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雪の恋物語 その1

中編小説

狐の雪は……

**狐の雪
ここは狐たちが住処としているススキヶ原。
 狐の世界で一番の美貌を誇る雪がいる。
 雪は人間世界に憧れ、この里を離れようとしていた。その訳は、幼い頃の記憶にあった。
 雪は鹿狩りの猟銃の流れ玉で怪我をしたことがあった。痛みに堪えながら逃げ出したが、途中気絶してしまった。
 目が覚めた時、雪は動物病院のベッドに横たわっていた。
 偶然通りかかった人間に助けられ、ここまで運ばれたらしい。

「大丈夫!大した傷じゃない。治療が終わったら、見つけた場所に返してあげて」医者は優しい目で、子狐を見つめていた。

「そうですか。よかった」この子狐をわざわざ動物病院へ運んできた榊謙二は嬉しそうに、にっこり笑った。

 治療を終えると、言われた通り発見したの場所に、子狐を戻した。謙二は車を運転の最中、奇妙な視線を感じた。助手席をちっらとみるが、狐は震えながら、蹲っていた。

 榊謙二は山裾んの小さな村にある、見すぼらしいアパートで、独り暮らしをしていた。勤め先は、気動車で1時間程の地方の中都市にある会社で、事務の仕事をしていた。
 日々の楽しみは、仕事帰りに、無人駅の近くにある居酒屋で、ちょびちょび酒を飲むことだった。
 ほろよいながら、歩いてアパートに帰るのも気に入っていた。周りは田園風景が広がっていた。
 そんな気楽な生活が5年も続いていた。
 
 わざわざ、そんな不便な所に住まなくてもいいのにと、同僚から揶揄される。だが、ここは故郷に似ている。一両だけの、色あせた気動車も、同じだった。
 のんびりとした時間の流れが、日々の疲れを癒していた。

 謙二はいつものように、居酒屋に立ち寄ると、中は珍しく混んでいた。
 だが、カウター席の右一番奥の、自分が勝手に決めてた指定席には、誰もいなかった。
 それに何故か、店の荷物がおかれていた。

「席取ってあるよ」大将が声を掛ける。

「ありがとう」見かけに寄らず、神経が細かい。そのアンバランスがまたいい。荷物を退けようとすると、

「もらいます」と、照れくさそうに若い女性の声がした。

「はぁ」と情けない声で応え、荷物を手渡す。

「今日から、うちで働くことになった雪ちゃんだ。よろしくね」大将はそつなく、新人を紹介した。
 
 まだ二十歳そこそこで、無口で控え目な性格だったが、その美貌は居酒屋に置いてくのは、もったいない程だった。
 まるで雑誌から抜け出たようなスタイルと容姿だった。その為、いつも以上に飲み物や料理の注文が増え、忙しく動き回る彼女の姿が、周りの男たちを賑やかしてた。

「いいか、この娘に手をだしたら承知しないからな」大将は、彼女への意味深な視線に、釘を刺した。
 お客たちは顔を見合わせ、クスクス笑った。

 注文も一段落ついたので、雪が謙二の前にやってきた。
 カウンターには、熱燗と焼き魚が置かれてあったが、まだ、魚には箸がつけられていないかった。

「食べないんですか」食べたそうな顔で焼き魚をみつめていた。

「お腹空いてるのか」じろじろ見られていては、箸が伸ばせないので、声を掛けた。

「少しね」あっけらかんに、答えた。あまりにも素直すぎたので、謙二の方が驚いた。

「御酌しましょうか?」周りに聞こえないような声で、恥ずかしそうに言った。

「いやいや」小さく右手を振って、盃を抑えた。

「そんなことしたら、あっちこっちから、御酌のオーダーが掛かって大変な事になるよ。ここは、安酒がメインだから、そんな気遣い必要ないから」日頃無口な謙二の舌が軽快に動いた。

「悪かったな、安酒で」地獄耳の大将が、間髪いれず、ちゃちゃを入れた。

「え!聞こえた? 許して!」謙二は顔の前で、合掌し詫びた。

「許さねぇ。雪ちゃん、熱燗一本追加ね」大将が勝手に注文を入れた。

「はい。肴も追加です」雪も、ウィットに富んだ注文で返した。

「ラストオーダーですよ」頭を掻きながら、大将に釘を刺した。安月給の身では、ぎりぎりの線だった。

「よしゃ、よしゃ」と大将は上機嫌となった。雪も口を抑えながら、笑いを堪えていた。

**雪とふたり

 謙二が居酒屋を出たのは、いつもより一時間遅かった。 お酒が回ったのか、少し体がふらついた。
 それでも、気分は上々で、つい鼻歌も飛び出した。

「一緒に帰りませんか?」突然、背後から雪の声がした。
 彼女の声には、その明るさとは別に、どこか寂しさが混じっていた。
 
 謙二は、若い娘に声をかけられたのは、初めての経験だった。嬉しかったが照れ恥しい一面もあり、気づかれないように、冷静さを装った。

「あれ?お店は?」謙二が戸惑っていると、
「わたし、八時までなので。お客さんの姿がみえたので、一緒にと思って」     雪の私服は、田舎では不釣り合いな、流行を取り入れた、最新のファッションで決めていた。

「いいけど、あそこに見える、ボロアパートまでだけど、いいかな?」遠目に見える建物を指差しながら言った。

「もちろん。わたし、岬雪と言います」

「僕は榊謙二。よろしく」お互いの紹介が済むと、自然と笑みがこぼれた。

 今日は新月なので、夜空の星は燦燦と煌めいていた。それは田舎ならではの光景だった。
 
 街路灯がぽつんぽつんとあるので、真っ暗な道を歩く恐怖感はないが、時折、雪が腕を絡ませてくる。それは、全く意外な行動だった。彼女の温もりは謙二の心拍数を不規則に早めた。そして、新月は、まるで彼らだけの世界を見守っているようだった。

秋の夜風が肌をかすめていく。
お酒の入って身体には、さわやかな冷たさが心地よい。星が瞬く夜空の下、静寂の中に二人の足音だけが響く。雪の控えめな、何気ない行動が、謙二の心をさらに高揚させた。彼女の手が腕に触れるたびに、その温もりと同時に柔らかな感触が、彼の内心をドキドキさせた。

肩が擦れ合うほどの距離で歩みを進めるたびに、雪の笑顔がちらちらと視界に入る。彼女の瞳が輝いて見え、その一瞬一瞬が心を弾ませた。

道端の雑草が風に揺れ、カサカサと音を立てている。
二人だけの時間がゆっくり流れていく。

そうこうしていると、アパートに着いた。建物の前に立ち止まり、謙二は深呼吸をした。夜の冷たい空気が肺にしみこみ、頭がすっきりと冴えた。雪もまた、彼の隣で立ち止まり、少しだけ顔を赤らめて微笑んだ。
 
 「こんな暗い道、女ひとり危ないから車で送ろうか?」
 田舎の夜道は漆黒に近い。男でも怯んでしまう。

「大丈夫。懐中電灯もあるし。それに、飲酒運転は駄目でしょう。じゃぁ、またね」雪は全く暗闇を意にかいしていなかった。
 
 雪の背中が闇にきえるまで見送ると、自分の部屋に向かった。もちろん誰もいないので、部屋から明かりがこぼれ出ていることはない。

 部屋に入る時はいつも「ただいま!」と、誰もいない空間に声をかける。自分の声を聞くことで、孤独感を和らげることができる、生活の知恵だ。

 服を脱いでパジャマに着替える。その時、奇妙な物が服の腕辺りに付着していた。狐の毛だ。ひと目見て分かった。あの子狐の感触と同じだった。でも、どこで付いたのか全く見当もつかなかった。

 居酒屋は雪のお陰で大繁盛だった。隣村からも車でやってくる。駐車場は少なかったので、路上駐車となった。
 お陰で警察が出てきて、店帰りのドライバーの飲酒チェ ッ クまで始めた。

 謙二は店に入ることさえ出来なかった。外待ちの客が溢れていたからだ。

 謙二はその行列を横眼で見ながら、帰宅前の楽しみを諦めて、寝場所に帰って行った。

**悪い評判

 雪の評判で客足が増え、大賑わいだったが、その熱も次第に冷めてきた。
 謙二は2ヵ月程、大将の顔を見ていなかった。その間、雪はアパートを訪ねてきたことがあった。大将が心配して、雪に様子を見に来させていた。

「あれじゃ、中に入れないよ。大将、笑いが止まらないだろう」謙二は商売繁盛を素直に喜んだ。

「そうでもないわ。変な奴が増えて、御冠なんだ」雪もへきへきした様子だった。

「変な奴って、どんな奴?」謙二は、雪に言い寄ったり、おさわりする、昭和の小父さんたちを思い浮かべた。

「それがね、『こんな田舎で、女優みたいな美しい女がいるはずはねぇ。お前、狐の類だろう。お尻をだせ』って言うの」やはりその手の輩かと、謙二も呆れた。

「それでね、本当にお尻をなでるの。信じられる? 酷いでしょ!セクハラおやじの見本みたいな、ハレンチな奴なの」雪は話しているうち

『こんな爺さん、どこにでもいるよ』と思いながら、雪の屈辱を考えると、謙二は許せなか った。

「でも、病気じゃなくて良かった。また来るね。そうでないと、【居酒屋のんべぇ】を忘れてしまうでしょ」そう言うと、雪は闇夜の中へ走り出していた。

 雪の訪問から10日経ってから、謙二は居酒屋を覗いてみた。外待ちの客は誰もいない。あの喧騒はなくなっていた。
 暖簾を潜ると
「いらっしゃい。ひさしぶりだね」いつもの大将の声が懐かしく感じられた。しかし、雪の姿はなかった。
 
 『今日は休みかもしれない』と思った。謙二はいつもの指定席が空いていたので、久しぶりに腰掛け、居心地を確かめた。

「いつものやつでいいね」謙二も常連客の仲間入りで、注文は大将任せだった。

「この前は、ありがとうございました」

「え?何のこと?」雪が心配して、『アパートを訪ねた』ことに感謝した。

「なんだぁ、あれは雪の思い付き100%」苦笑いしながら、若い娘の行動力に感心した。

「今日は珍しく、空いていますね」雪の人気は急降下したのかと、危ぶんだ。

「それが、変な噂がたってな」大将の顔が曇った。

「なにか、あったんですか」深刻な問題が発生していることは、大将の戸惑いからも、伺い知れた。

「馬鹿らしくて話にならんが。妙なことに、何故か、まことしやかに話が伝わって……」話の内容が、さっぱり伝わって来ない。大将らしからぬ態度に、謙二の方が困惑した。

「大将!ずばっと言って下さい」謙二は答えを促した。

「笑うなよ!『雪の正体は狐だ』と言って騒いでいる奴がいる」

「へぇ。狐よりは狸だな」謙二は冗談半分に言ったつもりだったが、大将の顔が剥れた。

「冗談です。冗談」今回は謙二の軽口は許されなかった。セクハラジョークは禁句だった。

「それで、雪ちゃんはショックを受けて、ここ3日全く顔を出していない。あんた、雪の住所知っているだろう?」別に付き合っている訳ないので、どこに住んでいるかは、謙二は全く知らなかった。

「さぁ、知らないです。僕の住んでいるアパートの奥の地域だと……」言われてみると、雪のことは全く知らない事ばかりだった。はっきり言えば、謙二にとって、そんなことはどうでもよかった。

「なんだ、付き合っていたんじゃないのか?」大将は怪訝な顔をした。

「やめてくださいよ。そんなんじゃないです」大将の意外な認識に、謙二は顔を赤らめた。

「だとしたら、へんだなぁ。あれより奥は人家は少ないし、老夫婦ばかりで、若い娘はいないと聞いている」納得いかない大将の顔には、深い皺ができた。

「ところで、狐説は何が根拠で?」謙二にとって一番知りたい所だった。

「それがな」大将の話は、雪から聞いたセクハラ爺さんの、セクハラ目当ての理由だった。

「雪から聞いていますよ。その所為で『何度もお尻を撫でられた』」と。謙二はなぜか、その理由に安心した。下心の産物なら、当然あり得ると。

「なんだと?尻をなでなで。許せねぇ!」大将は包丁を前に突き出した。

「危ないな、もう。尻尾の確認ですよ。それで、セクハラの大義名分がたつでしょ。だから、遠慮もなく、破廉恥な、なでなでを」謙二は説明していることが、阿保らしくなっていた。
「若い娘の身体に触りたいだけでしょ」彼は投げやりに言った。

「本当に馬鹿らしいな。それを信じる輩もどうかしている。出入り禁止だ!」大将の怒りは、あまりの愚かさに、おさめようがなかった。

「そっとして置きましょう。その内、元気な顔をみせるでしょう」謙二はいつもの平穏が戻ったようで嬉しかった。ちびちび飲む酒はうまい。久しぶりにのど越しを堪能していた。

「気楽だねぇ」大将も謙二の態度に、真剣に悩むことが阿保らしくなってきた。

「今日は、一本おれの驕りだ。」店に来て初めての驕りだ。

「ご馳走さまです」謙二は思わぬプレゼントに笑みがこぼれた。
 だが、大将の顔がより険しくなったのは意外だった。

「大将らしくないですねぇ。顔、顔。ムンク顔ですよ」謙二が店から遠ざかっていた間に、一体何が起こっていたのか? 好奇心がふつふつ湧いてきた。

**ストーカーの末路

「助平爺さんが、若い娘の感触に狂って、出待ちストーカーになった。大人しい雪の性格を甘くみたらしい」思いもよらない話がとびだした。

「大怪我でもしたんですか?」雪にボコボコにされたと、謙二は勝手に想像した。『武術に心得がある』と以前、彼女が話していたことを思い出していた。

「そんな生易しくなかったんだ」大将の話によると、爺さんは、帰り道を待ち受けて、雪に抱き着いたらしい。それが、彼女の怒りを爆発させた。
『双眼は真っ赤となり、口は裂けて、鋭い牙がむき出しになった』と怪奇じみた無責任な噂が流れた。

 哀れな老人は、帰りが遅いので探しに来た家族によって、気絶して倒れている所を救助された。老人はその夜以降寝たきりになり、3日後に死んでしまった。その間、うなされつづけ、憔悴しきった姿だったという。

 この顛末は、村中の人が知るところとなった。
 生前、爺さんが『狐が化けた若い娘にぞっこんで、入れあげていた』という噂が面白可笑しく流れていた。

 この件があって、村中の男たちは、居酒屋へ娘見たさに入れ替わり立ち代わり、足を運ぶようになった。
 
 その為、雪は村の女たちから目の敵になっていた。なかには、雪を待ち受けて、張り手を食らわす強者もいた。

 話はこれで終わりにならなかった。ふたり目の犠牲者がでた。自業自得と言えばそれまでだが、ひと月の間に、ふたりも亡くなれば、只事では済まされない。

 死因は心臓発作だが、居酒屋帰りの途中で倒れていたのは、同じだった。ただ、違ったのは、衣服に獣の毛が付着していたことだ。この毛はすぐに狐のそれと判明した。それが『雪狐説』の信憑性の裏付けとなった。

 そして、この亡くなった爺さんは、別名狐ヶ原と呼ばれる野原の地主だった。
 葬儀を終えた後から、その女房の言動が異常になってきた。

「狐に目にもの見せてくれるわ」
 老いた体に怨念の炎が燃え上がる。傍目にもその異常さは目についた。
 
 それは鬼となり、殺気だ って、狐ヶ原の枯草に火をつけることになった。怨火は瞬く間に広がり、野原を焼き尽くし、空を赤く染める程の勢いになった。

 村の消防団が駆けつけた時には、手がつけられない状況だった。

「思い知ったか!」猛火にむかって、何度も何度も叫び続ける老婆の姿に、消防団員は恐怖にも似た衝撃を受けた。
 
 異常な興奮状態にあった老婆はすぐさま救護された。幸い軽い火傷で済んだが、精神は崩壊していた。

 隣村の消防団も、本部の消防車も駆けつけた。だが火の勢いは突然降り出した雨のお陰で、飛び火は免れた。
 
 雨は次第に激しくなり、自然鎮火が期待された。

 病院に収容された老婆は、憤怒の形相で息を引取った。『狐め、狐め』と譫言を吐きながら、あの世へ逝 った。死因は心臓発作だった。

 一方、焼かれた野原にある三巨岩の下には、折り重なるように、狐の焼死体があった。この場所は、自然石が3列に並んでいる不思議な空間だった。
 
 昔、この下に祠があって、狐が祀られていた。その為、狐ヶ原とも呼ばれていた。
 
 祠の由来は定かでないが、この火つけで、狐が怒って災難をもたらすのではないかと、村の古老たちは恐れた。

 放火というこで、警察も出張ってきた。この根底にあった一連の騒動の異常さに驚きながらも、狐相手ではどうしようもなく、引き下がった。
 
 ところが、火種は消えていなかった。村人の一部が、狐狩りをすると言い出した。迷信を信じる人はどこにでもいる。そこで、一番の標的になったのは、大将の居酒屋だ。

「雪という娘はどこだ?」雪はすでに狐扱いだった。

「知らん。こちらが聞きたいわ」この騒動で、閑古鳥が鳴く状態だったので、大将はうんざりしていた。

「履歴書があるだろう?見せてくれ」全く遠慮がない輩だった。

「狐に履歴書?阿保か?いい加減にしてくれ」大将は呆れて対峙する気も失せていた。

「見知らぬ奴を、あんたは雇っているのか」

「日銭を払って仕事を頼んでいる。やる気がある奴なら誰でもいい。いちいち詮索しない」

「無責任だなぁ、あんたは!」

「それは、こちらのセリフだ。『履歴書を見せろ』だ。個人情報保護って言葉を知らないのか」無責任男と罵られては、大将も頭にきた。

「人間の話をしている訳でねぇ。狐、狐だ」その言い草に、大将は切れた。

「ほぉ、雪の顔みて、鼻の下伸ばしていた御人は誰でしたか?」店にきて、雪の体をじろじろ眺めながら、ニヤニヤしていた男たちの態度が滑稽に思えた。

「それは、それだ。客に文句言ってるんじゃないよ」身勝手で軽薄な態度に、何も疑問を持っていないようだ。

「こっちは商売あがったりだ。これ以上グダグダ言うなら、業務妨害罪で告訴するぞ」数少ない法律知識で警告すると、効果覿面だった。

「難しいことを言うな。あの女が現れたら知らせてくれ」そういうと、さっさと狐論者は店を出ていった。

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