老害の言い分と正当的周辺参加
こんばんは、Dr FJです。
今日はこれまでなんとなく感じていたことを説明する言葉を見つけたので、これについてお話したいと思います。
最近我々医療の分野でも、医学部での教育や卒後に行われる初期研修、専門医になるための研修などで『きちんとしたカリキュラムに沿った教育』が行われるようになってきました。確かにこれまでの医学教育と言えば本当に内容はお粗末なモノであり、大学生の頃には『医者を一人育てるには1億円以上のお金がかかっているんだゾ』という話も『こんな授業となんちゃっての実習にそんなにお金がかかってるわけないだろ!!』と思っていました。初期研修も今では考えられませんが、当時は『入職時のオリエンテーションをやりながら、同時に初日の夜から救急外来の当直業務には入っていく』というスパルタ教育で、『とにかく患者を殺すことがないよう、必死で各自自分で勉強すべし』といった感じでした。
また、これは一部の異常な環境だったからではありませんでした。その後研修を積極的にやっている、学会などで研修医教育のセッションなどでも発言しているトップがいる病院などでも研修しましたが、基本的には手取り足取りやり方を教えてくれるなんてことはなく『俺たちのやり方を見て盗め。他では得られない仕事をするチャンスは与えるが、その仕事をこなし、業務上必要なことは自分で学び、どうしてもわからなかったら聞いてこい』というストロングスタイルでした。…今でもそうなのかな…(笑)?
私が経験したような教育は、現代社会では批判されることが多いです。有名なのはホリエモンこと堀江貴文氏が寿司屋の修行に無駄に時間を使わず、すし職人の専門学校で学べば数ヶ月でプロの腕前になれるという話でしょう。
これ自体は間違いではないでしょう。見て学ぶというのは勉強高率としては非常に悪く、1つの情報を得るために一日中、場合によっては何日何カ月もかかることもザラです。効率よく学べば、必要な情報をコンパクトにまとめてそれだけを集中的に伝えればいいじゃないかというのは正しいでしょう。
ただ…これには重大な欠点があります。それは『コンパクトにまとめて伝えられることは、答えがきちんとあるわかりやすい解がないといけない』ということです。例えば先の寿司屋の話。学校に行けば寿司を握る技術は短期で習得できるかもしれませんが、一流の寿司職人の空気感、ふるまいといったものは得ることは出来ないでしょう。また、私がやっている整形外科としての治療も、オーソドックスな疾患であれば定型的な対応が可能で教育もしやすいのですが、重度外傷や難症例などでは患者一人一人の状態のバリエーションが多く、とても定型化は出来ません。個々の状況での判断の積み重ねという経験によってなんとなく少しずつ理解していくというものなのです。また、インターンで社長のカバン持ちをして社長の意思決定の仕方などを学ぶなんていうのもこれに近いのかもしれませんね。こういった知見は当たり前ですが、一人で最初から学ぶことは出来ません。知見がない状態で突っ込んでいけば、数多くの落とし穴に簡単にはまってしまって最低限の結果が出せないからです。こういうことを一緒に経験していくことこそが、丁稚奉公的な修行であったり一見何も教えてもらえていないように思える研修だったりからの学びの一番のキモなのです。
こういった学び方のことを正統的周辺参加(Legitimate peripheral participation, LPP)と言います。
これはジーン・レイブとエティエンヌ・ウェンガーによって提唱された概念だそうです。詳細はリンク先を確認してほしいのですが、要は新参者がある組織に参加して仕事をしていく中で徐々に学んで、最初は簡単でリスクの低いものの組織にとって必要なこと、要は雑用をやりながらその組織の作法を学び、最終的には中枢を担うような仕事をしていくという流れのことを言います。まさに今まで話していたようなことですね。
ただ、これを正しいことだと声高に叫ぶと、現代社会では『老害!!』というそしりを受けるのも事実です。確かにこのロジックだと新人に雑用をやらせることを正当化出来てしまいますから。もう一方のカリキュラムで集中的かつ効率的に学ぶ方式と比べてどちらの方式が良いのか、その答えは簡単ではありません。
これに関して私が現時点で思う最適解は『学ぶ内容によって使い分ける』ということです。基本的な知識は効率良く吸収し、更にそれに上乗せする、それを超えていく経験知を得る時には正統的周辺参加をするのが良いのではないかと思うのです。そして、何より重要なのは『学び』にはこの両方の面があることを十分自覚し、自分にとって必要な学びはどちらなのかを主体的に選ぶことです。正統的周辺参加を強制してしまうこと、これこそがこのトピックにおける老害の本質でしょうから。自分自身も自覚的に選んでいきたいし、これからこちらが指導する相手にも主体的に選ぶよう促していきたいものですね。
まとめ
何かを学ぶ方法にはエッセンスを凝縮して集中的に教える方法と、一緒に参加して経験を共有することで学んでいく正統的周辺参加という方法がある。
どちらが良いという話ではないが、正統的周辺参加を押し付けると現代社会では老害扱いされる。
教える側も教わる側も、どちらの方式で学ぶのかを自覚的に選ぶことが重要。