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007に憧れて? 成金列車の客となった東洋人記者の笑えぬハプニング

――by Drifter(Koji Shiraishi)Tokyo Sports Press News Paperに約20年在籍した。1980年、ロンドン・ウエントワースGCでゴルフ世界マッチプレー選手権を取材。終了後、ロンドンのビクトリア・ステーションから、オリエント急行の客となった。007に憧れて?

【日本人は分からん】

「えッ!? オリエント急行でイスタンブールへ行くのかい? ずいぶん無駄なお金を遣うんだな。安い飛行機なら、三分の一で済むぜ」
 1980年のゴルフ世界マッチプレー選手権。ロンドンはウエントワースGCのプレスルーム。顔見知りになった地元の記者たちから、"口撃"を受けた。オリエント急行は安くない。金満ツアー? ほとんどがカップル乗車のようで、おひとり様35~40万円だったのではないか。それも通常の便は[ロンドン→ベネツィア]である。
 確かに、ロンドンからイスタンブールに行って遊ぼう、というなら、彼らの言う通りである。しかし、我々は……私とMカメラマン……は連載企画を持ってやって来たのだ。

 1980年の夏の終わり。私はSデスクに呼ばれた。
「マッチプレーの取材頼むな。ロンドンだな? あの辺で何かネタになるような取材があるかな?」
 ロンドンまで行って、ゴルフの試合一つだけの取材では効率が悪いと言っているのだ。紙面を割ける"お土産"を持って来いというわけである。
 私jは、待ってましたととばかりにボールを返した。
「スポーツではないんですが、ロンドンで話題になっているものがあります」
「ほ~,それは?」
「オリエント急行ですよ。日本のテレビも特集を組んだりしてるし」
「で、切り口は?」
「007を気取って、お上りさん風に。自分が被写体になりましょう。羽織袴のお上りさんで」
「軽妙なタッチの連載にするか」
 こんな経緯があった。
 オリエント急行は007(ロシアより愛をこめて)、アガサ・クリスティの小説・映画で優雅なイメージがある。ジェームズ・ボンド、名探偵ポアロ……パリッと着こなして一度は乗ってみたい。そういう人が少なくなかったはずだ。
 しかし、誕生の地では"成金列車"という捉え方であったようだ。
 金持ちが、訳ありの人を連れてお忍びで乗る、そんな舞台になっていたようだ。
 審査付きの完全予約。「取材を兼ねて」とアプローチしたところ、まずは「No」の返事が来た。附則説明では「プライベートを大事にして乗車されるお客様ばかりなので、取材は好まれません」。訳ありのお忍びばかりってことだね。そこで、飲み友達と作戦を練って折り返した。私の海外出張のシンクタンク的存在だった、旅行代理店のT.N.さんと知恵を絞った。
 NさんはA学院大学の元応援団長という経歴を持っていた。初対面から、馬が合いそうで、何かといっては、打ち合わせと称して、飲んだりしていた。
 オリエント急行の代理店に、再度アプローチした。 
「お客様を取材するつもりはない。被写体は取材記者本人。他のお客様を邪魔することなく、過ごします」
 これでOKが来た。で、ゴルフ世界マッチプレーの取材を終えたら、オリエント急行の客となることが決まった。

【さぁ、羽織袴】

 着物なんて子どもの頃、正月かなんかに着た覚えはあるが、さてさて……ワイフの母親、Seikoさんに助けを求めた。日常は練馬区貫井町の自営町中華『Aji Ichiban 』のシェフだったが、趣味で舞踊をやり、時々、着付けの腕で知り合いをヘルプしていた。
 一揃い揃えて、一週間ほど特訓してもらった。
 こうして準備を整えて、ロンドンへ行った。この時はサントリーが大会スポンサーとなっていた。広報部の人たちは、私の企画を知ると、大変面白がっていた。ゴルフの取材に来て、"007になろう"などと考えて、それを大真面目に実行しようという人は、まずいない。これが、主催者代表として会場を訪れていた、S社長の耳に入った。「食事をしながらでも、話を聞きたい」となったようで、ロンドン市内の日本割烹に招待された。
「オリエント急行をパリで途中下車して、TGVでマルセーユへも行かれるとか。アビニョン辺りのワイン街道に、うちのワイナリーもありますから、是非立ち寄ってください」
 S社長から、色々と情報をもらった。
 大会はオーストラリアのグレッグ・ノーマンがスコットランドのサンディ・ライルを下して、初優勝を飾った。
 1980年秋、いよいよ、far eastからの東洋人記者が、007を気取って? オリエント急行に乗り込む時が来た。

【ビクトリア・ステーション~】

 私とMカメラマンはテームズ川添いのラニー・ミードの宿舎からタクシーでビクトリア・ステーションへ乗りつけた。専用のゲートからオリエント急行用のホームに入った。男女のツアースタッフたちはベージュのアクアス・キュータム製のスーツに身を包んでいた。さすがのGreat Britain。
 金持ち旅は、まずドーバーを目指す。そこからフランスのカレーまでフェリー。カレーから、いわゆる濃いブルーのオリエント急行の列車となっていた。
 シックないで立ちのスタッフに予約確認書を見せると、丁重に席へ案内された。さぁ始まるか。Mカメラマンは「礼服を持って来ましたから、任せてください」と入れ込み気味であった。
 私は着物をちゃんと着られるかなぁと、着付けレクチャーを思い起こしていると、添乗員風のアジア系の女性に声をかけられた。日本語だった、日本の旅行会社の、ロンドン駐在日本人スタッフだった。
「Tokyo Sports Pressの方たちですね。日本人のご夫婦が結婚の記念旅行で乗車されるんですが、パリまでヘルプお願いしてもよろしいでしょうか?」と言って来た。江戸っ子は頼まれちゃ、嫌だとは言えない。
「何ができるか分かりませんが、困ったら遠慮なく、と伝えてください」
「ありがとうございます」と旅行会社の日本人女性スタッフは言い、年配のご夫婦を連れて来た。
 名刺を交換した。サクラフィルムの缶を作っている会社の社長夫妻だった。結婚何周年記念とかという話だったが、何年か覚えていない。
 イギリスは取材で何度か来ているので、知っている事を、車窓を流れる風景を見ながら、語った。ドーバーからフェリー。有名な"白い"壁を眼前に見て、ご夫妻は大変満足の様子だった。

【フランスのカレーから宴会は始まった】

 午後7時頃だったか、英国ドーバーの対岸、フランスのカレーから"オリエント急行列車"がスタートした。映像で見た濃い青基調のシックなやつである。コンパートメントに案内される。お~007じゃないか。相方はロシアの美人スパイではなく、いかついMカメラマンだが……。
 全員が各コンパートメントに落ち着くと、ディナーの飲み物などの注文を取りに来た。やっぱり、ここはドライ・マティーニでしょ。007に憧れた? お上りさんなのだから。
 そして、この出張の前に特訓を重ねた"羽織袴"への生着替え。足袋に雪駄。日本なら、やくざの出入りに間違えられそうだ。パンチパーマだし、紙一重じゃないか。礼服を着たMカメラマンにしたって、同様だった。
 盛装した私が、ご夫妻を迎えに行くと、目を見開いてたまげていた。そりゃそうだろう。

【さぁ、ネタ作りを始めよう‼】

 ご夫妻を連れてダイニング・カーへ行った。ジェームズ・ボンドが、「赤ウィンだ」「白だ」と飲み物をめぐって、ロシア系のスパイと駆け引きをする、あの車両である。
 テーブルもあらかじめ決まっていた。しかし、酒が入ってくると、動きが出始めた。我々は最初から、多くの視線を集めていたようだった。羽織袴で、私の動きをカメラマンが追って、フラッシュを焚いていたのだから。
 次々とテーブルにやって来ては質問してきた。
「日本のムービー・スターですか?」
「いやいや、チップ・スター」
「What!?」
 その中で若いブロンドの女性と、その保護者的女性が「座って話をしてもいいですか?」と。
 ドライ・マティーニの酔いも回ってきた。
「もちろん、いつまででもOKです」と。
 この二人はオーストラリアのシドニーからやって来たようだった。
「今度はオーストラリアの汽車旅はいかがですか? うちは農園をやっています。好きなだけ滞在してもらっても……」
 おいおい、あまりもてても困るんだ。映画なら、飲み物を持ってコンパートメントへ移動。現実はそうはいかない。発展してはいけない諸事情があるのだ。
 ダイニング・カーにはバーもピアノもあった。懐から千円札を出して酒を頼み、ピアノ弾きにチップを渡した。ムービー・スターなのである。ダイニング・カーは自分を中心に回っているようだった。オーストラリアの女性のリクエストに応えて、ピアノの伴奏で、"Root 66"を歌ってしまった。
 写真は十分に撮れた。ネタも相当集まった。連載の10回分くらいはいける。
 オリエント急行はパリのリヨン駅へ滑り込んだ。私は一時下車した。トランク、アタッシュケースを下げて、ホームを歩いた。羽織袴、雪駄である。すれ違う人たちが振り向いて、口々につぶやいた。
「ムービー・スター?」

【TGV(Train Grande Vitesse=高速鉄道)でマルセイユへ】

  オリエント急行の客となって、"成金パーティー"でネタを集めた翌日、フランスの誇る、高速鉄道でマルセイユへ向かった。ジャン・ギャバン、アラン・ドロン……男の匂い、ちょっと危ない雰囲気の街。麻薬がテーマのフレンチ・コネクション(2)では、メインの舞台となっている。
 マルセイユでは、色のネタを集めようと思っていた。オリエント急行での飲み食いで、少々胃が重いように感じたが、いつものPシロンで落ち着いたようだった。
「オリエント良かったですよ。みんなこっち向いてましたね。良い絵が撮れましたよ」
 Mカメラマンは興奮冷めやらずの様子だった。時速250km超え。こんな会話を交わしていると、あっという間に3時間が経ち、TGVはマルセイユに着いた。観光案内で安宿を訊いた。「先方に伝えたので、確認の電話を入れてくれ」と言うので、安宿に電話を入れた。英語が通じる気配がなかったので、精一杯の"ブロークン・フレンチ"をぶつけた。何とかなった。しかし、マルセイユの町は英語が通じない。少々不安……。
 何とかTaxiで安宿に着いた。荷物を部屋に置いて、外へ出た。目の前は港で、たくさんのヨットが停泊していた。港に面して小ぎれいなレストランが何軒もあった。何かの映画で何度も見たような……。
 どこへ入っても良さそうだ。食レポ、楽勝じゃないか。
 ニ、三軒をチェックした後、次の店に落ち着いた。
「良い絵が撮れるように注文してください」
 Mカメラマンも気合が入っていた。私も負けてはいられない。
 ワイン? 南仏であれば、何を頼んでも間違いはないだろうが、たぶん価格もリーズナブルだろう、ハウスワインの白。生ガキ12個。特性ブイヤベース2人前。"絵にしなければね"と言いながら、注文した。カキは大振りでジューシー。ワインもお代わりして、次々と平らげた。食レポで、良い絵を撮らなければならない。ブイヤベースは食べきれずにギブアップ。大満足で安宿に帰還した。
「良い絵が撮れたし、今日もやりましたね」
「おかげ様。明日も頑張ろう」
 午後八時、バタンキューでベッドに転がった。ぐっすり、気が付けば翌朝……のはずだったが、2時間もしないうちに、おなかの異変で目が覚めた。トイレへ急行。オリエント急行からの、胃腸への負荷MAX超えで悲鳴を上げたようだった。トイレ急行は一回で済まず、2回、3回……出口は一つでは間に合わず、上からも逆流が起きた。忙しい。苦しい。目も回る。消化不良に食当たり? 熱が出たのも確かだった。
 英語が通じない。安宿のマネジャーに状況を伝えて薬を頼んだが、ダメだった。翌日何とかドラッグ・ストアを探しあてたが、ここでも"英語+ブロークン・フレンチ"は核心には至らず、やっとこ鎮痛剤を手に入れるにとどまった。それでも心身を休めることはできた。ほぼ丸一日、ベッドでごろごろした。何とか体調が戻った。
 Mカメラマンは街へ出て自分の食糧を調達しながら、飲食がままならない私を案じて、バナナを買ってきてくれた。その節はお世話になりました。

【オリエント急行再び】

 私たちはオリエント急行に再乗車するために、パリへ戻った。体調が戻ったので、連載のネタを求めてパリの街を歩いた。テレビや映画で見たことある、カフェ・ドラぺ、ラ・ロンド、カフェ・ド・ラールなどをめぐった。人混みを歩いていると、一人の少年が近づいて来て、胸のあたりにボール紙状のものを当てた。何か書いてあった。"Give me money”、「えッ!? なんだ!?」と思った瞬間、ボール紙の下で少年の手が動くのが見えた。私の腰バグをまさぐっているではないか。「この野郎‼」と大声を出しながら、少年の胸を突くと、少年はさっとナイフを抜いて私を牽制した。私は蹴りを繰り出した。少年は車道へ飛び出し、車を縫って逃げた。思えばやや色黒でジプシー風だったか。被害はなかった。また一つ、ネタができた。
 翌日の夕方、リヨン駅から再びオリエント急行の客となった。ベネツィア行き。ほとんどのオリエント急行は[ロンドン→ベネツィア]で、たまに特別版、記念版が[ロンドン→イスタンブール]のフルコースを走った。
 再乗車のオリエント急行。カレー→パリ間で"宴会ディナーは済んでいるので、静かなものだった。それぞれのカップルが飲み物を片手に車窓を眺めながら、談笑している感じだった。
 私はMカメラマンとの"カップル"なので、ロマンチックになりようもなく、ハイボールを2、3杯飲んでコンパートメントに戻り、ころりと夢の中に入ってしまった。目覚めて朝食を摂ってのんびりしていると、ベネツィア着となった。ベネツィアは初めての都市、本当に水の中にあって、ちょっと感激もの。映画やテレビで見たゴンドラのタクシーが目の前を走っていた。
 ここから先は国際列車に乗ってまずはベオグラードを目指す。そしてブカレスト経由の列車に乗って、イスタンブールへと向かう。

【ベネツィアの素うどん】

 国際列車も初めての経験。アレンジしてチケットを揃えてくれた、旅行社の、我がシンクタンクでもある、T.N.さんも列車の環境までは把握していなかった。私は軽く、甘く考えていた、飽きたら食堂車でも行って一杯飲んだりしているうちに、どんどん進んで行くだろう。他の客とでも親しくなれば、ネタも集まるってわけだ。
 さぁベネツィア、水の都を散策しながら、あれこれ”ウインドウ・グルメ”。
「やっぱり手打ちうどんでしょ」
「ここは埼玉じゃありません」
「分かってないねぇ、スパだよ、スパ」
 一軒のこじんまりレストランへ入った。イタリア食堂。
「素うどんでいってみようか」
「また、また」
 Mカメラマンの表情に、[?]が浮かんだ。
 うどんも麺の美味しさを確かめたいなら、なるべくシンプルな形で食すべきである。だから私はスパなら、アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノと決めている。イタリア中南部アブルッツォ州山間部の家庭料理で、お供はオリーブ・オイル、ニンニク、唐辛子、パセリ……である。
 グラス一杯の白ワインと"素うどん"を堪能した。ちょうど良いモチモチ感とピリ辛で、Molt delizioso(very delicious)‼。
「駅弁買っておいた方が良いと思いますが」
 Mカメラマンは日本の出張時のルーティーンを提案してきた。
「食堂車に行けば良いと思っているんだけどね」
 とは言ったが、念のため、ワインとフランスパンを使った大きいサンドを仕入れた。

国際列車にはご用心。車掌とて油断めさるな

【国際列車は泥棒列車】

 午後4時頃……ザグレブ(クロアチア=旧ユーゴスラヴィア)経由のベオグラード(セルビア=旧ユーゴスラヴィア)行きの国際列車は、ベネツィアを出た。我々は一等車……コンパートメントに入った。ソファは倒せばベッドになる。
「これで夜はぐっすり。楽勝じゃないか」
「そうですね。ちょっと車内を探検してきましょう」
 MカメラマンはNikkonを一台ぶら下げて、出て行った。車窓からは田舎の風景が広がっていた。このままぼーッとしているのも悪くないが、連載用のネタも欲しいところだ。
 そこへMカメラマンが戻って来た。
「何か、この車両を外れると、雰囲気が変わっちゃうんですよ」
「ほ~食堂車はあったの?」
「いや、そんな雰囲気の車両は見当たりませんよ」
「えッ!? 本当に?」
「ここは一等で部屋別になっていますが、他は二段ベッドで結構な人が……」
 食堂車でちびちび飲みながら、という思惑は崩れてしまった。念のため仕入れたウィンとサンドだけだ大丈夫かと、不安になってきた。
 ベネツィアを出て3時間弱で列車はある駅で停車した。どうやらトリエステという地名のようだった。
「どこの国ですかね? 手持ちの食糧が足りなくなると大変ですね。何か見てきましょうか?」
 Mカメラマンが言った。少々ビビりが混じっているように見えた。
「じゃあ、一緒のホームに降よう。誰かに停車時間を訊いてみよう。買い物はドル札をちらつかせれば良いだろう」
 ホームで訊いてみると、「10分くらいだろう」との情報だった。"だろう"で、どこの国かは分かっていない。しかし、出国・入国の手続きをしていないのだから、イタリアを出ていない。冷静に考えれば歴然なのだが……。
「最低でも水ですね。ウォーターで良いですか?」
 私はまたホームで時間を潰している人に、水飲み場を指さして、何と言うか、訊ねた。
「acqua、acqua」と。
 Mカメラマンに、「アックア、アッグアらしい」と言った。
 Mカメラマンは、ドル札をひらひらさせながら、「アックア!、アッグア!」と誰彼となく、問いかけていた。私は荷物も心配だったので、先にコンパートメントへ戻った。
 5分ほどでMカメラマンが戻って来た。両手にミネラル・ウオーターのペットボトルを持っていた。
「地下に売店がありました。一本2ドルくらい取ったかな。ぼられましたね」
「この際、命の水だよ」
 この後、列車はザグレブに向けて走り出した。言葉の通じないところで、気分的には綱渡りのような水の仕入れだった。
「さあ、水も補給したし、少し腹に入れるかな」
 我々は、ベネツィアで買い込んだ"駅弁"に手を付けることにした。ワインもサンドもまずまずで、ちょっと嬉しかった。神経を使ったせいか、ワインの酔いが早かった。疲れもあった。
 ワインを一本空けたところで、眠くなったので、ベッドを作って寝た。コンパートメントだから安心。すっと眠りに落ちた。どのくらい経ったか、「パスポルト! パスポルト!」の聞きなれない声に起こされた、
「What!?」
「パスポルト・コントロール‼」
「おッ、Mさん、税関のようだ。パスポート用意して」
 答えはイタリアからの出国だったのだが、この時は分かっていない。英語は通じないようで、ともかくパスポートを出して、ザグレブからベオグラードへ行く、と告げた。二人の役人は納得したように、パスポートにスタンプを押して出て行った。
「何か変な感じですね。勝手に入って来ちゃって。高いカメラも持っているし。ちょっと怖いな」
「まあ、もう一度横になろう」
 しかし、眠りに落ちた瞬間に、また「パスポルト‼」の声で起こされた。
「何だ、今度は⁉」
 イタリアを出国して、今度はケロアチアへの入国だったのである。共産圏だ。
「パスポルト・コントロール‼ パスポルト・コントロール‼」
 二人の役人と一人の車掌風は居丈高に。前回とは違って、目が怖い。
「Mさん、入国の税関。パスポート出して」
 我々はそれぞれパスポートを提出した。スタンプを押して、「Welcome‼」と来ると思った。
「No‼ No‼ Tax‼」
「入国税らしい。How much?」
「サルティ‼」
「えッ!? 30ドルだって!? 二人で?」
「No, each‼」
「一人30!? 聞いてないぜ」
 能面のような顔の役人は、がんとして「30」と言った。
 しょうがない。アタッシュケースから別にしておいたキャッシュを出して払った。二人の役人は”welcome”なんて間違っても言わないような仏頂面で、入国スタンプを押して出て行った。
「何て奴らだ。入国に30も取った。共産圏でぼられたか?」
 旧ソ連のシュメレチボなんかでは、プレボーイなどの雑誌を没収されたり、色々難癖を付けられ罰金などという話を聞いたこともあった。
 しかし、見知らぬ共産国、真夜中……難癖かどうか、冷静な判断ができるはずもない。
 Mカメラマンとトリエステで仕入れた水をちびちび飲みながら、苦笑いを交わした。
「これでベオグラードまでは同じ国内だから、税関はないね。安心してひと眠りしようか」
 少しだけほっとしたのも手伝って、またすっと眠りに落ちた。貴重品は身に近い所に置いた。アタッシュケースは頭の上の棚に。MカメラマンはNikkonの高級機材の入ったバッグをベッドの下などに入れた。
 どのくらい時間が経ったのか分からなかったが、何かの異変を感じて目が覚めた。頭の上方に右手を伸ばした。「ン⁉」。左右に動かしたが、何にも触れなかった。
「あれ!? 変だ。Mさん‼ 起きてくれ‼」
 私は室内の電気を点けながら、少し大きな声で言った。
 焦った。そんなはずはないだろう。ベッドの下も覗いた。何もなかった。
「Mさん、事によると泥棒にやられたかもしれない。一応探して来るので、ドアを閉めて出ないでください」
 Mカメラマンは少し緊張した面持ちでうなづいた。
 さあ捜索を始めよう。しかし、こちらも浮足立っていた。寝ていたタイツのまま、靴下で小走りに。次の車両に移って、各部屋を覗いた。Mカメラマンが言っていたように、二段ベッドの部屋はどこも満員状態だった。自分のアタッシュケースがどこかにあるに違いない。車両を移っては部屋をチェックした。見覚えのある車掌風の男がいた。入国の時、税関の役人と一緒にやって来た男ではないか。
 私は必死に言った。
「泥棒にやられたようだ。アタッシュケースの飛行機のチケット、現金、クレジットカードが入っている。警察を呼んでくれ」
 車掌風の男は「Non engere……」というような感じで言った。うす笑いも浮かべているように見えた。英語は分からないか? しかし、私が英語で訴えていることは分かっているようだ。では?
 私は一度出直そうと思い、コンパートメントへ戻った。MカメラマンはNikkonのバッグを抱え込んで、険しい顔をしていた。
「だめですか?」
「今のところ、ね。イスタンブールから先の飛行機のチケット、クレジットカード、もちろんパスポートも。だから、トルコへ入るのも支障が出るかも。ベオグラードで日本大使館へ行って、SOSにしようか?」
「そうですか。決めてくれたら、私はそれで」
 この事だけでも、充分にネタになる。そんなことを考えている自分もいた。ワークホリックか?
「OK、もう一度、念のため車内を歩いてみるよ。実は車掌の様子がちょっと気になるんだ」
 私はもう一度、車内のチェックに出た。よくよく考えれなば、ユーゴラビアは共産圏で、入国してから、どこかの駅に停車したわけでもない。人が乗り降りしたことが無い。泥棒がいるとすれば、まだ車内。そして中身を漁った後、アタッシュケースはどうするだろうか? 一般的に財布を拾って、警察に届けない人は中身を抜いて、財布はどこかへ捨てる……。
 私はある仮説を立てた。一等のコンパートメント以外は結構混みあっている車内で、"戦利品"をどこでご開帳するのだろうか? こっそりやれる場所は? 私はダメ元で、トイレをチェックすることにした。一両目、二両目……次々とトイレを開けてチェックした。共産圏を走る夜中の列車。人の気配は全くなかった。
 三両目に入って二つ目のトイレを開けた。えッ!? 便座の上に私のアタッシュケースが置かれていた。えッ!? 素早く中を検めた。クレジットカード、飛行機のチケット、パスポートはある‼ 残っていたはずの現金5ドルは無くなっていたが……。私はアタッシュケースを抱きかかえて、トイレを出た。すると、先程の車掌風の男が立っていた。またうす笑いを浮かべていた。
「It's mine‼」
 私は男を睨みつけるようにして、その場を去った。
 コンパートメントに戻ると、Mカメラマンは涙を浮かべてつぶやいた、
「良かった。もう絶対外へは出ません。夜も見張っているつもりです」
 税関の審査が終わってほっとして寝込んだところを見計らって……は明白であった。税関も車掌もグルだったのか。共産圏、首根っ子つかまえたところで、もう何のメリットもなかっただろう。逆に何かの"反撃"を食らったかもしれない。
 Mカメラマンはこの一件で、心身に少々変調をきたしたようだった。Nikkonのバッグを抱えて、寝なくなってしまった。
 列車はまずザグレブで停車した。誠に殺風景な駅だった。薄暗い。売店なんてあるはずもないような雰囲気だった。降りた人は数人。新たに乗車する人はいないようだった。
 
 我々は荷物を抱え、うとうと程度で耐えながら、列車に揺られた。笑顔はなかった。
 そして約6時間の後、ベオグラードに着いた。ここで国際列車を乗り換える。ホームを改札に向かって歩いた。見渡すと、それほど裕福とは言えない人たち……しかも、そこかしこですすり泣くシーンが展開されていた。
「全財産を盗られた。今日からの生活は……」
 こんな嘆きだったようだ。
「こっちは、まだラッキーだったかもしれないね」
「まったくです。カメラも無事だったし」
 Mカメラマンの顔に安堵の色が浮かんだようだった。ベオグラードはきれいな街だった。日本大使館を探さずに済んで良かった。

【かくしてボンドは、イスタンブールへ】

 4時間ぐらいの待ち合わせだったろうか、駅のインフォメーションで何度か確認して、街へ出た。荷物もあるので近場で食事をして、次に備えて"駅弁"を仕入れた。
 ベオグラードからイスタンブールへ。再び国際列車。何も変わらなかった。食堂車などなく、きれいとか貫禄があるとか、そういう表現の対象ではなかった。
 まずはソフィア(ブルガリア)へ向かう。どのくらいかかるのか? 疲れも手伝って、現地時間もよく分からなくなっていた。車内アナウンスもあるのか、ないのか。
 我々は前回の経験があるで、何となく交代で休むことになった。
「何だか、戦争の見張りみたいですね」
 Mカメラマンは冗談を言ってるのだろうが、眼は笑っていなかった。早く自由主義圏に入らないと、危ない……。
 コンパートメントで、ワイン、水をちびちび。ソフィアまで11時間強かかった。食糧はほとんど消えていた。ユーゴスラビアからの出国、ブルガリアへの入国。例の「パスポルト・コントロール‼」の"口撃”を受けたが、"免疫"はできていたので、感情抜きでクリアした。
 ソフィアの駅も薄暗く、売店など見つけることはできなかった。停車時間が明確に把握できなかったことで、探す気持ちの余裕もなかった。ホームの水飲み場でペットボトルに水を補給するのが精一杯だった。
 
 コンパートメントで水をちびちび、非常食用のチーズをかじり、飴をしゃぶりで列車に揺られた。空きっ腹を抱えて、ひたすら耐えた。8時間くらい経ったろうか、ブルガリアからの出国。最後の「パスポルト・コントロール‼」。この後、車窓から流れてくる景色も明るくなったような気がした。トルコに入ってどこかの駅で停車した。ホームは物売りであふれていた。明るかった。助かった、と思った。
 車窓から、1ドル札を出してコーラとパンを買った。
「コーラって、こんなに美味しかったんですね」
 Mカメラマンはちょっと涙ぐんでいるようだった。
 疲れと空腹が解消されたわけではなかったが、安心感が何物にも代えがたかった。トルコに入国してハルカリに着いた。
 私たちはトルコ・リラを持っていなかった。まずは両替、と思ったが、タクシーに乗ってホテルへ行けば何とでも……と思い、一台のタクシーをつかまえて、「イスタンブール・ヒルトン」と告げた。確証があったわけではないが、あるだろうと思ったし、タクシーは「yes sir‼」と言って、走り出した。ようやく悪夢から解放される……そんな気持ちだった。Mカメラマンの表情も緩んでいるようだった。
 イスタンブールの中心街にヒルトンはあった。リラが無いので、ドライバーにもフロントまでご足労願った。
「部屋ありますか? ツイン、セミスイートでもOKです」
「予約は?」
「予約はしてないけど、これでお願いできませんか?」
 私はAmexのゴールドカードを出した。すると、
「失礼いたしました。すぐご用意いたします」
 年会費はそこそこ取られるが、役に立った。身分を保証する保険みたいなものか。助かった。トラヴェラーズ・チェックでリラを作って、ドライバーに多めのチップを含めて払った。
 部屋に入った。広めのツイン・ルームだった。私jは部屋の冷蔵庫を開けて5本ほどのビールを出して、Mカメラマンと乾杯した。ビールはどんどん吸い込まれた。体が砂漠のようだった。Mカメラマンの表情も弾けていた。もう、油断しても良いのだ。

 【帰国して】

"オリエント急行命からがら事件"は、Tokyo Sports Press News paperで50回ほどの連載となった。いろいろな人から、特にサントリーの候補部の人たちには大好評だったようで、何度か酒席をご一緒させていただいた。ただ、面白く読んでいただいた社内、社外の同業者の人たち、読者からは葉書で、「ホントにホントなの?」と訊かれたことが何度もあった。もちろん、社内で私を面白くないと思っていた人たちは、「眉に唾じゃないの」と囁き合っていたようだ。何とでも言ってくれ‼
 作りもやらせもなし。想定を超えた本当のハプニングは、受け止めきれないのか? それほどのネタが飛び込んできた取材旅行だったのである。






 


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