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天色の光 その13
**喫茶【故郷】
*マスター
翌朝、悶々とした頭を鎮めるために、あの古風な喫茶店に出かけた。
やはり信号機は確かに存在した。夢幻ではなかった。
「あるじゃん」和男は思わず独り言をいった。妙に誇らしく高揚している自分が、可笑しかった。
【故郷】という名の喫茶店の小さな駐車場に、愛車を停めた。
店のドアを開けると、大きな鈴の音がして、来客を知らせる。
昭和の時代を思わせる重厚な木製テーブルと真っ赤なレザーのソファが存在感を放っていた。
カウンター席は2席で、満員になっても16人が限度。 そのため店内は思ったより広く感じられる。
照明は電球色の温かみのある色で、居心地のよい空間を演出している。それに合わせて、心を落ち着かせるクラシック音楽が囁く程度の音量で流れていた。
まさに癒しの空間となっていた。
だが、お客はだれもいなかった。田舎の朝は早い。満席を覚悟でやってきたが、寂しいかぎりだ。
そもそも、土日だけの営業で、人が少なすぎる場所を選択すること事態、商売っ気が全くないことが伺える。
「いらっしゃい」年の頃は60歳ぐらいのマスターが出迎えてくれた。席につくと、すぐさま水が運ばれてきた。
「おはようございます。当店のコーヒーはブレンドのみですが、大丈夫ですか?」
「はい」
「ありがとうございます」マスターの落ち着いた物腰と丁寧な対応に、和男はやや気おくれした。
ここは自家焙煎の本格的なコーヒー店で、店内に香ばしい匂いがたちこめている。
和男はメニュー表をちらりと見た。確かにお任せブレンド一択だった。コーヒー以外は水だけ。軽食すらない。今時珍しい店だ。
その裏面は店名と店主名白鳥望海だけが載っていた。
「お待たせしました」 メニュー表からでも伺えるマスターのコーヒーに込める情熱や愛着に触れ、見た目だけの評価の浅はかさに頭を掻いた。
和男は上品な香りと喉越しを味わった。
「おいしいですねえ」ほどよい後味と舌触りの滑らかさが、和男を素直にさせた。
「そうですか、それはよかった」自分の子供が褒められたように、店主は会心の笑みを浮かべた。
「ところで、つかぬ事を訊きますが、ここの信号機はいつできたんですか?」肝心の用事を思い出したように、視線の中の信号機を見据えて唐突に尋ねた。
「信号機ですか?」マスターは少し首をかしげて「全く気にも留めなかったので。この店をだした時はどうだったかなぁ」と物思い耽ったような眼差しを窓越しに向けながら、独り言みたに答えた。
「なぜ、こんなところに設置されたと思いますか?」コーヒーカップを右手に持ちながら、情報の収集に努めた。
「さぁ、どうですかね」質問の意図や目的がわからず、どう対応していいのか、マスターは戸惑っていた。
*消えた女
気まずい空気が流れ始めたとき、耳をつんざくような恐ろしい、キィーキィーというタイヤの摩擦音がそれを吹き飛ばした。マスターは急いで外に出た。和男は窓から音の発生源を眺めていた。
爆音の主は、信号機の下で死んだように動かないでいる。
運転手はやっとのことで車から降り、何かを必死で探し始めた。その姿は尋常ではない。狂気を纏った表情から緊迫感や恐怖が、ひしひしと伝わってきた。
「どうかなさいましたか」マスターの心配気な声に、捜索者は驚いたように振り返る。
「いない! 消えたんです」男の言葉は要領を得ない。
「何があったんですか?」男の興奮がひしひしと伝わってくる。マスターは良ければ、手助けする旨を申し出た。
「女が消えた。車に向かって、何かを叫びながら走ってきた。あれじゃ、まるで自殺行為だ。夢中でブレーキを踏んだ。だが、間に合わなかった。轢いてしまった!」
男は罪悪感と怒りが入り混じった感情に、心の整理がつかないでいた。
興奮が興奮を呼んで、パニック状態になっていた。
マスターは男の悲痛な叫びを、冷静に受け止めた。
「落ち着きましょう。難しいかもしれませんが、その女性の為にも冷静になりましょう」男の感情の高ぶりを抑えようとしたが、男の耳にはマスタ ーの声は届いていない。男は抑えられない興奮が呼吸を浅くして全身をワナワナ震わせていた。
「わたしも探します」人と車がぶつかったような衝撃音は聞こえなかった。ブレーキ音だけだった。男の話は本当なのか? マスターは男の狼狽えぶりが度を超えているのに、一抹の不安を覚えていた。
「ひとつ、いいですか」マスターはしっくりしない感覚の原因を解消したかった。
「なんですか?」『こんな時に面倒くさい』という思いを全面にだしながら、男はマスターを見つめた。
「何かにぶつかったような衝撃音が聞こえなかったんですが、本当に轢かれたんですか?」被害者の存在を確認することが重要だった。
「何言ってるんですか!」男は心外そうに、怒りを顕わにしながらも、被害者の行方を探す素振りを見せた。男の剣幕に圧されて、マスターも仕方なく消えた存在を探しはじめた。
捜索は、ブレーキ痕の範囲内で、左側のみが対象だった。ひとつひとつ疑惑のエリアを潰していく他なかった。
車両の下には誰もいない。
車のフロント部分には、何かと衝突したような、凹みがあった。
ぶつかったという男の話はまんざら嘘でもなさそうだ。
だが、人を撥ねた痕跡とは思えなかった。
前方にも被害者の姿はない。あと残されている場所は、路傍の深い茂みの中かもしれない。ふたりの男は始点と終点から、慎重に探っていった。しかし、それらしき痕跡は全くなかった。
和男は店の大窓からふたりの行動を眺めていた。
大の大人が交差点内に車を止めて、何かを必死で探している姿は奇怪だった。
ただ深刻さは窓ガラスのフィルターを通して滑稽さに変わった。
「これは?」彼の記憶の中から、これに似た不可思議な場面が浮かび上がってきた。
もしかしたら、あの男は自分ではないか? そんな有り得ない空想が浮かんだ。だが、それは絵空事だった。
『あの女』がいなかった。あの運転手も、もしかしたらその幻影に翻弄されていたのではないかと思った。
マスターが戻ってきた。哀れな運転手は逃げるように爆音をたて、来た道を戻っていった。
「大変でしたね」和男はねぎらいの言葉をかけた。
「薄気味悪いですね。人があれほどほけた姿になるのを見るのは初めてですよ。わたしの想像を超えています」マスターはなにが起きているのかを、冷静に感じ取っていた。
「こんな事言っちゃ失礼ですが、かなり滑稽でしたよ。まるで落したコンタクト・レンズを探しているようで、その姿に失笑しました」和男は軽率な感想を言った。
「それは可哀そうですよ。追い込まれて、のたうち回る人をそのように表現しては酷ですよ」マスターは和男にやんわり苦言を呈した。
「分かっているんですけど、勝手に笑みが零れて困っているんです。道化芝居をみているようで……」
言い訳すればする程、しどろもどろになった。
「確かに、当事者でなければ、おかしいかも知れませんね。有り得ない事に出くわすと、脳の処理が上手くいかず、黙るか、笑うか、驚くか、そんな位しか反応できませんからね。正直でいいですが、露骨過ぎては浮いてしまいますから、気をつけた方がいいかと」
マスターは諭すように注意喚起した。
「すいません。肝に命じます。お詫びのつもりではないのですが、もう一杯コーヒー頂いてもいいですか?気持ちを落ち着かせたいので」
「わかりました」やれやれといった表情で和男をながめながら、マスターはカウンター内に戻った。
*見つめられて
和男はニ席しかないドア近くのカウンター席に座った。マスターの仕事ぶりを観察しながら、壁に張り付くように並んでいる食器棚に目をやっていた。
その中に小さな写真盾がポツンと置かれてあった。この店に入った時、誰かに見られているような気がしたのは、この写真に写る少女の視線だったかもしれないと思った。
「マスター、あの写真は娘さんですか?」常連でもない初見のお客の不躾な問い掛けに、マスターの顔がわずかに曇った。
和男の、相手への配慮がない『無遠慮』は急にはじまったことではない。
物事に執着しないあっけらかんとした性格の為せる業かもしれない。
決して悪意があるわけではなかった。
「娘です。十ニ歳であの世から呼ばれてしまって淋しい限りです」マスターの切ない表情に、和男は自分の無神経さを責めた。
「ごめんなさい。立ち入ったことを訊いてしまって」自分の愚かさで、また人を悲しませたことを反省した。
「気にしないで下さい。こんな話をするのはこれが初めてです。あなたも変わった人だ。まだお若いのに話をしていると、何故か舌が滑らかになる」そういうと、出来上がったコーヒーを彼の前に置いた。
香ばしい匂いが和男の落ち込んだ気持ちを癒した。
「この席でもかまわないですよね」マスターは念のために確認した。
「大丈夫です」和男は二席目を使わせたことに恐縮していた。
「この店に入った時、誰かに見られているようで落ち着かなかったのです。その原因が写真盾の彼女だと気づいたんです」言わなくてもいいことをまた、口に出してしまったと後悔した。
こんな気持ち、美香以外に分かってくれる人はいなかった。彼は自分の愚かさに気が滅入った。
「そうですか。娘があなたを……」マスターは写真盾を取りだして、嬉しそうに写真の中の娘に微笑んだ。
その様子に、和男は心底驚いたと同時に気味悪かった。
マスターの心の闇に触れた和男は、これ以上ここにいるべきではないと感じた。
「お勘定して下さい」残ったコーヒーを一気に飲み干して、さっさと店を出ようとした。
「あの、お時間があれば、もう少しお話ししたいのですが、駄目ですか?」和男にとって意外な申し出に、当惑した。
「それは大丈夫ですが、また、不愉快な思いをさせないかと不安で……」できることならすぐにでも、この場から離れたい思いだったが、実は和男にもマスターの提案は渡りに船だった。
というのも、彼は写真の少女に見覚えがあった。それは不確かな記憶だった。もしかしたら想像したことを記憶と勘違いしたのかもしれない。それを確かめたかった。
和男は時折、自分が経験したことがない出来事を誰かに刷り込まれたように感じることがある。
あの交差点の記憶も実体験が伴っていなかった。
「そんなこと気にしていたんですか? 柄にもないでしょ! あっ!口がすべりました」還暦男が悪戯っぽい視線を彼に向けた笑った。
「まいったなあ」和男も苦笑いで返した。
「さっきの話ですが、娘に見られていると感じたのは本当ですか?」
「ええ、生きた視線を感じて」もしかしたら、それも虚偽記憶かもしれないと彼は思った。
「生きた? それをどう感じられました?」
「不思議なんですが、なぜか懐かしさを覚えました」
「ほお、懐かしい? 実はあなたが二人目なんです。娘の写真に視線を感じた人は。最初の方は咎めるような厳しい視線と表現されました」マスターにとって、ふたりの異質な存在は、過去で娘とどのように繋がっていたのか、父として知りたかった。
「もしよろしければ、その写真盾を持たせて頂けませんか?」彼は写真との間に邪魔が入らない距離で会いたかった。
「いいですよ」マスターは快くそれを手渡した。
和男はまるで少女を抱きしめる様に受け取った。
和男が抱いていた違和感がすぐに分かった。美香がそこにいた。十二歳の彼女がそこに写り込んでいた。
顔は違っていたが、心の印象は美香だった。彼女が和男に何かを伝えたかったに違いない。
「立ち入ったこと訊きますが、お嬢さんはなぜ亡くなられたのですか?」過去がマスターの顔を歪ませた。
「今日は朝から心が騒がしくて、落ち着かなかったんです。店に着いた時、ここの信号機の上でカラスが異常なほど鳴いて、気味が悪かったし、その写真盾も何度も倒れて驚かされました。でも、あなたが来てからは、なぜか心が落ち着きました」マスターは質問には応えず、身近で起きている、不可思議な出来事について語った。
写真盾が勝手に倒れるなど、ありえない現象だ。それも複数回も。和男の来店は、店主にとって、救いの神のように思えた。
「僕でも役に立つことがあるんだ」満更でもないといった笑みを見せた。
「娘の名前は百合と言います。彼女は十二歳の時」マスターが辛い記憶を打ち明けようとした時、和男が突然、それを止めさせた。
「ごめんなさい。それ以上は……」彼自身が問い掛けて、その答えを拒否するなど、支離滅裂で失礼にも程があった。マスターの顔にも少し戸惑いと苛立ちが見て取れた。
「訊かなくてもいいのですか? それとも、すでに分かっているとか」まさかの話だが、それを確かめるつもりで訊いた。
「はい。先程百合さんから動画でメッセージを受けました」マスターは和男が嘘を言っているとは思えなかった。
出来ることなら、娘の声を直に聞きたいと熱望した。
「あの、答え合わせをしたいのですがいいですか?」マスターはもしかしたら、新しい過去の扉が開くことになるかもしれないと期待した。
「いいのですか?」和男は念を押した。
「お願いします」
「百合さんは帰宅途中に暴走してきた車に撥ねられ、命を落しました。加害者はそのまま逃げ、まだ捕まっていません。彼女は待っていました。自分が彷徨う姿を見つけてくれる人を」父は亡娘の声に驚愕しました。
「あなたは娘の姿が見えるのですか?」
「いいえ、わたしには無理です。そんな能力はありません」和男の意外な返答に、彼は狼狽えた。
「では、どうして事故の真相を知り得たのですか?」娘が亡くなってから26年の月日が流れていた。娘は記憶の中で生きているだけだ。
「写真の中の彼女の声を聞いたわけではありません。この写真の中に現れた私の幼馴染が教えてくれました」にわかには信じがたいその言葉に、彼は強い不安を覚えた。
「それはどういう意味ですか?」言葉の真偽を確かめるより、相手の精神状態に深い疑念を抱いた。
「言葉通りです。信じてもらえるとは思っていません。でも、その場限りの出鱈目なものでもありません」和男の言葉がどれだけ相手の心に届いていたか、知る由もなかった。
「あなたの言葉は全くわたしには理解できません? 心がうけつけないのです。しかし、あなたを嘘つきとは思っていません。わたしの心が追いついていないだけです」マスターは広大な樹林にひとり残されたような孤独感と絶望感に襲われた。
ふたりはまるで違う世界の住人のようだった。そのため目に見えない壁がふたりを遮っていた。
その時、入口の鈴の音が大きく響いた。
「あなた、大変!」老婆というには失礼な容姿の女性が慌てて、店に入ってきた。彼女は和男の顔を見ると、恥ずかしそうに頭をこっくりと下げた。
「どうしたんだ、そんなに慌てて。お客様にご迷惑だろう」マスターの軽い叱責を受けると申し訳なさそうに、
「すみません、おくつろぎの所を」と謝罪した。
「大丈夫です。気にしないで下さい」和男も反射的にきまり文句を並べた。
「わたしの女房の、潤子です。こちらは、まだでしたね」気まずい笑顔を見せながら、自己紹介を迫られた。
「わたしは、颯田村出身の弓削和男といいます」マスターに促されるように名前を名乗る羽目になったことに、妙な気恥ずかしさがあった。
「はじめまして。白鳥潤子です」まるで親子程年齢差がある若者に、彼女も戸惑った。
「あなた、驚かないでね。お墓で百合に出会ったの」
潤子の声は興奮で上ずっていた。
「いい加減しなさい!」マスターはやりきれない気持ちで、妻を戒めた。
「本当なのよ。幻なんかじゃないわ。どう言ったら信じてくれるの?」潤子の時間は、娘が亡くなった時から止まったままだった。
お店に出ている時は、平常心を保っているが、家に戻ると優しい母親に戻る。
肉体を無くした娘との幸せな生活が動き出す。
夫の望海はその姿を見るたび、やりきれない気持ちで心が爆発しそうになる。
こんな生活は早く解消したかった。妻は妻の役割を放棄して、自らの世界に閉じこもってしまった。
ふたりを繋ぎ止める絆は目の前から消えた。
こんな生活が26年も続いている。
「百合はそこにいるよ」と食器棚を見たが、それはまだ和男の手の中にあった。
「あなた、百合はどうしたの?」いつもの場所に娘はいなかった。彼女は激しく動揺した。
「ここです」和男の手に抱かれた娘が潤子の眼前に現れた。
和男は潤子に詰られる寸前で回避できた。
「なぜ、あなたは百合を連れだしたのですか?」母親の不信に満ちた、とげとげしい視線に、和男の気持ちは萎えた。
どんな弁解をしても、許される筈はないと覚悟をきめた。
一方通行の人間にとって、逆進行為は許されない。
「潤子、いい加減にしなさい。失礼でしょう。この人はね、百合の声が聞こえるそうだ。彼女のお気に入りの人に違いない。大事にしないと、百合に嫌われるよ」
マスターは長年の経験で、妻の扱い方を覚えた。
妻が一番恐れるのは、百合に嫌われることだった。
「やはり、百合は生きていたでしょ! だから言ったじ ゃないの」潤子は歓喜に打ち震えていた。
その姿は正常な感覚からすれば狂気であるが、娘を亡くした母親への神様からの止まり木だったかもしれない。
だが、マスターから見ればそれは一時だけの休息場であって欲しかった。
和男は、美香から大事な伝言を預かっていた。
それは、百合から母、潤子へのものだった。
「マスター、娘さんからお母さんに伝言があります」信じてもら得ない話をどう伝えてよいか、和男は苦悩した。
これは、あの世からのメッセージだった。
だが、彼の妻と和男は同じ範疇の人格と思われていた。
「わたしにはどう応えてよいか分かりません。ところで、あなたはなぜ今躊躇されたのですか?」齢を重ねた人生の先輩は、心の襞をうまく拾い上げて、そのわだかまりに迫ってくる。
「奥さんの心が崩壊するかもしれないという懸念があったからです」なぜ美香はそれを和男に託したのか?
そんな重荷を背負える程、彼がタフではないことを知っている筈なのに。
「それでしたら、わたしが支えます。もしかしたら同じ世界にまた住めるかも知れません」微かな望にかける彼の心情が、深い闇の存在を顕わにした。
「奥さん、写真盾を下さい」
「百合はどこですか?」和男の顔を伺うような素振りに、母の不安感が漂っていた。写真盾を受け取った彼は、美香の出現をまった。
『和君』美香の声が耳に響いた。それが合図だった。
「百合さんからの伝言です」ふたりは写真盾の世界に吸い込まれていった。そして、娘の悲惨な最期を目の当たりにした。
真実は残酷だった。
知らないことが幸せの場合もある。
無理に地獄を覗かせる必要はなかった。
美香の目的はどこにあるのか、和男には分らなかった。
ふたりは憔悴しきった体で、この世界に戻ってきた。 だが、あるべき怒りの感情は過去に置き去りにしてきた。
過去を知ったことで、ふたりには共通の目的ができた。 それは娘を死に追いやった犯人を捜すことだった。
二十六年の月日が流れて、ようやく犯人の容姿に行き当たった。
「魂に焼きつけましたか?」写真盾を手にしながら、茫然と虚空を見つめる夫婦に尋ねた。
「百合と久しぶりに逢えて嬉しかった。 それが幻だったとしても。 わたしは悲しみの中に居場所をみつけて、安住した年月を後悔しました。 そんな私を見捨てずに、傍で寄り添ってくてた主人には感謝です」潤子の思いがけない言葉に、マスターは上を向いて熱い思いが流れ出すのを堪えていた。
「百合の無念は必ず晴らす」
「そうよ、わたしも休まずこの窓から娘を見守るわ」美香は夫婦に何を見せ、何がしたかったのか? 和男には全く見当もつかなかった。
和男はこの喫茶店そのものが幻のように思えた。
駐車場でエンジンをかけ、アクセルを踏み込むと、なにもかもが、露と消えてしまいそうに思えた。