球団ヒストリー58.就職斡旋草創期
先述したように、2012年から就職の斡旋を始めた鹿児島ドリームウェーブ。
受け入れ先企業であるユーミーコーポレーション株式会社(当時は弓場建設株式会社)の理解もあり、就職斡旋第一号の捕手・北迫太樹さんと、第二号の内野手・田上幸司さんは、確実に試合に出られるようになった。
職場に遠慮することなく野球を優先できる環境。
主軸が仕事で抜ける心配がないこと。
それが持つ意味は、チームにとってとてつもなく大きかった。
その結果が、初の全国大会進出に繋がったと言っても過言ではないだろう。
しかし、斡旋したすべての選手が最初からうまくいったわけではない。
なかには、なにかが噛み合わず、退団を余儀なくされた選手もいた。
今日は、そんなお話をさせていただこうと思う。
それまでの加入スタイルは
発足当初こそトライアウトで入団選手を選考していたが、その後は選手が選手を呼ぶスタイル。
兄弟での在籍もあったが、学生時代の同級生や先輩後輩に誘われて入団する選手がほとんどだった。
國本球団代表は「ときどき練習に顔を出すと知らない選手がいて、『最近入った○○です』と紹介されることが多かった」そうだから、本当にいつの間にか仲間が増えたりしていたのだろう。
”仲間と野球を楽しむ”チーム
もちろんこれがクラブチームの基本であり、”仲間と野球を楽しむ”ことに他ならない。だからこそ、発足から7年ずっと続けているメンバーが10人近くもいたわけだ。
きっとプレーも練習も、阿吽の呼吸でスムーズだったのだろう。
そういえばこのころ入団してきた投手の松元亨輔さんが、こんなことを話していた。
「すでに出来上がったチームだから、そこに入っていくのは最初は少し勇気がいりました。でもそんな不安は一瞬で吹き飛び、すんなり受け入れてもらえました。野球に集中できてすごく楽しかった!」
本当にいい雰囲気だったようだ。
公式戦を戦うために
ただ公式戦を戦うには、選手の所属先企業からの更なるサポートが必須だった。
所属先の理解がなければ仕事を休めず、試合に穴を開けてしまうこともあるからだ。
実際、棄権の危機もあった。
というわけで始めた就職斡旋。
そして概ね協力的だったスポンサー企業の皆さま方。
高卒スラッガーA選手
しかしそんな中で、國本代表が「彼は可哀想だった」と話す選手がいた。
仮にA選手としておこう。
お隣宮崎県の高校から入団してきたA選手。
そもそものきっかけは、当時の末廣監督のつながりだったようだ。
「なかなかのスラッガーで、卒業後も野球を続けたいと言う。就職含め野球を続けられる環境があるのであれば」
高校から、そんな相談があった。
おそらく2時間ほど車を走らせ、Aくんの練習を見に行った代表。
「選手たちが丁寧に迎え入れてくれたことを鮮明に覚えている」そう。
その歓迎ぶりに、仕事をしながら野球を続けるという選択肢を提供できることが、当時どれだけ貴重だったかが伺われる。
入団したA選手は、まじめないい青年だった。
ただ不運だったのは、”夕方の練習に参加できるように”との配慮から早朝勤務の部署に配属されたこと。
4時ごろに起きて仕事をし、帰宅して仮眠をとったあと練習に行く…。その後また帰って数時間睡眠をとり、仕事へ。
いくら若いとはいえ、体力的にも厳しかったに違いない。
また、職場の直属の上司が仕事第一の方だった。
「なぜ仕事より野球優先なのか」。そういった厳しい意見もあったらしい。
ただ理解度の違い
誰が悪いということではない。
その上司のおっしゃることももっともだ。
ただ、企業側と球団側の意思がまだ完全に噛み合っていなかったかもしれない。
さらに企業側でも、経営陣と現場との理解の行き違いもあっただろう。
「まぁ、社会人野球ってなんなのかっていうのを知らない人のほうが多いですから」と國本代表。
そう。
これは私自身がそうだったから、よーくわかる。
野球に何十年も携わっているのに、社会人野球ってよくわからないのだ。
え、好きで野球やってるんでしょ?と言われれば、確かにそうなのだし。
趣味の草野球と、仕事をしながらも真剣に硬式野球にチャレンジしたいという社会人野球クラブチームのスタンスの違い。
それが理解されるまでには、まだ時間が必要だった。
フェイドアウト
加えて、A選手は高卒の18歳。
つい先日まで親元か寮かは分からないが、大人の保護の下で生活していたはず。野球に打ち込んでいたなら、おそらくアルバイトなどしたこともなかっただろう。
卒業と同時に見知らぬ土地に引っ越し、一人の社会人として仕事と生活と野球とを同時進行させていく。
仕事が覚えられず職場で叱られる。
野球でも結果が出ない。
汚れた練習着を誰かが洗ってくれるわけではない。
掃除も食事の準備も誰かがやってくれるわけではない。
きっと、気合いや根性だけではどうにもならないメンタルになったはずだ。
その後A選手は、練習に来なくなった。
相談があったわけでも、「退団します」と連絡があったわけでもなく、いつの間にかフェイドアウトしたようだった。
礎
だから出身校の監督への連絡もまた憚られた。
「もしかしたら監督は”話が違う”と怒っておられるかもしれないし、”長続きせず申し訳なかった”と思っておられるかもしれない。
それはもう分からないです。
ただ本当に、彼は可哀想だった」
そう話す代表の声に、切なさがにじんだ。
草創期には、そういったある種”犠牲”になった選手もいる。
彼らの礎のもと、少しずつ少しずつ、所属先企業の社会人野球という世界への理解が進み、双方の協力体制ができあがった。
そして今の環境がある。
A選手と同じような条件下で野球を続けている選手もいる。
きっと今は、直属の上司も快く送り出してくださっているはずだ。
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