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封印された人々 その3

中編小説

**脱出

 車内に卵の腐ったような匂いが、漂いだした。
 まるでサウナ状態で、汗も吹出した。

 小邑はこの村に閉じ込められるのではないかと慄いた。

「キャー!」車内は、耳を劈くような香の悲鳴が響き渡っていた。

 いつの間にか、亡霊たちに囲まれていた。
 車の周りは、顔、顔、顔で埋め尽くされている。
 『どこから、こんなに湧いてきたんだ』
 まるで、大地から抜け出てきたようで、その混迷に収拾がつかないでいた。

 小邑は慌ててDドライブにシフトして、アクセルを強く踏み込んだ。だが、車はその思いに応えてはくれない。まるで、車の四輪が、この村の全ての死者の腕で抱きかかえられているかのように感じた。
 
 エンジンが悲鳴を上げている。

 村人は窓という窓を叩きながら、何かを必死に訴えていた。だが、その打音も叫び声も、小邑には聞こえない。

 香は自撮り棒につけたカメラで、泣き喚きながら、動画を撮ろうとしていた。リアにもサイドにも、村民たちは、幾重にも重なりながら、しがみつこうとしていた。

「助けて!」「ドアを開けろ!」「見棄てるのか!」「水をくれ!」

 亡霊たちの悲痛な叫び声が交錯し、打ち寄せる波のように、香の鼓膜を響かせていた。
 
 同じ車内にいて、ふたりの見える世界は違っていた。 彼女は亡霊たちの怨念や悲しみ、口惜しさを、ひとりで背負わされているようで、その姿は痛ましかった。

 フロントガラスには、次々、恐怖で引きつった顔が、映し出されては、消えていった。

「やめて!もう、やめて!」車内は、空手の有段者とは思えない、悲痛な絶叫が、繰り返し響き渡った。
 これ以上続くと、精神が崩壊するのではないかと、小邑は危惧した。

 そして、小邑はこの光景が幻覚だと、自分に言い聞かせた。 車のアクセルは踏み続けた。次第にスピードは上がっていった。

 車が進むにつれて、次々と目の前で撥ねられ、飛ばされていく村民たち。その姿は無残で、車から振り解かれて路面に叩きつけられる様子は、見ていられないほど残酷だった。

 車は、やっとのことで不気味な手掘りトンネルまで辿り着いた。
 その入口は、まるで巨大な口を開けた怪物のように見え、今にも喰われそうな錯覚に陥った。暗闇の中からは得体の知れない呻き声が聞こえていた。
 
 その時、空が真っ白になり、迅雷が吠えた。
 凄まじい空気を切り裂く音と、車の屋根に叩きつけるけたたましい雨音が響き渡る中、亡霊たちは驚愕し、絶望に打ちひしがれた。

「ないわ!ない!」彼女の目には、トンネルの口が塞がれていた。
 信じられない光景に、口をパクパクしながら、異形の光景に衝撃を受けた。
 
 香は亡霊の凄まじい怨念に晒され、心身ともボロボロにされていた。
 小邑は助手席の動揺を気に留めることなく、躊躇なくトンネルに突っ込んでいく。

「やめて!」香は咄嗟に両腕をクロスして、顔を守るように、衝突に備えた。亡霊たちは、必死の形相で、車体にしがみ付いたままだった。
 
 トンネル内は、亡霊たちに埋め尽くされ、まるで、避難所みたいになっていた。不安と恐怖を感じながら、息を潜めて佇んでいた。車は停まることなく、出口へと進んだ。
 
 前方にはホワイトホールが待ち受ける。亡魂は、うめき声をあげながら、無念の思いで、車から落ちて消えていく。
 
 暗澹としたトンネルを抜けた。
 亡霊から逃げきれた。 
 
 雨は上がり、眩しいほどの日差しが、フロントガラスに跳ね返った。車は疲労困憊で動きを止めた。

 バックミラ-に目をやるると、亡者の道はなくなっている。トンネルは、コンクリートで封印されていた。

「助かった」小邑は全身の力が抜けたように、座席に身を委ねた。目を閉じると、人々の悲し気な形相が、次々と浮かび上がっては消えた。

 助手席からは、小さな寝息が聞こえてきた。

**わたしの父です

 "トントン、トントン”と運転手側のサイド・ウインドウを叩く音で、小邑は目を開けた。
 車内をまだ若い警察官が覗き込んでいた。
 窓ガラスを下げると、ほっとしたような表情を浮かべた。

「どうか、されましたか」優しい口調で、問い掛けてきた。

「疲れて、休んでいたところです」小邑は憔悴しきっていた。
「すみません。休憩中に」警官は、申し訳なさそうに謝 った。香の気持ちよさそうな寝息に、不審者でないことを察したのだろう。だが、免許証の提示は求められた。

「小邑達也さん。愛知県ですか。隣の方は?」

「雫香といって、カメラマンです」

「やはり、同県ですか?」

「はい。探訪仲間です」

「ここへは何か目的でも?」

「神無村の探索をと思って」

「そうですか。残念ですが、この通り、トンネルは封印されています」

「……」

「ところで、後ろの窓に,『たすけて』と書かれてあるのですが、心あたりは?」予想だにしていない問い掛けに、小邑はあわてた。

 急いで車外に出て、確かめてみる。『たすけて』の文字はまるで生き物みたいに感じた。これはメッセージではない。悔しさや怒り、絶望が封印された呪文だ。
 
 小邑は不憫でならなかった。

「まるで呪いですね」警官の冷めた声が耳に響く。

「呪い?」なるほどと、小邑は思った。

「雨が降っても、この文字は残った。不思議ですね」若者は両手を合わせて、拝んでいるようだった。

 文字はゆらゆら動き始めた。還暦を迎えて、目の働きが弱ってきたかと思った。だが、そうではなかった。

「そんな。まるで魂が動いているみたいだ」警官が驚きを隠せないでいた。しばらくすると、ガラスに映された文字は消えて無くなった。

「消えた!」小邑は現実と幻覚の境界で彷徨っているみたいだった。戸惑いは、シーソーのように波打っ。

「目撃者はひとりじゃないです」慰めにもならない言葉に、還暦男は幻覚の孤独に打ちのめされた。

「ところで、こんな所まで、パトロールですか?」小邑は、パトカーが横づけされていること事態が、意外とばかりに尋ねた。

「実は、麓の集落から、他県番号の車が、ススキが原の方角に向かった、という知らせを受けて、念のために」
 警察官は奥歯に物が挟まったような言い方をした。

「わたしたちは不審者ですか?」小邑は自嘲気味に頭をかく。

「いえ、この場所は、行方不明になる人が多いんです」 警官の説明に、驚かされた。

「行方不明って。犯罪とは違いますよね。オカルトめいたことですよね」直観的に小邑は解釈した。

「知っていたんですか?」警察官は、驚いたように男の顔を見つめた。

「信じがたいかもしれませんが、実は、このトンネルを抜けて、神無村へ行ってきました」小邑は言った後、後悔した。狂人扱いされるのではないかと、不安が過った。

「そうですか。大変だったでしょう」警官は何の抵抗もなく、素直に小邑の言葉を受け入れた。

「驚かないんですね」有り得ないことを言われて、躊躇なく、それを受け入れる者は皆無だ。小邑は不気味な違和感を覚えた。

「慰霊碑が、そこに建立されていますが、あちらでも見ましたか」警官の意外な質問は、小邑を緊張させた。

「え?お巡りさんも、あちらへ行ったことが、あるのですか」大きな疑念が小邑を困惑させた。

「はい。わたしはあの村の出身です。あの災害の時は、唯一、村に居なかった人間でした」青年の告白に、小邑は気を失いそうな恐怖を覚えた。

「村では、あなたと同じぐらいの老人に会いませんでしたか?」老人という言葉に、小邑は傷ついた。

「ひとりだけ。山水さんという方に会いました」

「そうですか。たぶん、わたしの父です」警官の言葉に、全身が硬直し、声も出なかった。

「『水が欲しい』と言われたので渡しました」
『あの老人も亡霊?』小邑は信じられなかった。

「ありがとうございます」警官は丁寧に頭を下げた。

「それから、あなたへの伝言を預かっています」老人の祈るような表情が目に焼き付いている。託された願いを伝える機会が訪れた。

「大丈夫です。すでに、受け取っています」と予想もしなかった答えを聞いた。

「会われたのですか?」

「今、父の声を聞きました。あなたのお陰です」小邑は香の言葉を思い出した。この青年も同じ能力を持っている。

「……」

「では、これで。気をつけてお帰りください。但し、陽が落ちるまでに必ず、あの三叉路まで戻っていて下さい」若者は麓に見える、三叉路を指さした。

「何故ですか?」

「先程もいいましたが、ここは行方不明者が多いです。陽が落ちれば戻れません」

「脅かさないで下さい」一秒でも早くこの場を去ることが賢明だ。

「必ず守ってください。それと、時計……。わたしは、あの三叉路を右に曲がって、少し行った所にある交番で勤務しています。そこで、いつも村の安全を守っています」青年はそう告げると、パトカーに乗って、ススキの群生地を戻っていった。

 不思議な事にススキの大群は、道を開けるように横たわって、行く手を遮るようなことはなく、美しい壁を作っていた。
 山道は三叉路まで、目視できるほど、美しい蛇行の光景を見せる。往路と復路は全く違う風景を見せていた。

**母の御守り

 小邑は、トンネルの正面に置かれた石碑を、スマホに残した。そこには村で見た同じ文言が刻み込まれていた。唯一違ったのは死者数だった。ふたり増えていた。

「香、かおる! 起きろ」穏やかな寝顔を見ると、起こすのが申し訳なくなる。経験したことのない、恐怖の連鎖に耐えながら、必死に動画を撮り続けた根性には感心するばかりだ。

 だが、香には、もう一仕事残っていた。起きる気配がなかったので、無理やり右肩を揺すった。

「うんんん……え!」びっくりしたように彼女は覚醒する。

「ここどこ? どうなったの?」香は小邑の顔を不思議そうに眺めた。

「ようやくお目覚めか?」状況がまだ掴めていない寝ぼけ顔に苦笑した。

「トンネルはどうしたの?怪我なかった?」香はまだ、幻覚の世界から抜け出していなかった。

「ありがとう。心配してくれて。でも、もう終わった。前を見て。ススキの群生がお待ちかねだ」小邑はやさしく、帰還を労った。

「さっそくだけど、カメラのバッテリーまだある?」男の脳裏には、警官の顔があった。

「あるわよ。まだ四分の一ぐらいは」残量目盛りをみながら、香は首を傾げた。

「そうか、だったら大丈夫だ。これから帰る。僕がOKというまで、左側の車窓の風景を動画で取って欲しい。特にあの三叉路を右に回ってからは、目を離さないで」運転手の言葉に、香は一瞬で緊張感に包まれた。

「了解。理由は後で聞くから、出してもいいわよ」思いつめたような表情に、小邑は香の感性の鋭さに感心した。
 
 小邑はエンジンを掛け、シフトレバーをDにして、アクセルを踏んだ。だが、車が動かない。

「あれ? 動かない?」アクセルを強く踏み込んだ。しかし、エンジンの回転数があがるばかりで、前進はしない。

「行かないの?」香は運転手の狼狽ぶりに、何が起こったのか見当もつかなかった。

「動かない!全然動かない!」焦りと動揺が入り混じったような、不安な声が、彼女を驚かせた。

「パーキングよ。動く筈ないわ。冷静になって!」30歳も歳下の娘から、駄目だしをされた。

「え! そんな馬鹿な。ドライブに入れたよ。見ていただろう?」信じられないような視線で、ギアの位置を見つめた。

「しっかりしてよ。頼りにしているんだから」慰めにもならない言葉が、空しく耳元を通り過ぎていく。

「今、何時だ。辺りが急に薄暗くなってきたぞ」雲が次第に黄色くなってきた。まるで、陽が沈み始めたように感じられた。

「え? もう5時よ。うそでしょ。ちょっと待って!時計の針の進み方が早いわ」針はふたりの困惑を余所に倍速で進んでいる。あの警官の言葉が思い出された。

「まずいぞ、陽が落ちたら、この空間に閉じ込められてしまう」運転手は震える手で、ギアをDにして、再度、アクセルを踏んだが、景色は変わらない。

「どうしてパーキングに戻すの?」香は背筋が凍るほどの驚きで、声がかすれた。ギアを掴む手がふたつ重なっている。自分の目を疑ったが、間違いない。

「あたな、誰なの?」母から貰った魔除けのお札をポケットから取り出し、小邑の左手の甲に押し付けた。
 
 ギアはドライブにシフトし、車は動き始めた。

「ドアポケットにつかまれ!」アクセルペダルをべた踏みした。
 爆音が響き渡り、ススキの大群が背景に遠ざかっていった。タイヤはカーブを旋回する度に、『キー、キー』と強烈な悲鳴をあげる。まるで、レーサーのようなハンドルさばきに、香の気分が爆あがりした。
 香は恐怖心をどこかに置き忘れたかのように、流れる風景に、身を任せた。

 ところが、太陽の光が突然消えた。暗闇が前方に広がった。ライトを点けても、光が辺りを照らさない。 
 悲鳴のような急ブレーキが、「キャアー」という金切声とハウリングするように闇に響いた。
 
 その瞬間、車の前方に、真っ白な、あの時の鳥が現れた。その姿は闇に飲み込まれることなく、光輝いていた。そして、先導するかのよに、ゆっくりと低空を飛んだ。
 
 小邑は、神秘な鳥が放つ光に、全神経を集中し、やっとのことで平衡感覚を保っていた。

「なんなのよ、この闇は。目を見開いても、何も映らない。小邑さん!」疑心暗鬼に陥った香の泣きが入った。
 隣の彼女の姿は見えない。彼女の息使いや、声が雑音のように聞こえる。

「目を閉じろ」小邑はやっとのこで、隣にいるはずの、香と言葉を交わした。
 視覚の情報が消えてしまい、自分の存在や時間感覚さえも失ってしまいそうで、恐ろしかった。
 
 彼の心臓や呼吸音は異常に大きく聞こえ、殊更、孤独感を深めた。
 闇から、温もりが小邑の左手を掴んだ。言葉より優れたコミュニケーションだった。

 白い鳥が消えた。と同時に薄暮の三叉路が現れた。

「助かった。あの警官が云った通りだ」ふたりは行方不明者の名簿に名前を連ねることを免れた。
 
 窮地から逃れた感激よりも、全身凝り固まったせいで、ぐったりした。心労がこれでもかと、襲い掛かってきた。

「もういいよ」小邑の声に香はゆっくり目を開いた。

 光のある世界が戻っていた。だが、全身は恐怖で硬直している。
 彼女の肉体は溶けるように、ゆっくりと弛緩していく。凍り付いた感情も、並行して立ち現れ、我を取り戻していく。
 
 香は悪夢から解放された。

「もう、指も肩もパンパン」小邑の左手に重ねた右手を離しながら、「何かが肩にのかかっているみたい」と、右手で左肩を解しながら、首をゆっくり曲げ伸ばしてた。 
 体の痛みが、壊れそうな心を防御していた。

「何だこれは?」珍しく動揺した声が零れる。小邑の左手の甲の上には、魔除けの御札が張り付いていた。

「ありがとうね」香は男の甲に預けた御守りを剥しながら、感謝の念を伝えた。

「御守りなんて殊勝なことで」

「お母さんよ」御守りを握りしめる手に力が入った。

「出来の悪い娘ほど、心配だからな。今回は美雪の手柄だな。感謝、感謝」体の緊張が解けないままで、口は安堵のせいで、軽くなっていた。

 そのため、一言余分な言葉が表にでる。香はその老人癖に耐性ができていた。
 不思議な事に、ふたりを救った白い鳥の存在は、小邑の口からは出てこなかった。

「よし、行くよ。左エリアは確実にね」

「まかせて」体の震えは止まっていなかったが、カメラを持つと、不思議と気持ちは立ち直っていた。
 
 車は三叉路を右折して、ゆっくり進んでいく。

「駐在所、駐在所」御経のように唱えながら、小邑は前方に集中した。赤いパトライトの冷たい光が目に飛び込んできた。
 
 青年は、立番で、交番の前に立って周囲の警戒にあたっていた。

 小邑の車を見つけると、敬礼したまま、見送った。その悲し気な視線に、運転手は軽く頷いて、その場を通り過ぎた。

「香ちゃん、もういいよ。ありがとう」

「え! そうなの?」強く握りしめた自撮り棒から、カメラを抜いた。

「見えたかい?」

「なにが?」時折不可解な質問を投げかける男に、香は戸惑っていた。

「そうか……」見えている世界がやはり違っている。

「もう、なぞなぞはいいの。はっきり言って!」香は世代が離れた男との、言葉のやり取りが円滑に進まないことに、ストレスを感じていた。
 
 自分が全く相手にされていないという屈辱感や、自分の存在が無視されているような疎外感に陥るのだった。

「帰ってからな」

「あっそう。だったら、わたし、少し寝るから。ごめん。未婚のかわいいお嬢様が乗っているのだから、絶対、安全運転して!」香は家に着くまでの160分、会話を拒絶するかのように、目を覚ますことはなかった。


注:画像はMicrosoft Copilot AI生成画像です