球団ヒストリー74.2014都市対抗予選~ブッちぎりの一体感
士気の高まり
誰よりも優しく、誰よりも努力家で、誰よりも鹿児島ドリームウェーブを愛する竹山徹さんが、選手兼監督として指揮を執った2014年。
危うく監督不在ともなりそうなチームの窮地を救ってくれた竹山さんの想いを、選手たちもよくわかっていた。
きっと本心では、”監督”を背負うことなく無心でマウンドに立ちたいだろうということも。
だからこそ、チームの士気は高まった!
「竹山さんを勝たせたい」
「竹山さんを胴上げしよう!」
都市対抗のハードル
シーズン最初の公式戦は、都市対抗野球大会南九州(一次)予選。
宮崎・鹿児島両県のJABA(日本野球連盟)加盟チームが、企業チームやクラブチームの別なく代表枠を賭けて争う。
開催地は宮崎県と鹿児島県で一年ごとに交代するのだが、この年は鹿児島開催だった。しかも珍しく県のメインスタジアムである県立鴨池球場(現・平和リース球場)という、なんだか”アガる”舞台。
記録を見ると、3チームの出場だ。
宮崎福祉医療カレッジと、宮崎梅田学園、そしてわが鹿児島ドリームウェーブ。
宮崎福祉医療カレッジは専門学校であり、ほとんどが19歳、20歳という若さの学生たちで構成されたチームだ。
そして宮崎梅田学園。学園とはいえ自動車学校であり、その野球部は”野球をすること”も仕事の一環となる企業チームである。
都市対抗野球大会のハードルの高さは、なんといってもここ。
企業チームとクラブチームが同列で戦うことにある。
そしてこの年は第85回という記念大会で、二次(九州地区)予選の開催地はこれまた珍しく沖縄県となっていた。
代表枠は1枠。
そして試合は
竹山采配でのデビュー戦でもある初戦は、宮崎福祉医療カレッジと。
こちらは10本のヒットを連ね、8-1の7回コールドで快勝した。
そして、同日午後にダブルヘッダーで宮崎梅田学園との対戦。
手元のスコアブックによると、息の詰まるような立ち上がりだ。
先攻のドリームウェーブは、4回まで一安打。うち3回は三者凡退と沈黙。しかも序盤、先発である竹山投手の足にピッチャーライナーが当たるアクシデントが!跳ね返ってキャッチャーフライとなりスリーアウトチェンジだったそうだが、その後も痛みを押してマウンドに立ち続けた。
対する梅田学園はエラーで出たランナーを送りバントとヒットで進めるなど盤石の試合運び。4回にはフォアボールのランナーをスリーベースで帰して先制し、流れを掴みかけていた。
しかーし!!!
痛みをこらえながら踏ん張る竹山投手の姿に打線が奮起。
5回にライト前ヒットで出た植村剛選手が相手のエラーに乗じて同点のホームを踏む。さらにフォアボール、ヒットとランナーを貯めて1番大迫健斗選手がセンターへのスリーランホームランを放ち、この回一気に4得点。
5回裏終了後にはグラウンド整備があるため、ここで流れが変わることもよくあるのだが、6回には相手投手の乱れもありさらに3点を追加。試合を決定づけた。
監督兼任の竹山投手は、アクシデントをものともせず完投。
3本の長打を浴びながらも要所を締めるピッチングで、7-1と完勝し、チームを沖縄で開催される二次予選へと導いた!
「この梅田学園戦が、ブッちぎりで一体感がありました」
当時のキャプテンである北迫太樹さんはこう繰り返す。
そのくらい、選手たちが竹山監督を中心に一つの方向を向いていた。
北迫さんが「動物園」と称したほどに個性派揃いだったチームが、だ。
都市対抗予選を突破するということ
前述したように、都市対抗野球大会は、企業チームとクラブチームが同じ土俵に立ち代表権を争う。
つまり、企業チームを倒さなければ勝ち抜くことはできないわけだ。
社会人野球に関わる前…いや、関わり始めてからもしばらくは、そのすごさが私には分からなかった。
同じ野球でしょ?そりゃー勝ったり負けたりするもんでしょ?みたいに思っていた。
でも、今はほんの少しだけれどそのすごさが分かる。
企業チームは、いわば野球が本業。
例えば梅田学園さんは自動車学校なので、選手は教官だったりするわけだが、午前だけ教習所で教鞭を執り、午後は練習という毎日が基本だとも聞いた。
都市対抗の時期は繁忙期でなかなか練習に割く時間がないそうだが、それでも自前の練習場すら持たないクラブチームとは環境の整い方が違う。
もちろん、その分戦力外となったときの厳しさも別格なのだけれど。
そんな企業チームに快勝しての二次予選進出。
しかも沖縄開催!
竹山さんも、北迫さんも、当時のマネージャー順子さんの話を聞いても、チームが一番明るく、全員がそれぞれに心から野球を楽しんでいた。