アルゼンチンが1位、日本は15位。24年のFIFAランキングだ。今や、日本のサッカーはアジアの強豪。選手は世界の強豪チームで何人も活躍している。しかし、1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得してから、1996年のアトランタ五輪まで、五輪は予選敗退を続けていた。W杯に至っては1998年フランス大会まで"無縁"だった。アジアの壁——予選では韓国、北朝鮮、中国、オーストラリアなどに苦杯をなめ続けた。まさに夜明け前。それが……世界の15位まで上昇した。何があったのか? ㊙取材メモを紐解く。
——by Drifter(Koji Shiraishi) Tokyo Sports Pressに約20年在籍した。入社二年目で整理部記者から運動部記者に。取材のテスト飛行が実業団サッカーリーグ戦。なんて退屈なんだ、と思った。上司のデスクも「そうだろう」と言った。何とか、会社を、読者を驚かせるネタはないか? サッカーを枕にどうしたら面白いストーリーが書けるのか? 日々もがいた時期があった。
☆サッカーじゃ新聞は売れない
【ベッケンバウワーをキャッチせよ‼】
"皇帝”ベッケンバウワーが来る――1974秋に入ると、日本のサッカーファンは熱くなり出した。しかし、新聞もテレビもさほど取り上げるわけでもなかったので、一般的には知らない人もいた。この年のW杯西ドイツ大会で、フランツ・ベッケンバウワー主将の西ドイツが、"貴公子"ヨハン・クライフ(2016年3月24日没)のオランダを2-1で下し、優勝していた。リベロという聞きなれないポジション名で、ピッチ中央でボールを自在に操り、絶妙のパスで最前線のCFゲルハルト・ミューラー(2021年8月15日没)へとつなぎ、ゴールをこじ開けていったのである。日本のサッカーでは見たことの無い技の連続だった。凄い選手だ、しかし、W杯の試合報道も含めて、大したものではなかった。私は時折専門誌に、執筆していたので、多少の予備知識はあったが、観る度に、新鮮な驚きがあった。やはり、日本人にない"能力"なのだろうか……。
年が明けて、75年の3日、私は出社して、へネス・バイスバイラ―(1983年7月5日没)率いるバイエルン・ミュンヘンとベッケンバウワーの件を伝えた。5日と7日に全日本と国際試合となっていた。
「単に試合を報道したって面白くないよな。半分観光気分の西ドイツに、日本は軽くあしらわれる……だよな」
Sデスクはさらっと言った。Tokyo Sports流の解説。間違いない。私はここで引き下がるわけにはいかなかったので、少し盛り気味に、記事の狙いを話した。
「例えば、ベッケンバウワーをつかまえて、独占インタビューってなったら、どうです? 紙面を大きく割いてくれますか?」
「何だって!? そんなことができる目途があるのか? アポ取ったりするわけだろ……」
「CC飲料がスポンサーでガードが堅いって話ですが、何とか張り込んでチャンス狙います。記事のスペースお願いします」
「皇帝のインタビューなら、いくらでもいいぞ」
しかし、手掛かりはほとんどなかった。宿舎は芝の東京プリンス・ホテルだった。こうなったら……ともかく、現場へ行ってみることにした。
ロビーはカメラマンを含めて、マスコミ各社が何人もいた。
知り合いの専門誌カメラマンを見つけたので、声を掛けてみた。
「選手たちはどんな感じですか? 外出待ちですか? インタビューなんてできますかね?」
カメラマンはちょっと不思議そうな反応を見せて、言った。
「スーパースターですからね。CC飲料もガードしているし、不可能じゃないですかね」
当然の話である。さて? Sデスクに連絡して、「やっぱり無理でした」と報告するのは簡単だが、それでは、次のチャンスに、"どうせ"と思われてしまう。
打つ手はあるか? 原点に戻って、考えてみることにした。ベッケンバウワーはドイツ人。英語も話すだろう。こちらも多少はいける。だが、自分が外国へ行って、日本語で話しかけられたら、時間差なく反応する、だろう。では、ドイツの人が日本でドイツ語で話しかけられたら、どうだ? だったら、ドイツ語で当たって砕けろ、でいってみよう。
ここまで考えの道筋がついたところで、一人の男が浮かんだ。同級生のS.MIyamotoさん。幼馴染で、飲み仲間でもあった。社会人一年生の時、思い立ってドイツに交換留学。1年半ほどアルバイトをしながら、ドイツ語をかじって帰国していた。サッカーも大好き。ベッケンバウワーとバイエルン・ミュンヘンが来ているのだから、心が騒いでいるに違いない。
【皇帝はドイツ語で口説け‼】
Miyamotoさんは東京駅八重洲口に本社のある、石油商社で働いていたのだが、電話を入れて、"バイエルンが……"と話すと、仕事を放り出して、飛んできた。
「ベッケンバウワーに会えるのかな?」
「じゃなくて、会うんだ。張り込んで」
「しかし、(ロビーを見渡し)見たところ、マスコミも一般客もいるし、どうだろうねぇ」
「明日、会社休んで朝から付き合ってくれないか? 張り込んでつかまえたい」
Miyamotoさんは、「仕事があるから無理……」と難色を示したが、ベッケンバウワーに負けて? 帯同案件を飲んでくれた。
さて、翌日。朝6時頃にロビーに行くと、すでに何社か張り込んでいた。知り合いのカメラマンもいた。
「誰か降りて来たんですか?」
「いや、ダメですね。待つしかありません」
私はMiyamotoさんに目配せして、その場を離れて、言った。
「こうなったら、ダメ元で2階のレストランで待とう。必ず朝食を摂りに来るはずだ、そこで談判しよう。ドイツ語頼むよ。こちらは英語でサポートして……」
私、Miyamotoさん、カメラマンの三人は、他社の視線を避けながら、エレベーターへ。今ではありえない話だが、エレベーターは通常の"フリーパス"だった。そんなものかと思いながら、エレベーターを降りるとレストランだった。ン⁉ アディダスのジャージ姿の選手たちが出入りしているではないか。
「誰かめぼしい選手がいたら、聞いてみようか?]
Miyamotoさんもテンションが上がってきたようだった。するとそこへ、なんと監督のバイスバイラ―がやってきた。チャンス‼
Miyamotoさんは素早く、バイスバイラ―に接近、ドイツ語で話しかけた。おッ、やるじゃないか。
バイスバイラ―は最初、えッ!? という表情を見せたが、ドイツ語を耳にして、すぐ笑顔を浮かべて反応した。
「えッ!? フランツ? 彼なら中にいるはずだ、呼んであげようか?」
えッ!? そんなのありなの?
これはいける。私たちは突然の訪問の非礼を詫び、取材の主旨を告げた。
「10分でも15分でも、日本のサッカーへのメッセ―ジをお願いできれば。68年のメキシコ五輪以来、世界の舞台に出られていません。国内の盛り上がりももう一つで……」
バイスバイラ―は笑顔でうなずくと、レストラン内に消えた。そして2,
3分で戻ってくると、手招きして言った。
「彼はOKだそうだ。ミューラ―もどうだ、と言ってるよ」
えッ!? そんな贅沢な。
【遂に直撃‼ 皇帝との濃密な時間】
ベッケンバウワーはレストラン中ほどのボックス席で、待っていてくれた。
Miyamotoさんは懸命のドイツ語で、先陣を切って仁義を切った。ちょっと前にバイスバイラ―に説明した内容を再び、ベッケンバウワーにぶつけた。ベッケンバウワーはうなずいて、静かに語り出した。
「日本のサッカーをじっくり見たわけではないので、核心を突いた答えにならないかもしれない。だが、一番大事な事は経験だと思う。我々は小さい頃から、さまざまな経験を積み上げて、今、国の代表として国際試合のピッチに立っている。日本の選手もレベルの高い経験を積み上げることによって、チームとしての力もアップするはずです」
「やはり、国内のトップがプロになるべきでしょうか?」
「我々も今はプロとして活動している。これは選手層をピラミッドに例えれば、我々はその頂点部分へ上ってきたから、プロになっているわけです。FIFA(Fédération internationale de football association=国際サッカー連盟)では、プロもアマも国境は無いと言ってます。ピラミッドの下の方はアマチュアで上るにつれて、サッカーの比重が増えていく。そして頂点部分でプロ専業となるわけです」
「では、頂点をプロすることが、レベルがアップに直結するわけですね?」
プロ化に関して、選手がプレーで報酬を得るということは、ある意味、日本体育協会が大きな、厚い壁のように存在した。
「スポーツで報酬を得ることは好ましくない」
プロ野球だって、職業野球と蔑まされた時があった。
多くの舶来スポーツの日本での始まりが、帝国大学系であり、体育協会を構成する理事の中心に、その系列の人たちが座っていた。スポーツを生業としない――というプライドである。戦後の復興立ち上がり時には、GHQの投げるボールの受け役として機能したのだが……。
ベッケンバウワーは熱く語ってくれた。
「プロ化といっても、観衆にアッピールできるゲームが提供できるのか? スポンサーが喜ぶプレーが提供できるのか? 子どもたちの成長に良い刺激を与えられるのか? 我々の場合も、歴史の中で試行錯誤を繰り返しながら、今の形に辿り着いた。日本のサッカーも目標と夢に向かって、今できることをやって、次へと積み重ねていく事が大切だと思います」
日本人にサッカーは向いていないのではないか? という疑念がすべて払拭されたわけではなかったが、ベッケンバウワーの一語一語が、将来への道導のように感じられた。淡々と理路整然と……常に沈着冷静なリベロそのものように。
――遂にベッケンバウワーを独占的にキャッチした。ホテルのロビーから、編集局のS.デスクに電話を入れた。
「何!? ベッケンバウワーをつかまえたのか? すぐ戻って原稿にしろ‼ スペースはあるからな‼」
私、ドイツ語のMiyamotoさん、カメラマンの三人ははタクシーで築地の編集局へ戻った。
編集局はちょっとした騒ぎだった。同僚、他の部署の記者は一様に、こちらに目を向けた。「ベッケンバウワーのインタビューなんて、とんでもないことを」と。
S.デスクは嬉しそうに言った。
「やったな、おい。思いっきり書いてくれ。派手に行こうぜ‼」
私はドイツ語のMiyamotoさんと今朝の出来事を整理しながら、原稿を書いた。いくらでも書けた。
1時間ほどで分厚い原稿を書き上げた。S.デスクに手渡すと、交換のように白い封筒を差し出した。
「これは社長賞だ。社長も喜んでいたぞ」
掲示板には論功行賞が貼り出された。"社長賞とする”。
これはTokyo Sports在職中に放った特大ホームランの一つだった。
1月5日。国立競技場。バイエルン・ミュンヘンは1-0で全日本を破った。ベッケンバウワーはリベロで華麗なボールさばきを披露してくれた。しかし、バイエルンが全日本を軽くあしらったように見えた。この日、発行されたTokyo Sportsにはベッケンバウワーの独占インタビューが派手に掲載されていた。
7日の第二戦も同様にバイエルンが1-0で勝った。同じような試合内容だった。
私は改めて日本人にサッカーは向ていないのではないかと思った。
この夜、会社から頂いた"賞金"を元手に、Miyamotoさんと祝杯を挙げた。話は尽きなかった。今でも、Miyamotoさんとアルコールが入ると、"あの時は……"となる。それほど、人生において痛快な出来事ではあった。
※Miyamotoさんは原宿竹下通りで紅茶専門店、クリスティーを経営。現役で店を切り盛りしている。その節はお世話になりました。
【夜明けへかすかな光が見えた】
日本人にサッカーは向いていないのでは、と何回も書いてきたが、水面下では様々な努力が積み重ねられていた事も事実だ。岡野俊一郎さん(2017年2月2日没)、長沼健さん(2008年6月2日没)、二宮寛さんら強化の最前線にいた人たちは、「トップ:リーの選手たちはプロで当たり前。子どもたちの夢の目標にもなるのだから」と口を揃えていた。私としては、今を時めく”皇帝”ベッケンバウワーがそれを、日本のサッカー界に提言した、という形を取りたかったのである。岡野さんたちが事あるごとに、そうした発言をしていたが、協会の古手の理事たちに、「今の若い者は……」と否定されてしまっていたのである。
ベッケンバウワー率いるバイエルン・ミュンヘン(バイスバイラ―監督)が日本で試合をした2年後の77年夏、二宮監督の全日本は西ドイツで分散合宿を行った。FW系の奥寺康彦、西野朗、金田喜稔らは1FCケルンへ。何と、この時の監督は日本に縁の深いバイスバイラ―だった。そして、なんというタイミングなのか、ケルンはこの時、左のウイングを探していたのだ。そこへ、ムルデカ・フェスティバル(マレーシア)で7点をゲットとして得点王となった左ウイングの奥寺が現れたのである。スピード、ゴール感覚……バイスバイラ―が探していた素材であった。
思えば不思議な縁である。
バイスバイラ―は、奥寺を移籍へ口説いた。
「ドイツ語が分からないから、僕には無理……」
奥寺は最初オファーを断ったが、バイスバイラ―は長沼、二宮という"友達ライン"に援護射撃を頼むなど、獲得に熱心だった。
「そこまで言ってくれるなら」
奥寺は決心した。77年10月7日、奥寺は1FCケルンと契約した。プロとしてである。この時の報道も色々だった。日本サッカーの明るい未来を切り開く、は良いとして、プロになった以上、全日本には選ばれないだろう、などは今では考えられない物もあった。日本サッカーの現状を鏡に映したようなものであった。
奥寺はこの年の12月、ドイツカップ戦あたりから、頭角を現し、左ウイングのポジションをつかみ取った。次第に日本のテレビでも、その活躍ぶりが流されるようになった。
アマチュアのスポーツ選手は、会社の仕事に重点がある。しかし、実業団となると、会社の環境によって、選手それぞれ違いが出てくる。
①きちんと仕事もしてくれ。
②会社のPRも背負っているのだから、練習、試合を優先してくれ。
③身体のケアは自前。
②はまだましだが、③となるとお客さんを楽しませるプレーを求めることができるかどうか疑問である。
奥寺は日本サッカーの先兵となって、日本にとって未開の分野を走り出した。その姿は多くの実業団選手にとって、努力次第でピラミッドの上へ進めるかもしれないという希望を抱かせるエネルギーとなった。
20年後の97年、日本サッカーはジョホールバールの歓喜を起こし、翌98年のW杯フランス大会に初出場。以降6大会連続出場。アジアの常連となっている。
1968年のメキシコ五輪。日本サッカーはFWの釜本邦茂さんが7ゴールを挙げる活躍を見せ、得点王、チームは銅メダルを獲得した。この時、釜本さんに対してセリアAのチームから白紙の小切手が届いた、という話があった。日本人プロ第1号は幻に終わったのだが、誕生していたら、夜明けはもう少し早く訪れたのだろうか。
☆サッカーで新聞を売ろう‼
【無謀にもW杯速報を始める】
Tokyo SportsがサッカーW杯の報道を始めたのは、1978年のアルゼンチン大会からだった。それは会社の方針ではなく、こちらからの提案だった。
と言って私に先見の明があったわけだはなかった。凄い大会、実力世界一決定戦という大会である事は、理解していた。しかし、紙面でどう料理したら良いのか、具体案も持っていなかった。そこへ、サッカー専門誌のT編集長がやって来て、言った。
「アルゼンチン大会の取材に行くことになりました。Tokyo Sportsさんは、どうされるのですか?」と。
「どうと言われても、こちらはサッカーに対する理解度がもう一つだから、取材に行くわけにはいかないし……」
「私が現地からレポートしましょうか? 経費を少しみてもらえれば」
「社内規定で一日15000円くらいなら出せるかもしれません」
よくよく聞いてみると、大きな試合は日本時間の早朝に終わるようなスケジュールだった。このクラスの大会になると、アメリカの大手テレビ局が権利を持っていたので、ニューヨークのゴールデンタイムに合わせられていたようで、早めの夕刊で勝負しているTokyo Sportsにとっては、速報スタイルで報道できるわけである。
これなら会社の上層部を口説きやすい。私はT編集長を近くの喫茶店に待たせたまま、編集部に戻って、Sデスクにかいつまんで説明した。この人は色々な物が見えているので、話が早い。
「速報になるんだな? 君が社内で受けて仕上げるってことだな? 一丁やってみようか。サッカーは世界では凄い人気だからな。経費の事は了解した」
ヨシッ‼ と思っていると、大きな机に座っている"偉い人"の声が飛んできた。
「サッカーで新聞が売れるのかね? ワールドカップ? 他の新聞はあまり騒いでいないじゃないか」
「だからこそ、やろうと思うんですよ」
「大きなスペース割いて、売れなかったらどうするんだ?」
むっとしたが、Sデスクの目配せがあったので、反論はやめた。
喫茶店に戻って、T編集長に現地からの送稿を正式に依頼した。
【サッカーファンの目がTokyo Sportsに‼】
現地時間6月1日(日本時間2日)、W杯アルゼンチン大会が開幕した。アルゼンは実に11回目の開催であった。
言い出しっぺの私は午前5時に出社して、速報を切り盛りした。あらかじめ、通信社の配信データ、テレビ(NHKの放送は後から知った)などで外堀を埋めておき、T編集長からは地元のトピックス、会場の雰囲気、スター選手のコメントなどをメモ状態で伝えてもらい、それらを総合的にアレンジして、紙面に乗せた。写真はAP、UPIからふんだんに送られてきたので、材料には事欠かなかった。
最初は一人で走り回っていたが、途中から新人が助っ人に来た。K.Shibusawa 君といった。こんな時に教えている暇はない、と思ったがShibusawa君は世界放浪の末、Tokyo Sportsに辿り着いた変わり者。肝が据わっていた。サッカーが好きな事も手伝って、最初から戦力になった。余計な事だが、この人は下町の老舗的靴問屋のご長男であった。
速報に取り組んでみると、いろいろな事が分かってきた。FIFAはアジアでの、更なるサッカー普及のために、NHKの放送に期待した。日本国内は視聴率を論じるような種目ではなかったが、将来性を読んで放送に踏み切ったのだった。
これは速報を展開するTokyo Sportsにとってもメリットであった。夜明け前の放送。誰もが観戦する時間帯ではないが、サッカー好き、ジュニア・サッカーで活動している親子などはテレビにかじりついていたのではないだろうか。
それは想像ではなく、明確な事象として確認できた。大会が進むと、Tokyo Sportsへの問合せの電話が増えていった。
「会社の帰りにTokyo Sportsを買ってきてと、息子に頼まれまして、どこで売ってますか?」
「配達はあるんですか?」
売れ部数も増え、販売部は「スペースを広げて、派手にお願いします」と編集局にリクエストしてきた。
「君‼ 現地から面白い話をバンバン送ってもらえ‼ 大丈夫か?」
始まる前に、「サッカーで新聞売れるのか!?」と言ってたのは誰だっけ……。今や、プロレスのTokyo Sportsから、サッカーのTokyo Sportsになった感があった。
決勝戦は3-1で開催国アルゼンチンがオランダを下して優勝した。世界のトッププレーヤーの激突は、迫力があり、分かりやすく、魅力的なものだった。やっぱり、日本のサッカーがこの舞台に立つのは夢の話……では、ないかと改めて思った。
しかし、一方で全国高校サッカーが正月のイベントして定着し、その下のジュニアの活動もかなり活発化していた。地殻変動のようなものが起きていたようだった、
1982年スペインW杯は現地時間6月13日から7月11日、24チームが参加して行われた。この大会も、サッカー専門誌のT編集長の現地特派電であった。
速報を始めると、前回よりも読者反応が顕著であった。それは、"白いペレ"ジーコ(ブラジル)、"将軍"ミッシェル・プラティニ(フランス)、"神の子"ディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン)などのスーパースターたちの競演であった。日本にも熱狂的なファンが固まりになり出していたので、記事は乱暴に言えば、彼らを追っていれば、アッピールできるものになった。
NHKは24チーム参加の大会を、一次リーグ、決勝戦まで19試合を放送するにいたった。
決勝戦はパオロ・ロッシが先制点を挙げたイタリアが3-1で西ドイツを下した。ロッシは計6点で得点王に輝いた。最後まで分かりやすいもので、他のマスコミもそこそこ報道したので、サッカー狂でなくとも、注目したようだった、
日本の中で、サッカー熱が高まり始めていた。81年にはトヨタが冠スポンサーとなって、ヨーロッパのクラブチーム王者と南米のクラブチーム王者が激突するクラブ世界選手権が東京の国立競技場で、1月11日に行われた。
これは大手広告代理店D社の仕切りであった。トヨタを付けた以上、それなりにPR効果のある”土壌”となった、との判断だろう。日本のサッカーが熱くなり出したバロメーターと判断しても良さそうだった。
日本開催が決まった頃、Tokyo Sportsの広告部もあわただしくなった。トヨタが冠スポンサーなのだから、媒体への広告出稿が大いに期待できる。また、こんな時に乗り遅れれば、対外的に肩身の狭いことになる。
広告部から、
「何とか参戦したいので、プレゼンに協力してくれないか」と。
依頼主は駆け出しの頃に手ほどきを受けたIさん。これは何とかしないと……国際試合は国の威信をかけたようなムードになる。たかがサッカー、されどサッカー。熱くなるから面白い。白熱した末に、一線を越えた出来事は枚挙に暇がない。国同士では大砲を打ち込んだり……まさか、といった話を特集して、"だからサッカーは面白い"という見開き大特集を制作した、
Iさんはその見開き紙面の試刷り版をもって、D社に行った。1時間ほどで戻ってくると、笑顔でVサインだった。
「先方もWカップの速報などを評価してくれていた。トヨタカップ用の紙面も驚いていた」
サッカーのTokyo Sportsである。
1986年はW杯メキシコ大会が5月31日から6月29日の日程で開催された。コロンビアが経済的事情で返上。メキシコが肩代わりして、二度目の開催だった。ここに至っては、サッカーじゃぁ……という人はいなかった。
大会前、そろそろ自分自身でも取材したいとも思ったが、自分が出て行くと。外堀を埋める人間がいなくなってしまう。偉い人たちも良い顔をしなかった。
迷っていると、「私が行きますよ」と若手のShibusawa君がニコニコしながら言った。
「行きますって言ったって、そうですか、にならないよ」
そう返すと、「大丈夫です‼」と、更なる笑顔で。
実は退社して、肌の合うスペイン語圏に行こうとしていたのだった。世界を放浪してきた若者は、当初、型破りな企画・取材を楽しんでいたが、次第にごますり風潮になっていく社風に嫌気が差していた。
大会はShibusawa特別通信員で進んで行った。お祭りモードになりやすいラテン系民族の国。庶民のうっぷんは事あるごとに暴発した。
「また死者が出ましたよ」
Shibusawa君の送ってくる原稿は、サッカー以外のハプニングも多くなっていった。一面に"メキシコW杯〇人死亡”などと、大きい見出しが躍った。
何かTokyo Sportsにおあつらえ向きの記事があふれた。呉越同舟で、マラドーナのイングランド戦での5人抜きが、あちこちで大きな話題となった。
マラドーナのマラドーナのための大会。アルゼンチンは決勝でベッケンバウワー監督の西ドイツを3-2で破って優勝した。今回も日本には非常に分かりやす大会で、速報のTokyo Sportsは好評だった。
これが私がTokyo Sports 時代に関わった、最後のW杯だった。そしてこの三つのW杯をNHKが放送したことによって、世界のサッカーがより身近になったことは疑う余地はない。
日本サッカー・リーグは体育協会の外に出て、着々と準備していた。
1993年、5月5日、"プロ、アマの垣根のない"Jリーグが産声を上げた。ベッケンバウワーが言っていた、ピラミッドの形が出来たのである。
日本のサッカーは遂に夜明けを迎えたのであった。