面影に出会って


最近スーパーで買い物をする機会が増えた。妻が体調が優れなかった。家事も得意ではないが、彼女の負担を少しでも減らすことができれば、協力は厭わない。

ふたりの間に子供はできなかった。共稼ぎで、将来、子供が生まれた時のために貯金をしていたが、今ではその必要性もなくなった。

ふたりだけで暮らす将来を考えて、今後の生活スタイルを話し合っていた時、突然、彼女の肺に癌が住み着いた。ステージ2だった。

 だが、幸運にも発病から5年が経過、彼女は病魔を手なずけることができた。しかし、その代償は大きかった。昔の印象からはほど遠かった。

 そんな妻のためにも、できることはすべて引受けた。だが、食事に関しては、情けないことに、レトルト食品や出来合いの総菜に頼ることが多い。料理に縁がなかった男の食卓とは、所詮こんなものだと、自分に言い聞かせ、自責の念に駆られながら、スーパーの買物カートを押していた。

 ある日のこと、レジ待ちの列の中で、昔、親しくしていた女性を見かけた。彼女とは小中高と同じ学校に通っていた。

 大学は彼女が地元で、わたしが県外だったので、帰省した時ぐらいしか、話す機会がなくなった。
 時折、寂しくなった時、お互いの電話番号を押す。それは次第に間隔が長くなり、日常生活の中で忘れられていった。

 就職が決まり、ふたりで卒業旅行に出かけることにした。彼女は始め抵抗があったようだが、ふたりだけの旅に心動かされ、承諾してくれた。
 お互い、幼馴染で、気心も知れ、ふたりの距離も近過ぎた。その所為か、恋愛感情にいたることはなかった。 
 旅行の最後の夜、わたしは酔いつぶれて、死んだように寝てしまった。朝、目覚めた時、彼女はわたしの横で寝ていた。

「え?! 」彼女の少し乱れた寝間着姿に慌てふためいた。

「何も。何もなかった。信じられない」彼女は一睡もしていなかった。彼女は浴衣を脱ぎ捨てて、下着だけの姿になった。

 若い肉体がまぶしかった。わたしはただ見惚れるだけで、何も言えなかった。彼女の目に一筋の涙が零れた。彼女は服をバックから取りだして、普段どおりであろう日常を見せた。

 食事を済ませると、彼女はわたしを残して、ひとりで帰ってしまった。

 別れは突然だった。わたしは彼女を追いかけることもしなかった。深刻に考えもしなかった。彼女の思いを受けとめられなかった。分らなかった、という方が正解かもしれない。

 それ以来、お互いの気持ちを殺しながら、それぞれの人生を、違うパートナーで歩むことになった。

彼女の名前は徳島麗子といった。疎遠になってから、噂で彼女が子供を生んだと聞いた。シングル・マザーだった。

 わたしは「子ども」という言葉に動揺した。彼女との思い出の中で、一つだけ心あたりがあった。酒で酩酊して、記憶がとんだ時間だ。『彼女に抱き着いたような』記憶が微かに残っていた。

 そのため、彼女との再会は、私の心を大きく揺さぶった。

 あれから、二十年の月日が流れていた。どこで歯車が狂ったのか、今ならわかる。どんなに彼女が大切な存在だったかを。

 彼女は、空気のようなもので、失って初めてその存在の大きさに気づかされた。自分が自分でいられる環境の尊さを思い知らされた。以来、日常のすべてが色褪せて見えた。
 まさに魂が抜けたような日々を過ごしていた。何を見ても、何を聞いても、心に響くものがなかった。
 まるで霧の中を彷徨っているような、ぼんやりとした感覚に包まれていた。

 わたしは過去に居場所を見つけた。

 女々しいかったが、目の前から彼女が消えた現実を受け入れることができなかった。

 彼女の満面の笑顔や語りかけるような声が、わたしの心の中で何度も蘇り、その穏やかな日々を楽しんだ。

 そんな、わたしの生活をみかねてか、忠告してくれた女性がいた。「あんた、馬鹿ね。好きだったら、好きのままでいなさいよ。そのうち、その想いは別の人に向かうわ。日薬ね。処方箋を間違えないで」と薬剤師になっていた高校の同級生で、後に妻となる美佐江の助言だった。

 過去に生きるより、好きな彼女を思って、今を生きろと。それが、最良の策だと教えてくれた。

 美佐江も麗子とは親交があった。そのため、彼女とわたしの経緯もよく理解していた。

 後で妻から聞いたのだが、わたしが「麗子を全く女性として見ていなかった」ことに、よく腹を立てていたという。そのため、わざと腕を絡ませたり、抱き着いたりしていたことも。
 卒業旅行も抵抗があったが、「ようやく目覚めた」のかと思い、その誘惑に負けたらしい。だが、残酷な結末に、「呆然自失だった」と嘆いていた。

「あなたのこと、心の底から好きだったのよ」と妻は腹立たしい思いを隠しながら言った。
 その声には、麗子が抱えた切ない想いと、叶わなかった夢への悔しさが滲んでいた。
「彼女は一度も、あなたにその気持ちを伝えることができなかった。彼女の心は、ずっとあなたを想っていたのに……」

 そして、追い打ちをかけるように、妻からは「あなたは、女からみれば最低の男」と言われた。
 わたしは愚かにも、『最低な男の妻になった感想は』はと質問を投げ掛けた。
 「ハサミは使いよう」と返された。
 妻はハサミの使い方を間違えない自負があった。
 わたしはその心根に震えた。彼女の言葉は鋭く、わたしの心を抉った。
 彼女は女性の思いを代弁しているだけで、決して私を嫌っていないことは知っていた。
 ただ、彼女自身が麗子にはなり得ないことを知らせていたのだ。その忠告は逆に、わたしへの信頼感の裏返しであることも理解していた。

 それでも、過去の思い出が鮮明に蘇り、彼女への未練が再び胸を締め付ける。妻への愛情と、麗子への未練の間で揺れ動く身勝手な心が、わたしを苦しめた。しかし、それは快楽に近い苦悩だった。

 ある日のこと、いつものスーパーで麗子の姿を見つけた。というより探していた。懐かしい青春が蘇ってくる。

「こんな小さいな白菜1/4で百八十円? 高いな!」野菜売り場で、物価変動の波に、わたしは溜息をついた。

「本当に高いですよね。手がだせないわ」突然、麗子が声をかけてきた。

 買物カゴはまだ半分にも満たされていなかった。中にはトマトとほうれん草が入っていた。

「先週までは、百円を切っていたのに、天候不順には泣かされますね」昔に戻ったように、わたしは愚痴をこぼした。

だが、彼女との間には見えない大きな壁があった。それは自然にでた他人行儀の言葉使いだった。過ぎ去った時間の重みが躊躇させた。

「そうでしたね。量を稼げるので、家計には助かっていたのに、これではねぇ」麗子も呼応するように嘆いて見せた。

 彼女の言葉使いがやけに丁寧な事が気になった。それは、過去の仕打ちに対する報復のように思えた。
『越えられない距離』が、ふたりの間に存在した。

「夕飯のメニューはお決まりですか?」彼女は一度、声をかけた安心感から、遠慮なく尋ねた。

「そんなものないですよ。カゴに入れているのは、要るかもしれない食材で、過去の記憶みたいなもので選択しているだけです」自嘲気味にわたしは答えた。

「え? そうなんですか? 楽しいですね」最後の言葉の意味がよくわからなかったが、彼女が素直に驚いている様子は、昔を思い出させた。

 麗子はいつも目に映るものに驚いていた。日々経験することに新鮮な好奇心が反応していた。時折、学習能力に欠けているのではないかと、疑いたくなったが、その素直な態度に、その疑念は霧消した。

 わたしは買物カートをレトルトの食品フロアーへ向けた。彼女は、何もなかったように、野菜の品定めをしている。その仕草は時間の経過を感じさせなかった。

 食品売り場のなかで、一番お世話になっているのが、この食品だった。湯で温めるか、レンジでチンするか、又は、オーブンで時間を設定するだけで、まあまあの食事ができあがる。忙しい人ばかりでなく、そうでない人も有難いのだ。

 定番の食品をカゴにつめこんで、残るは冷凍食品に総菜とパン。子供でも、お金が在れば、ひとり暮らしが可能な便利なものばかりだった。

 食品棚の列を変えるために、肉売り場に向かう通路に入った。わたしは肉類に縁がないので、見向きもしないが、そこに麗子の姿を見つけた。

 カートを押す姿勢は、背筋を伸ばしたモデルのように見えた。わたしは周りも気にせずに、その後ろ姿に見惚れていた。

 肌を会わすこともなかった、彼女との青春時代が蘇る。わたしは、彼女の笑顔に毎日癒されていた。心を寄せても、いつも受け止めてくれた。お互いストレートにものが言える信頼感があった。口の悪さはお互い様だったが、その心遣いのなさが、男女に必要な微妙な距離を超えることになった。

 それは恋愛には繋がらない。

 互いに向き合うことを忘れていた。気が付いた時には、空気みたいな存在になっていた。あたり前みたいな存在は、いなくなるまでその重要性に気が付かない。

 心にぽっかり穴が開いたような虚しさだけが残った。

 妻のメモ分の食料品を点検して、レジに向かった。麗子はすでにレジの前に並んでいた。いつのまにか、カゴは満杯になっていた。

 わたしはキャッシュレス専用レジに並んだので、隣の列にいた彼女の姿は、正面からはっきり視野に納めることができた。

 月日が変えたのは、彼女でなく、わたしだった。

 じ~と見つめる視線に、彼女は気づいて、レジモニターから顔をあげた。目線が会うと、彼女は軽くお辞儀をして、もとの世界に戻っていった。その目に戸惑いはなかった。もう同じ空間で過ごすことはできないのだ。

 レジの順番が回ってきた。わたしは麗子に背を向け、バーコードスキャナーの音に耳を傾けた。清算はカードタッチだけで終わる。レジが済んで、買物台に向かったが、彼女の姿はすでになかった。

 店を出るとき、出口に彼女が誰かと話していた。

「仕事帰りで大変ね」見知らぬ女性の声が聞こえた。

「慣れたわ。独身生活が長いから仕方がないわ」

「独身」という言葉に、わたしの歩みが止まった。運よく彼女は背を向けていた。わたしは人待ちを装って、ふたりの会話が聞こえる範囲に止まった。盗み聞きのような気分で、品の悪さが滲み出ていたが、彼女の近況が知りたい一心で全身の神経を耳に集中した。

「いい加減あきらめて、身を固めたら?」

「もう適齢期すぎてるし……」

「大丈夫! 女は商品じゃないから、シールは貼られないわ」

「ありがとう。嬉しいわ。今日ね、わたしが好きだった人にそっくりなひとがいたの。ワクワク・ドキドキ、心が弾んだわ。『昔に戻りたい』と初めて思ったわ」

「へぇ、青春ね!」

「こんな気持ち、まだ残っていたことに、驚いたわ」

「こんなスーパーの出入口で話す内容じゃないわね。ここらへんは、おばさんの領域に入ってきたわ」口を隠して笑う彼女の友達の自然な振舞に、なぜか心が癒された。

「深刻にならないだけ、いいのよ」

「確かにね」

「わたしね、故郷に帰るかもしれない。母からも『帰ってきたら』としつこいの。でも、好きだったひとの面影に出会って、『帰ろかな』と素直な気持ちになれたの」

「いやだ、寂しくなるじゃないの。今、帰っても居場所がないでしょ」

「そこなのよ。母の傍にいたいけど、兄の家族からみれば、迷惑な話かもしれない」

「ゆうこはどこの出身だったけ?」

「鹿児島よ。大学が名古屋だったから……」

 わたしの顔は恥ずかしさで真っ赤になった。全くの人違いだった。麗子じゃなかった。知らない『ゆうこ』さんだった。

 いままでの浅はかな思い込みに、我ながら気持ちが萎えた。気が付いたら、小走りでカートを押していた。車に食料品を入れて、カートはその置き場へ戻した。

 車のエンジンをかけたが、しばらく身動きできなかった。恥ずかしさや情けなさに、気抜けしたようになっていた。
 麗子似の彼女が目の前をカートで通り過ぎようとした時、我に帰った。だが、懲りもせず、視線は彼女を追っていた。

 そんな、絡みつくような視線が気になったのか、突然彼女は振り向いた。辺りを見回しながら、わたしの存在に気づいた。咄嗟に、頭を垂れた。その時、突然、窓ガラスを叩く音に驚かされた。『麗子』だった。その笑顔は正しく彼女だった。

「麗子!」言葉にならず、心で叫んだ。

 彼女は一瞬に消えた。

 心の錯覚だったかもしれない。だが、その瞬間、胸の奥に封じ込めていた感情が一気に溢れ出した。まるで時間が止まったかのように、彼女の姿が脳裏に映し出された。

 現実と幻想の狭間で揺れ動く心が、再び彼女を求めていることに気づかされた。

 麗子似の彼女が運転する車が、思い出を切り裂くようにわたしの目の前を通り過ぎていった。

 麗子とは音信不通になっていた。
 生きていれば、42歳。
 もしかしたら、見知らぬ彼女に出会える時がくるかもしれない。
 そんな邂逅を思い浮かべると、自然に笑みが零れた