所感:"中立気取りの侮辱"現象
※FF14の話から入りますが、FF14に限った話ではありません。
状況説明
FF14から離れたいのに、"FF14"の一言をはじめての記事に入れてしまったためにFF14のネガティブ記事が常にオススメされ続けるようになり。
(厳密にはFF14分類のトップ記事がネガティブ記事なのが出てくるだけで、たまに関係ない普通の旅日記なんかもオススメされる)
耐えきれなくなって俺なりの「FF14に関する記事」を書いたら、良い経験をしたと同時に悪い経験もするし、いいねが増えていくことに喜ぶよりは微妙な気持ちになったりする。いいね自体には何の意味もないのだが、メール通知では"いいねした人の記事一覧"が表示されるので、タイトルが見える。
FF14に限らないが、タイトルと合ってない内容。
そもそも開く気もしないようなタイトル(宣伝ってやつなんだろうか)
あるいはもうタイトルを見ただけでげんなりするような諸々。
俺も他人のことは言えない。見えない他人まで気づかうのは難しい。
ある程度は気づかって、ある程度は無視するしかないのが社会付き合いだ。
他人のことは言えない
そう、他人のことは言えないのである。言いたいとしても。
「言いたい」「言えない」「言わない」はそれぞれ、別である。
俺が件の記事で主に伝えたかったのは「立場によらず、誰かを主観と偏見で叩き潰し、罵倒と侮辱を批判と呼ぶのは良くないと思う」ということだ。何に良くないのかは分からないが、良い影響はない。
もっと言えば「自分が正しい」という意識に"待った"をかけたかった。
「自分が正しい」が根っこにある、あるいは先にたった意見は、意見ではなく、侮辱・罵倒・暴言・偏見・度の過ぎた主観……。
つまりは、非常に一面的で非建設的、何の実りもない「意見と思い込んでいる別のもの」を生む。
他人のことは言えないのだ。自分のことは言えるけど。
自分のことを言おうとして、他人を言っちゃう人もいるけど。
一部の卑屈・自虐的な人が嫌がられるのは、自分だけを貶めているつもりで、他の人も貶めるからだ。たとえば「こんなものが好きなんて気持ち悪いですよね」は、同じものが好きな人全員を"気持ち悪い"と言っている。
逆も然りだ。
自分の体験を元に、誰かの体験を批判したくなるのは「共感や同意ができない」ということが大半だ。
「自分がそう思った」というだけでは客観的な根拠――他の人に分かってもらう理由――に欠けるのだ。
例えば「怒鳴るようなことじゃない」は自分の感想だ。
「怒鳴りたくなるのは分かるが、怒鳴るのは控えよう」なら提案だ。
「怒鳴るなんてお前は短気で奇妙な奴だ」なら、侮辱・攻撃だ。
思いやりとは
思いやりとは、"自分の立場を守らないこと"だと思っている。
最初に立場を定めるのは、討論の場では大切かもしれない。
けれど、社会は、人間関係は、討論のように出来ていない。
対話をしよう。議論をしよう。議論と討論は違うことを学んでおこう。
お互いの立場を決めない。
特に、正しいとか間違ってるとか、後から情報や想い次第でいくらでも変わるようなものは立場にしない。
クマを狩猟するのは、動物愛護団体からしたら悪だが、現地でクマに襲われる人たちにとっては善だ。いや、もっといえば善も悪もない。現地でクマに襲われる人たちにとって、熊害は善悪の前に、自然なのである。
善悪は、自然界の概念ではない。だから俺は苦手だし、嫌いだ。
アイヌの信仰の話はしてない。特定の例だけ持ち出して批判しようとするのは"さくらんぼ詰み"と呼ばれる悪い方法だ。美味しい部分だけ摘んで食べて、利用してはいけない。
社会は、人は、意見と意見でないものの洪水は、美味しくて不味い。
いわゆるピンキリ、玉石混交というものだ。
和を以てナシとする
同調圧力と共感の違いは何だろうか。程度だろうか。立場だろうか。気分だろうか。さっぱり分からない。分かりたくない。
俺は共感や同調を求められることが大嫌いである。自閉傾向のため、求められても応えられないからだ。
自閉傾向の困難をイメージするなら、錆びた扉の家だ。
錆びついて開かないドアを外から引っ張られ、叩かれ「出てこい」と言われても出ていけない。なのに「俺達と遊びたくないんだ」やら「私のこと嫌いなんだ」やら言われる。自分でもこの家から出たいが出れない。
いや、やっぱ出なくていいや。俺が自閉傾向を疎ましく思うのは、自閉傾向を責められるのが嫌だからなので、共感や同調を気にする奴がグダグダ言ってこなければどうでもいいのである。恋人でもないのに好きか嫌いかいちいち聞いてこないでほしい。恋人であっても聞かれたくない。
話が少し逸れたが「同意・共感できないこと」は悪ではない。
「同意・共感ができなかった自分」を責めなくていいし、守らなくていい。
同意や共感に重きを置きすぎると、「自分が同意・共感できないものは悪」という立場から物言いをしてしまうことがある。
「自分に分からないものを作った奴が悪い」というのも似たようなものだ。
真なる中立
善いとか悪いとかではない。そこには感想、意見、思いがある。
それだけで構わないのだ。
いちいち「何が善くて、何が悪いか」を語って決めようとするから、めんどくさくなる。こじれる。
自分がいかに正しいか、自分がいかに気をつけてるか、自分が自分が自分が……つまりは自己主張が激しくなる。無意識に。
では「俺」は?
今の俺はどこにいるのか? どこにもいない。
強いて言うなら「疲れたなあ」と思っている。と同時に「noteを毎日投稿するの、楽しくなってきたなあ」と思っている。
「俺は俺の味方」であり「他人のどうでもいいもの」でありたい。
そのためには「俺が正しい」は捨てる必要がある。そもそも「俺が正しい」ことなんてないのだ。
俺はちっぽけで、無力で、とりあえず飯を食わなきゃいけない存在だ。
昨日薬飲んだっけ。飲んでねえわ。今から埋め合わせして間に合うかな。
ギリ間に合うかもしれねえ。こういう飲み方よくないんだが。
秩序善・秩序悪
大体の「中立気取り」は秩序善や秩序悪であるように思う。
一般的に、社会的に見て、それはよくないと自分が思ってることに押し込めたがるのである。ケンカはよくないとか。
些細なことで文句を言うべきじゃないとか。もっと苦労して耐えろとか。他人にとっちゃどうでもいい秩序の話をする。
あるいは秩序の話にかこつけて、自分のウサとか鬱憤を晴らしている。
もちろん、これは俺の主観で偏見である。
ただ、俺は飽き飽きしているのである。大体、俺が「みんな落ち着いて」的なことを言おうとすると、「そうだそうだ落ち着け!お前たちはクソだ!」みたいなことを言い出す奴が出てくる。こいつはただ「クソだ」と他人に言いたいだけで、別に他人を落ち着かせたいわけではないと思う。
自分が何のためにそれをしているのかを考えてないヒトは多い。
まとめ
ピリピリイライラしてるのを、他人にぶつけてどうにかしたいって奴が俺はあまり理解できない。基本的な俺の精神がユルすぎるだけかもしれない。
だって自分のピリピリイライラって、外に出しても特に意味ないし。ないのよ。あるって経験したヒトは多いかもだけど。
「怒鳴らないと本気度が伝わらない」とか言うヒトがいるけど、それは一部の信仰でしかないんだよな。
「怒鳴った時点で話を聞くようで聞かなくなる」「むしろ本気で向き合うのをやめる」「無言で耳をふさぐ」が存在する。
(あ、程度はあるよ。マジで怒らなきゃいけない場面もある)
あー。
めんどくせえなあ。ご家庭ってのは。環境ってのは。
みーんな、一つにまとめられて、一つに育てられて、それでいながら、ちょっとバラバラになるくらいでいいのになー。