ただのつぶやき
ネタ探し
投稿小説を書いていると、ネタになる印象的な場面探しを、古いアルバムを開けて、探すときがある。
懐かしいというより、『誰?』という新鮮な印象に出会うことが、多くなって来た。
それだけ、記憶が薄まってきている。裏を返せば、想像力を働かせて、自ら過去を勝手に構築することができる。
それが、短編小説を書く下地になる。ネタになるものは、日常のありふれた瞬間にも、過去に埋もれた景色にも、ゴロゴロ転がっている。
この歳になって、下手な小説を書いて投稿するという図々しさも、いかがなものかと思えるが、偶然それを見る羽目になった、数少ない読者の方も気の毒だと、苦笑いする他ない。誠に申し訳ないことです。
ただ、行きがかり上、諦めて付き合って頂くのも、一興かもしれないと、身勝手な思いが顔を出す。
今日は、アルバムについて、愚痴ってみます。
歳を取って、減ったのは髪の毛で、増えたのがアルバムの写真の数。今はデジタル化され、プリント保存は少数化されたが、昭和の人間としは、アルバムを一枚一枚めくりながら、過ぎ去った日々の自分と巡り合うことが、なによりの楽しみだ。
だが、過去の自分に巡り合えある、といっても、確かな記憶ではない。写真に映る自分の姿だけが事実で、過去さえも色あせ、違う世界に塗り替えられていることがある。
「だれだ ?こんな笑顔をしている奴は」写真のなかで全く違う自分が生きている。
この笑顔を引き出した背景をすっかり忘れてしまっている。正に、過去に置き去りにしてしまった。
その真相を突き止めるために、過去を彷徨っても、見つけることは至難の事だ。
写真の中の自分は、もう消えてしまった。記憶の中にだけ生きている。それも、まるで他人のような顔をして笑っている。
その笑いのもとは、数枚めくった時に見つかるかもしれない。ほんの一瞬接点があった若い女性の恥ずかしそうな笑顔が、自分のそれとリンクしていることが分かる。
こんな時もあったことを、写真は思い出させてくれる。時には、まるで他人のようで、現在の自分と重なり会わないことに、苦笑いしながら、まるで、新しい自分に出会えたような新鮮な感動を与えてくれることがある。
過去の一瞬の風景は、現在の自分にエールを送っているような気がする。
アルバムを開けば、確実に過去の自分が存在する。だが、その記憶は霞み、違う風景を創りだしている。
過去と現在が、ぼんやりと混ざり合い、自分の都合のいい景色の中に、心を遊ばせる。
時間の流れは、変わりゆく自分に妥協しながら、老いた一日を新たにあゆみ始める。これも、人生の不思議な一面だと思いながら。