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努力信仰と公正世界仮説

 おはようございます、Dr FJです。
今日は、最近読んだ本の中で紹介されていた"公正世界仮説"という概念についてご紹介し、現実の社会ではどういう影響を与えているのかについてお話したいと思います。

唐突な話になりますが、この世の中には努力することを礼賛するたくさんの名言があります。一例を挙げると

『天才とは努力する凡才のことである。』
アインシュタイン
『努力した者が成功するとは限らない。しかし、成功する者は皆努力している。』
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
『生きるということは、死ぬ日まで自分の可能性をあきらめず、与えられた才能や日々の仕事に努力しつづけることです。』
 瀬戸内寂聴
『つねによい目的を見失わずに努力を続ける限り、最後には必ず救われる。』
ゲーテ
などなど。

 努力は良いもの、成功するためには必須のものというのは納得される方が多いのではないでしょうか。かく言う私も大学受験の時などには『この数年の努力で人生が大きく変わる。努力がすべて報われるわけではないが、昨日の自分よりは努力してできるようになった今日の自分になれば、成功の可能性が上がることだけは間違いない』なんて思って頑張ったものです。お陰でなんとか医者にもなり、その時そうなりたいと思った人生を手に入れることができました。…ま、大変なこともたくさんありますけどね。

 ただ私は、この努力礼賛信仰が行き過ぎると、2つのあまり良くないことが起きるのではないかと考えています。一つは行き過ぎた努力礼賛信仰による弱者排除です。皆さんは"公正世界仮説"という概念をご存知でしょうか?これは、『人間の行いに対して公正な結果が返ってくるものである、と考える認知バイアス、もしくは思い込み』のことです。

 一見するとあまり害のなさそうな考え方なのですが、実はこれが曲者なのです。『人間の良い行いは必ず報われる』と信じるだけなら問題はないのですが、この意見の反対側には『今報われていない人は努力が足りないからに違いない』という論理が隠れています。なぜなら『努力すれば必ず公正な結果が返ってくるはず』なので。自分自身への戒めとして『努力が足りない』と言い聞かせることには問題はありませんが、これを他人に押し付けるようになると困ったことが起きるのです。

 そして、もう一つの困ったことは『成功するには努力/代償が必要だ』→『苦しい努力/大きな代償は善だ』というロジックが発生してしまうことです。昨今の高額投資塾なんかはまさにこの問題の好例ですね。『これだけ高いお金を払ったのだから良い指導が受けられるに違いない』というバイアスは、往々にして生じがちです。そう言えば、最近その被害者(?)が集団訴訟を起こしたりしていましたね。

https://www.rakumachi.jp/news/column/291806

 他にも売り主に対して自分のお気持ちをしたためた直筆のお手紙を渡したり、自作の物件案内資料を持って客付け会社を行脚したりと、ちょっと努力の方向性が違うんじゃないかなと思う例は枚挙にいとまがないですね。私も医者として診察していると、たまに『先生痛くて辛いんです。でも、前に処方してもらった鎮痛薬は飲むと負けたような気になるので飲んでません』なんて言う患者さんに出くわすことがあります。『まず薬飲もっか』と言うのですが、なかなか難しいものです。

 私は以前から何度も『塵は積もってもゴミにしかならない』し、『頑張ることに意味はない』と言っています。

 ちょっと聞くと、本当に酷いことを言ってますよね。でも、それが世の中の真実なのだと思っています。だからと言って努力を否定するわけではなく、自分自身もその辺の人から見るとあり得ないと思えるくらいの努力をしてきましたし、個人的には努力をしている人を見るのは好きで応援したくなる気持ちもあります。ただ、だからといって努力が目的化してはいけない。自分に必要なことを必要なだけした結果、人から見たらそれはすごい努力だったねと言われるというのが良いわけで、『努力をしたから〇〇…』という発想にならないことが大事だと思います。

まとめ

  • 世間では努力はそれ自体に意味があるという努力信仰が幅を利かせているが、これには2つの問題がある。

  • 一つは努力を礼賛する結果、『人間の行いに対して公正な結果が返ってくるものである』公正世界仮説というバイアスに陥ること。成功した人が努力をしているからといって、成功してない人が努力をしていないわけではないことを理解せず成功していない人を努力が足りないと攻めてしまう。

  • もう一つは『成功するには努力/代償が必要だ』→『苦しい努力/大きな代償は善だ』というロジックが発生してしまうこと。高額投資塾への課金や無駄な労力を敢えてかけることが不必要に正当化される。

  • 努力自体を目的化するのは悪手。自分に必要なことを必要なだけした結果、人から見たらそれはすごい努力だったねと言われるというのが良いわけで、『努力をしたから〇〇…』という発想にならないことが大事。


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