み込んだ。対談企画は華々しくスタートした。次は古豪のレナウン(ローバーズ)、NECシステムズ(ファルコンズ)、オンワード(オークス)、日産(パルサーズ)、鹿島建設(ディアーズ)、関西からマイカル(ベアーズ)などがいずれも経営のトップがやって来て、篠竹と熱いトークを交わした。
 前述の"プロ指導者"K.はマイカル・ベアーズのヘッドコーチとなっていて、Toshimine.Kobayashi社長のテンションも高かった。チームの発足を決めるや、三田にあった自社地に天然芝の練習グラウンド、トレーニング設備を備えたクラブハウスも造ってしまった。残念ながら、バブルが弾けて経営が悪化、社内にクーデターが起きた時に他界された。

 実業団チームの経営者を網羅した段階で、経営者の人たちに連帯感のようなものが芽生えたようなだった。
 さらに、ここに強力な援軍が登場した。徳間書店の社長で映画の大映も傘下の置き、動き始めたケーブル・テレビ事業に乗り出しいた、K.T.だった。アサヒビールの樋口さんとはツーカーで、篠竹ともすぐに通じ合えた。やり手の実業家の揃った"オーナー会"の動きは早かった。樋口さんが言い出しっぺで、実業団チームの経営者の人たちに、"集まれる人は集まりませんか?"と呼びかけた。私の雑誌は後追いの格好となった。会場は飯田橋のJR系ホテルである。
 実業団リーグは、東京ドームを一つの舞台としていたところから。H.社長も呼んで、となった。
 篠竹を囲むように大物が顔を揃えた。話の進行役は樋口さんのようだった。
「ここまで来たら、我々の手で次の舞台を作らなければいけないと思ってます。実は山梨県の上野原に我が社の土地があります。そこに専用グラウンドを建てたいと思ってます。とりあえず5億円は集めたいと思いますが、皆さんの協力を仰ぎたいところです」ーー(樋口廣太郎氏=2012年9月16日、他界)
 この会は日をあまり置かずして、赤坂の料亭で"続き"が行われた。仕切りは徳間書店のT.社長だった。実業団リーグを露出して、人気を出すためにケーブル・テレビで中継の方針がを打ち出された。
 日本のフットボールが次のステップに向かって、大きく変わりそうだ。雑誌でいろいろ仕掛けた事が功を奏した。してやったりだ。
 しかし、話はそう簡単ではなかった。
 日本のフットボ―ルは1934年(昭和9年)、宣教師で後に立教大学の教授になったアメリカ人のポール。ラッシュのプロデュースで始まった。きっかけは100%日本人の血が流れる日系二世の留学生たちの居場所作りだった。明治の終わりから大正、農家の次男・三男は"食と職"を求めてハワイ、米国西海岸などへ労働力として渡った。それなりに成功して子どもが育つと、時期を同じようにして日米関係がきな臭くなった。外貨のバランスはドルが強くて、円が安くなった。そこで日系一世たちは子どもたちの里帰りと割安の円での教育を選択して、日本へ留学生として帰還させた。
 しかし、日系二世の留学生たちは日本に来てみると、居心地の悪さを経験するのである。日本人だが、パスポートはアメリカ。公安関係が、"留学生は米国のスパイの可能性もある"と目を光らせたのである。
 ポール・ラッシュは、こうした状況に心を痛め、留学生たちにフットボールをやらせるに至ったのである。そしてフットボールと取り組むことは単に息抜き、レジャーに留まらず、Do your best、It must be first class‼という言葉を掲げた。"ベストを尽くせ、やる以上は一流を目指せ”である。

 立ち上がりかけた"オーナー会"は、まさに"フットボールの父"の言葉を実践に移そうとしていたのであった。
 

【プロ化への壁】

 良い方向へ進もうとしいた、日本のフットボールだったが、ひょんなところからブレーキを掛けられてしまった。何と、協会内部から、オーナー会の動きは急速過ぎる、という声が出てきたのであった。実業団チームの指導者たちはその企業で禄を食んでいて、協会の役員を兼任している者が何人かいた。オーナー会は実業団チームを持つ企業のトップであるから、力関係ということから、オーナー会が協会も牛耳ってしまうのではないか、との懸念である。またしても、指導者がプロでないための弊害にぶち当たってしまったのである。
 実業団リーグをケーブル・テレビで定期放送するため、徳間書店の映像担当S.は千万単位の現金をアタッシュ・ケースに詰めて、協会に直談判に及んだが、煮え切らない対応を繰り返すばかりで、埒が明かなかったという。
 我が編集部にも、大阪の広告代理店DとつながりのあるAが訪ねて来たり、鬱陶しいことが続いた。

 下高井戸で篠竹に会った。
「協会にとっても良い事ばかりなのに、了見が狭いとしか言えないな。めげないで頑張ってくれ」
 
 93年、サッカーの日本リーグがJリーグとなってブレークした。W杯、五輪などへの出場が非常に身近なものになった。またバスケットの日本リーグもプロリーグとの分裂で混迷を極めた時期もあったが、2016年、Bリーグとして一本化され、W杯、五輪でも列島を沸かせる話題を提供させるまでになった。遠い、遠い存在であったようなNBAも結構身近に感じられるところまで来たのである。
 こうなると、歴史もあってファッショナブルなフットボールがプロ化しないでいるのは、なぜなのだろうか? と改めて思わざるを得ない。

 オーナー会の正式な立ち上げにブレーキがかかった後も、篠竹から呼び出されて、ちょっとした代筆を頼まれたり、調布のStrawbery Gardenで食事をしたり、の交流があったが、その頃から、個人マネジャーのようなM女史が表立つようになった。マネジャーだから、篠竹の周囲を固めるのは当然だが、そのうち、このマネジャーを通さないと、篠竹に連絡ができなくなってしまった。
 どうやら、夫人にもなるようだ、との噂も流れて来た。
 いつだったか大きなイベントで、プレス・ルームにいると、篠竹が一人でやって来て、言った。
「いいから電話して来いよ。頼みたい事もあるんだよ」
 しかし、電話すると”壁”があった。篠竹の側近は後援会関係を仕切っていた実兄とM女史だけになったようだった。下高井戸も敷居が高くなって、ふらっと行く人はいなくなってしまったようだった。
「何だか、結婚するとか言ってるらしいわよ」
 新橋五丁目のRで、私を篠竹に紹介したK.はグラスを傾けながら言った。
「そうですか? だから、昔を知っている人間は近づけたくないのかな」
 何となく、篠竹と疎遠になってしまった。もう一度、色々遠慮なしで話をしたいと思っていた。叶わぬまま、風の便りに訃報を聞いた。
 公式には"生涯独身"となっているが、M女史のリクエストで"籍を入れた"との話も聞いた。それならそれで……とさほど気に留めることもなかった。

【沖縄逃避行?】

 世の中、令和になってから、また篠竹の噂を聞いた。他界した後、様々な物は誰が引き継いだのか? それは当然夫人として籍に入った人が、まずその権利がある。当然の事である。
 法律的にもそれで良いのだが、噂は信じられないようなスケッチが含まれていた。
"沖縄で夫人の姿が目撃された、というのだ。そして隣を歩いていたのは、フェニックス出身の名QBのU.の父親だった"――と。この人は一部では反社と噂されていた。
 さらに"没後、3階の監督室から、色々な物が運び出された"とも。
何とも早や。生前から、計画されていたのか……。
 1970年代前半に日本のフットボールのカリスマQBだった、フェニックス輩出のMasayoshi.Sasoriは現役引退後、沖縄でバーを経営していたという話があった。また沖縄なのか。
 何だか、篠竹という人は色々な人に色々な物を与えて……本人にその見返りはあったのだろうか? 心を許せる人が何人いたのだろうか? できることなら、もう一度、本音で訊きたいと思った。

 




 



 


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