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更なる上を求めて、少年は再び闘いを始める。’24全国少年少女レスリング大会。46キロ級、完勝でV2を達成した唯翔少年。1984年ロサンゼルス五輪フリー57キロ級で王座に着いた富山英明氏(現・日本レスリング協会会長)から、王者への心構えを探る。

――by Drifter(koji Shiraishi) Tokyo Sports Press News Paperに約20年在籍した。谷津嘉章さんが日本大学三年時、アントニオ・猪木と対戦する、"柔道王"ウイリエム・ルスカのスパーリング・パートナーを務めたのがきっかけでアマチュア・レスリングの取材を始める。その時に大学一年生の富山英明氏とも知り合い、公私ともの付き合いが続いている。

【夢を喰らう――PART Ⅱ】

 2024年の7月上旬、新宿東口のK'sシネマへ行った。ここは常時、ドキュメンタリー系の気合の入った映画を上映している。もう何本見たか分からない。実は富山氏の自伝的映画『夢を喰らう』が封切りになったのであった。舞台挨拶もあるとのことで、我が家の奥様が席を買っていたのだ。
 フリー57キロ級の最強の男、世界を五連覇して、84年のロサンゼルス五輪で金メダルを獲り、現在は八田一郎→笹原昭三→福田富明(敬称略)と流れて来た日本レスリング協会の会長をこなしている。映画になってもおかしくないストーリーで、一人でも多くの人が観てくれれば、競技の普及にもつながるのである。
 客席は満員だった。恰好がついた。良かった。取材を始めて8年、編集に3年かかったと聞いた。おそらく材料があふれるほどあったはずである。きれいにまとまっていた。汗臭い所はそれなりに。奥さんが不治の病に見舞われて……の場面は、時々、お酒を共にした間柄としては少々切ないものがあった。上映後ロビーで顔を合わせて、奥さんの通夜の席以来の握手を交わした。それ以来、会っていなかったのだ。
 映画を観た後は、興奮覚ましに冷たいのを飲みたい。お昼ご飯を兼ねて、K'sから徒歩2、3分のライオンへ行った。ここのビールは間違いない。飲みながら感想会。
「富山さんをよく知らない人には、この映画はお勧めですね。まぁ、知っている人も、ここまで細かい事は知らなかった、ということで」
 概ね、我が奥様と意見が一致して、ビールが美味しい。映画も美味しいお酒を飲むための、きっかけでも良いのではないだろうか。最近、とみに思う。
「間もなく、ちびっ子の全国大会ですよ。唯翔君も46キロ級で気合が入っているようです」
 実は我が家のお孫ちゃんの唯翔(ゆいと)君、谷原小学校4年生が、地元の練馬谷原レスリングクラブで、ちょっとだけメキメキと頭角を現している。小学校低学年時は倒されてメーメー、負けてメーメーだったのが、勝てるようになったら、面白くなったのか、練習をなめなくなって、あちこち出稽古にも行って、上昇気流に乗っているようだ。

 ちびっ子レスリングがとみに盛んである。色々な大学のOBの方たちがNPO法人などを立ち上げて、子どもたちにレスリングの面白さを知る事ができる場所とイロハを提供している。全国で6000~7000人の競技人口だそうだ。有難い事である。軽量級は日本のお家芸と言われた時代。ちびっ子レスリングなど、あまり聞いた事がなかった。
「レスリングは4年に一度しか注目されないんですよ」
 フリー52キロ級の"最強の男"高田裕司さん(前協会専務理事)は、現役時代、よくそう言っていた。さらに、
「勝ってナンボですからね」とも。
 それは競技人口の数が少ないから、注目度が低い。理屈は分かっているが、いかんともしがたかった。それが、さほどスポットライトを浴びなかった人たちのレスリング愛が、次世代の人材を育てるべく活動を始めたのである。『夢を喰らう』はこの指導者たちにもあてはまる。
 全国少年少女レスリング大会は今年で第41回を数えた。7月の27、28日の日程で東京の代々木体育館で行われ、全国から2000人強が参加したそうだ。継続は真なり。大したものだ。原石の集まり。おそらくこの中から、日本を代表する選手が出てくるはずである。

【原石は磨け】

 原石は高価な宝石になる可能性を持っている。しかし、磨き方、磨かれ方によるわけである。そこで、ここに登場していただいている富山氏に学ぼうというわけである。
 私が富山氏と最初に会ったのは、1977年の秋だった。ルスカのスパーリング・パートナーを務めたことで、谷津嘉章さんとお付き合いが始まり、その日は練馬区高松の自宅で食事をしていた。
「日大で五輪候補になるような若手はいますか?」
 私は気軽に訊いた。
「いますよ、軽いのでね。富山っていうのが、この選手はいくでしょう」
「今度紹介してくれませんか?」
「今度と言わずに、今から呼びましょうか?」
 谷津はそういうと、受話器を取ると、江古田の合宿所へダイヤルを回した。
「おッ、俺だ。トミーいるか?」
 二年生の富山氏が出ると、
「今からタクシーで練馬の高松まで来てくれ!」
 30分ほどで富山氏は現れた。学生服で。
「富山です。よろしくお願いいたします」
――ここから、時々、57キロ級の富山氏を取材することになった。
 アマチュア・レスリングは、知るほどに過酷なスポーツである事を知った。階級制だから、試合出場のためには体重調整が必要である。減量である。増やすケースはまずない。
「私の場合は大学一年は52キロで出てましたが、これがきつくてきつくて。試合の10日くらい前から、ほとんど食べられなくて、死ぬ思いでした。けがはするし。直訴みたいにして、57キロに上げてもらいました。これだと一週間くらい前から、食べ物の調整に入ればOKでした」
 富山氏の現役時代、当日計量であった。全日本など、準決、決勝と戦う者は二日間の"拘束"。初日の朝に計量してパスすれば、その後、寮などで作ってきたおかゆ的な物を口にした。二日目の朝も同様。初日が終わっても誘惑と戦わなければならなかった。
「寮に帰って500~600グラムくらいを食べることができました。朝のトイレで、大体500グラムくらい排泄されます」
 ここまで自己管理をして戦いの場に挑んでいたのである。現在はボクシングもしかりで、前日計量なので心身に与える影響は、だいぶ軽くなったのではないだろうか。
 減量時の誘惑はどこにでもあった。プロボクシングの世界王座などに挑戦する選手の合宿では、コーチはトイレも見張ったと言われる。選手を個室に入れてしまえば、水洗の水さえ、誘惑となったのだ。
 72年のモントリオール五輪、グレコ52キロ級で銀メダルを獲った平山耕一郎さんから、聴いた話だ。
「私は68年のメキシコに出るつもりだったんです。代表選考会の前日、減量でほとんど食べてませんから、気晴らしに街をうろついていたんです。浅草あたりですかね、ふと自動販売機に目がいきました。何だかコーラがやたら輝いて見えました。気が付いたら、飲んでました。美味かったこと。しかし、翌日の計量にはどうしても最後の300グラムが落ちなくて……代表を逃しました。自衛隊の体育学校ですから、立場がなくなりました」
 減量に失敗が無かった富山氏に、もう少し訊こう。
「普段から、自分の体にメジャーのような感覚を持たせていました。食べるのは嫌いではないし、誘われればアルコールを口にすることもある。まぁいいや、で過ごしていれば余分な物が付くでしょう。そこで自分の手首に、反対の手の親指・人差し指の輪を回して、ゆったりかそうでないかを確認しました。ゆるみが無ければ走りました。おそらく500グラムくらい変わったでしょう。これを日常的にやってました」
 常に自らをコントロールしていたのである。これは前日計量になっても、マネして損はないのでは……。常に戦う自分の体重を知っておくのである。
 52キロ級で世界最強と言われていた、高田裕司さん(元協会専務理事)はもう少しきつかったようだ。6キロ強の減量。
「カッパ着て走って、徐々に落としていきました。公園などを通りかかって、遊んでいる奴を見ると腹が立ちましたけど、レスリングは勝ってナンボですからね」
 高田氏は苦労している姿を知り合いに目撃されることはなかった。車で郊外へ出かけ、おしゃれなトレーニングウエアで走り込んだという。王者はそれぞれ、人に流されない、自分の世界を持っているものなのだ。
 全日本などで勝った後、高田氏は必ず、
「早くビールを浴びましょうよ」と笑いながら、言っていた。自信である。
 この頃、試合の度に選手にプレッシャーを与えたものがあった。それはバッドマーク・システムというルールである。
 選手は"6点まで"という持ち点があった。原点方式で、フォール勝ち、テクニカル・フォール勝ち(10点差以上)=0点、判定勝ち=1点、判定負け=
4点
 3分2R制は今と同じだが、3点ノルマ制があって、2R終わって3点以上の差が無ければ、延長戦に入った。当日計量の上にこの環境である。勝ち進むには心身とものタフネスが必要である。一概には言えないが、外野からは昔の方が少々ハードだったように思う。

【原石を磨くライバル】

 王者への道を歩む時、越えなければいけない関門が現れる、それがライバルである。57キロ級に上げた富山氏には自衛隊の江藤正基さんがいた。78年の全日本で初対決。富山氏はこれを破って初優勝。ここから7連覇することになる。敗れた江藤さんは翌年の全日本でリベンジを試みたが、再び敗れ、グレコに転向。富真氏とともにロサンゼルス五輪に出場して、グレコ57キロ級で銀メダルを獲得した。

 富山氏は世界選手権の代表となったが、ここにはソ連のセルゲイ・ベログラゾフというライバルがいた。アナトリー・ベログラゾフとの兄弟で軽量級を席捲していた。富山氏は初出場で、この壁を乗り越えると、翌年も連覇した。
「プレッシャーで眠れないと話を聞きますが、そうかなと思ってました。最初の世界選手権の時、決勝前夜はやっぱり緊張してなかなか寝られませんでした。目をつぶると、セルゲイが出てきました。そのまま試合をしました。ああして、こうして……すると3回目くらいでフォールできました。自然に眠りに落ちました」
 富山氏は現役の最後くらいの時、そんな話をした。これは84ロサンゼルス五輪の体操で個人総合、つり輪で金メダルを獲得した具志堅幸司氏も同様の話をしていた。頭の中で"金メダルの演技"をして眠りについたのだ。また、強いゴルファーも事前に頭の中で18ホールを回り、設計図を作り上げている、という話をよく聞いた。
 富山氏はロサンゼルス五輪で、アメリカのバリー・デービスに勝って金メダルを獲得したが、前夜のリハーサル通り戦った結果……であったのだろう。
 この時代、メンタル・トレーナーがついていた、という話は聞かない。王者は自らの中に、自分を冷静に見つめるもう一つの目を持っていたのである。

【最強のスパーリング】

 富山氏は78年に全日本を獲って、代表合宿の常連となる。監督に日大先輩の福田富明さん(65年世界選手権バンタム級王者)、コーチに東京五輪グレコバンタム級王者、花原勉さん、モントリオール五輪グレコ・バンタム級銀メダル、自衛隊体育学校の平山紘一郎さん、と豪華な顔ぶれだった。
 全日本の合宿は自衛隊の体育学校が多かった。誘われるまま、一緒に泊まったこともあった。
 強化選手は一日5500キロカロリー摂取を目標とした。食堂の将校スペースで、"五食分くらいを三食の中で摂取せよ"であった。例えて言えば、夕飯時、ショウガ焼き定食を食べた後に、うな重が待っているって感じか。強者は内臓も強くないとだめだ。とても、とても、マネできるものではなかった。
 私はここで、大変なシーンを目にすることになった。まずは代表選手の基礎体力の凄さ……凄さである。”プロレスのセメント王者”カール・ゴッチの好きなロープ上り。52キロの高田さん、57の富山氏は別格の動きだった。
 そしてスパーリング……打ち込みタイムになると、なんとその二人がぶつかったのだ。強者は強者を求めた。
 世界のトップの過去を持つコーチ陣は誰も口を挟むことはなかった。皆、一様に腕を組んで二人のスパーリングを見守っていた。マスコミ関係者は私だけであった。富山氏のフェイントからの低いタックル、肩が入れば飛行機投げ……52の高田さんは長いリーチでタックルから、アンクルを決めにかかった。ほぼ五分。体重の差でちょっとだけ富山氏が押していたような、ぶつかり合いだった。
 79年の夏合宿は、80年のモスクワ五輪に備え、長野県の菅平で行われたと思う。モスクワ五輪をテレビ朝日が独占放送することが決まって、後に相撲評論家にもなる、アナウンサーの山崎正さん(2023年6月25日他界)も取材でいた。朝食後、宿舎のロビーにあったピアノを弾いていたのを覚えている。
 この合宿でも、52の高田さんと57の富山氏は火花を散らすスパーリングを展開していた。世界王者同志のスパーリングなのだ。おそらくテレビ朝日の資料室にビデオが保管されているだろう。もう一度観たい。いくらでも番組が出来そうだ。
 スパーリングが一息つくと、一つ年上の高田さんは少し笑いを浮かべて、言った。
「富は強いよ。タックルが見えねぇ……」
 菅平合宿では朝、根子岳周回ロードワークがあった。5キロ程度。競争ではなかったが、闘う軍団、実際は競争になった。富山氏がぶっちぎりでゴールしていた。
 2位は高田さんだった。また苦笑いのコメントになった。
「富にはかなわねぇ……」
  富山氏は、最強のライバルから"太鼓判"を押されたことになった。

「やっぱり、オリンピックに行って勝ちたいと思います」
 小学四年生の王者、唯翔君ははにかみながら、言った。
 これから先、競技を嫌いにならずに進めるかどうか? である。そのカギを握るのは良きライバルの出現、良き指導者との出会い、そして試合と向き合う自分をどこまで、自分の世界でコントロールできるのか?……にかかっているだろう。
 伝説の王者・富山氏はこれまで、そのヒントを幾つも明らかにしている。
 ちびっ子レスラーよ、マネできるところはどんどんマネしたら、いかがだろうか?



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