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エドモンド・ハミルトン(1904-1977)の短篇を読む
(「mixi日記」2017年4月9日更新したものに2025年1月16日加筆修正)
(編と篇が混在しているのが気になります。篇に統一したかったのですが、原本で編と表記されている部分はそれに従いました)
昨年(2016年)末にずっと長いあいだ積ん読状態だったエドモンド・ハミルトンの短篇集『星々の轟き』(安田均編 青心社 1982年)を読んだところ大変面白かった。
1934年発表の表題作「星々の轟き」(鎌田三平訳)はじつに豪快!
死にゆく太陽に別れを告げ、人類は外宇宙に向けて旅立つ。地球だけをちょっと(?)動かす作品は他にもあるけど、水星~冥王星ごと「太陽系惑星船団」を作って恒星間宇宙に乗り出すのですよ!
スケールの大きな奇想中の奇想作品。各惑星(もちろん発表時期、冥王星は準惑星ではなく惑星だった。というか、発見されてからまだ4年目のホヤホヤ惑星)には人が居住し、惑星船団として「定位置」を保持するため、エンジンの点火時期、および航法も綿密に計算していくという緻密なハッタリがイイ!
そして深宇宙の困難な旅の末、地球人類の行き着いた先は……最後は泣けるんです(惑星の擬人化ですよ!)。
「レクイエム」「プロ」も良かった。
「漂流者」(田中克己訳)は、ハミルトンはこういったものも書くんだ、という晩年の作品。発表は1968年のエドガー・アラン・ポーをテーマとしたアンソロジーで、怪奇幻想風味が強い。デビューが1926年の〈ウィアード・テールズ〉誌であることを思えば、そう意外でもなく、原点回帰だったのかもしれない。
続けて、やはり積ん読だった2冊の短篇集を読む。
『反対進化』(中村融編 創元SF文庫 2005年)
『フェッセンデンの宇宙』(中村融編訳 河出文庫 2012年。2004年刊の〈奇想コレクション〉版に3篇追加)
どちらとも表題作は、その奇想アイディアによってSF史に名を残すであろう短篇(ともに中村融訳)。
他に印象的な3作を紹介する。
『フェッセンデンの宇宙』収録の「向こうはどんなところだい?」(中村融訳)は、掲載した〈スリリング・ワンダー・ストーリーズ〉1952年12月号にてサミュエル・マインズ編集長が新ハミルトンの誕生と絶賛した作品。火星探検からの数少ない生還者となった主人公は、望まないまま、犠牲者となった隊員たちの家族を訪問することになる。その過程で火星での過酷な経験を回想していくのだが……。構成が見事。
『反対進化』(他にも『星々の轟き』、新潮文庫の『スペースマン』にも)収録の「プロ」(伊藤典夫訳)は、〈F&SF〉1964年10月号が初出。米ソ冷戦を背景にした本格的な宇宙開発が始まり、それなりにリアルな宇宙像が知れ渡っていた時代。主人公は作家(ハミルトン自身だろう)で、(荒唐無稽と言われつつも)血湧き肉躍る宇宙冒険小説を書きまくり、その原稿料で育てた息子は「本物の宇宙飛行士」になっていたという話だ。
出発を控えた息子は父親に挨拶にやってくるが、話は弾まない。息子が誇りなのは間違いない。だが、それ以上に悔しい。こいつは、俺の知らない「本物の宇宙」に行くのだ。文体からしてグッと堪えている。深い哀愁を漂わせている。
あとひとつ、お勧めできるのは『反対進化』所収の「審判の日」。
欲望のまま、やりたい放題ふるまった人間も、ついに地球に最後の男女ふたりを残すのみとなった。知性化した多くの動物たちがふたりを取り囲み、最後の審判を下そうとしている。
編・訳者の中村融さんが鍾愛する一篇と「あとがき」に書き、手塚治虫や石森章太郎の絵が頭に浮かぶとも。自分もそうだけど、いま(2017年)なら「けものフレンズ」の絵でも良いかも。
全体的にいえるのは、「フェッセンデンの宇宙」に代表される奇想のオンパレード、日本人好みの情緒あふれる語り口、そしてハミルトン=スペースオペラという先入観をくつがえす多彩なジャンルを書いていること。異世界冒険ファンタジーや怪奇小説だってある。
とはいえ……やはり〈キャプテン・フューチャー〉は外せない。
ヒデ夕樹の「おいらは淋しいスペースマン」をBGMに(ヒデ夕樹はハミルトン原作『スターウルフ』のドラマ主題歌も歌っている)、創元SF文庫のキャプテン・フューチャー全集11『鉄の神経お許しを 他全短編』を繙いてみる。
キャプテン・フューチャーの第1作は、その名を冠した〈キャプテン・フューチャー〉誌1940年・冬号掲載の邦訳題では『恐怖の宇宙帝王』(野田昌宏訳)から始まる。同じ年にコメット号と日本の零式艦上戦闘機がデビューしたことになる。
長編20作にてシリーズは終了したが、その4年後の1950年から〈スタートリング〉誌にてキャプテン・フューチャーは短編版として復活した。
創元の全集11巻にはその短編7本、〈キャプテン・フューチャー〉誌に掲載されたコラムや掌編ストーリー17本すべてが収録されている。
短編では複数の書籍・雑誌に収録された表題作「鉄の神経お許しを」(野田昌宏訳)がもっとも有名だろう。
珍しいグラッグの一人称小説。ロボット(本人はこう呼ばれるのを嫌っている)のグラッグが、なんと精神衰弱を起こし、ニューヨークの精神科医を訪れるドタバタ。
キャプテンは、転地療法を兼ねてグラッグを冥王星の衛星へ派遣する。そこでは鉱石採掘のロボットたちが稼動を停止するという事態が起きていた。
原因はとある科学者が密かにロボットたちを「知性化」したことだった(人間どもめ、こんな劣悪な環境で働かせやがって、と意識が芽生えたわけですな)。
怪力自慢のグラッグであるが、相手はそれ以上のパワーロボットたち。どうやって連中を出し抜けるか、とここでもグラッグは悩むことに……。
「もう地球人では……」(北野喜樹+野田昌宏訳)は、漂流した宇宙船の中で数十年間も仮死状態だったカーリーがキャプテンに救助されるが、失われた月日によって浦島太郎状態に。かつて冒険と開拓の場だった太陽系は、観光客たちのレジャー場と化していた。
困惑する彼をキャプテンは、悪党ルーサー退治の場に連れて行く。ルーサーは冥王星にある宇宙船燃料会社5社を乗っ取り、ある意味、人類を合法的に太陽系内に封じ込めようとしていた。
キャプテンは「非合法」的な手法によって、ルーサーを屈服させる。ふたたび開いた外宇宙への入り口にカーリーは迷うことなく飛びこんでいく。
「もう地球人では……」という題に悲壮感を覚えるが、最後はそれがプラスに働く。「鉄の神経お許しを」とは別方向で佳作だと思う。
掌編「サイモン・ライトの変身」(山本孝一訳)は、死期を悟ったサイモン・ライトが、脳だけになって生きることを描いた話。今風にいうとポスト・ヒューマンの話ともいえる。
短編「衛星タイタンの〈歌い鳥〉」(野田昌宏訳)は、そのサイモンが主人公で、一時的にだが人間(正確には土星の衛星の先住民)の体に入り、忘れていた感覚に驚きと感傷を覚えるも、その人物を最後に埋葬した際、キャプテンたちは振り返るが、サイモンだけは一度も振り返らなかったというところに深みを感じる。
掌編「キャプテン・フューチャー、カメレオンを追跡する」(山本孝一訳)の冒頭には、「キャプテン・フューチャー唯一の敗北があることを太陽系の住民は知っている」「唯一の好敵手は怪盗カメレオンだった」とある。
文庫本にしてわずか13頁の掌編にこのようなキャラクターが登場するので油断ならない。頁も短いためストーリーは強引なところがあるが、キャプテンとカメレオンの頭脳戦が火花を散らす。
これまでに紹介したエドモンド・ハミルトンの短篇集は、2025年1月現在、残念ながら品切れ状態だ。
タイミングよく東京創元社では毎年恒例の「復刊フェア」を始めているので、ハミルトンの短篇に興味を持った方は、『反対進化』やファンタジー作品を集めた『眠れる人の島』をリクエストしてみて下さい。
今年はXに加えてBluesky、インスタグラム、noteでもアンケートを実施しているとのこと。 Xでは #創元推理文庫復刊2025 のハッシュタグを忘れずに。1月23日〆切です。
詳細はこちらをどうぞ。https://note.com/tokyosogensha/n/n37a311e7f7cb