球団ヒストリー80.竹山助監督
竹山”前”監督の進退
内川新監督就任の裏で、前監督である竹山徹さんは退団を考えていた。
「だって、前任の監督がいたらやりづらいでしょう?」
こう話す竹山さんは、退団を当然のことと思っていた様子。
やはり気遣いの人だ。
2014年の団結は
ところで、竹山さんが監督を務めた2014年、宮崎梅田学園を破って都市対抗二次予選に進出、負けたとはいえ三菱重工長崎に0-1の大熱戦を繰り広げたのは、間違いなく一致団結していたからだ。
2013年末の「もしや解体…?」という不安さえ抱えていたとき、「僕でよければ」と監督を引き受けてくださったのが竹山さん。
発足当初からチームを支える竹山さんの男気に応えるべく、チームのひとりひとりが立ち上がったからだ。
練習時間は少ない。
多くても週に4回程度、しかもほとんど夜の短時間のみ。
そんな中でも勝てたのは、個々の力はもちろんだが、全員の「竹山さんを勝たせよう」という想いが結集したからに他ならない。
一緒にやってくれないか?
その空気は、おそらく内川新監督も感じておられたのだろう。
ここで竹山さんを辞めさせるわけにはいかない。
そう思われたのかもしれない。
「竹山、一緒にやってくれないか」
そんな竹山さんに、内川新監督はそう声をかけた。
「チームに残り、マウンドにも立ってほしい」。
「竹山さんは、監督をするよりもマウンドに立っていたかったんじゃないですかね」と話すのは当時のキャプテン北迫太樹さん。
竹山さんご本人の言葉を聞いていても、監督よりも一人の投手でありたい気持ちは随所に感じられた。
助監督
まだプレーしたい気持ちはあるが、チームには残りづらい…
そんな竹山さんに『助監督』という肩書がついた。
これはきっと、チーム事情を知り、レジェンド竹山さんへの選手たちの想いを知っての、内川新監督の粋な計らい。
一度は監督まで経験したレジェンドを、いち選手に”降格”させるのは忍びない。
かといってコーチもちょっと違う…
そこで『助監督』とは、王貞治もびっくりのナイス人事だと勝手に感嘆した。
より理想的な着地
「あの窮地を救ってくれた竹山を、たった一年で辞めさせるには忍びなかったんですよね」とつぶやいた球団代表の國本さん。
しかし内川新監督の立場を考えると、残ってほしいとも言えずにいた。
そんな中で出た竹山“助監督”案は、おそらく内川さんと竹山さんのアイデア。
「あまり覚えてないけど」と前置きしつつ「“助監督”はどうでしょうかと相談を受け、それを承認したんだと思うんだよね」とお話くださった代表の表情は柔らかかった。
内川新監督、竹山助監督というより理想的な形での着地は、代表にとっても嬉しいものだったに違いない。
結局このあと5年にわたって、竹山さんはマウンドに立ち続けた。
40歳を超えてもなお、140キロの速球を投げていたという。
化け物かもしれない。