球団ヒストリー9.背中
チーム立ち上げ当時の指導者陣をご紹介しよう。
監督は、元広島東洋カープの鵜狩道夫さん。
そしてコーチは、元オリックスの斉藤巧さん。
お二方とも元プロ野球選手という華やかな布陣。
あっ、ちなみに鵜狩道夫さんは、ある伝説に大きく関わっている方。
長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督から『幻のホームラン』を打たれたのは、何を隠そうこの鵜狩さんだ。
ん?名誉なことではないかもしれないが…野球好きなら誰もが知るこの伝説で、ピッチャーの姿はなんとなく存在が薄かった。でも、鹿児島出身の、しかもホワイトウェーブの初代監督である鵜狩さんがマウンドに立っておられたと聞いて、途端にそのセピア色の伝説に生き生きと色がついた気がしたのは私だけなのかしら?
鵜狩さんは、残念ながら少し前に逝去された。
斉藤コーチから見て立ち上がったばかりのホワイトウェーブは「チームとして成り立つレベル」。
つまり、なかなかに楽しみな選手たちが集まっていた。
指導者として望んでいたのは、最低でも週に3~4回の練習と2週間に一度の対外試合。「そのくらいできたら、強くなるだろうな」と感じていた。
が、なにせそれぞれが仕事を持っていて練習に集まることができない。
試合をするにも、県内唯一の社会人チームである鹿児島ホワイトウェーブには対戦相手がいない。発足間もないチームは、大学生もなかなか相手にしてくれなかったという。
ときおりお隣の宮崎県まで練習試合のために足を延ばすものの、それもしょっちゅうというわけにいかず、思うように経験を積めないもどかしさがあった。
斉藤さんに、当時のチームを分析していただいた。
投手陣は、ある程度通用するだろうと期待があった。
しかし走打は歯が立たない。
当時はまだバッティングマシンすらなく、打撃練習をするには誰かが投げる必要がある。数をこなすことができなかった。
走塁はやはり実戦が必要。なかなか試合が組めない中では、試合勘を培うことが難しかった。
「しんどかったね」
斎藤さんはそう呟いた。
「土台を作る時期だからね、仕方ないのだけど」ジレンマは大きかったようだ。
「先を見てなかったよ。どうなるのかなー、存続できるのかな?と思ってた。お金云々ではなくて、選手は集まらないし練習続けていけるのかなって」
これは、きっと当時の現場を知るほとんどの人が、声にこそ出さないけれど感じていたのかもしれない…。
土台を作る時期。それは振り返ってみたら短いのかもしれないけれど、ど真ん中にいる人たちにとっては長くつらいものだったんだと思う。
そんな中、斉藤コーチから見て、社会人野球に対する姿勢が「中途半端だった」若い選手たちがついてきたのは、「(初代キャプテンの)宮田の声掛けと情熱」。
「あ、選手としては短命だったな」。斉藤さんはそう言って笑った。
その言葉の裏に、選手として出場するしないに関わらず、練習に欠かさず参加し一人黙々とランニングする宮田さんの背中への信頼がにじみ出ていた。
それに続いたのがまず投手チームを引っ張る竹山さん。練習にはなかなか参加できなくても静かに自主トレを積み、試合でその成果を見せる。
そして磯辺さん。合宿や遠征ごとにチームメイトと膝を交え、社会人チームってこんな雰囲気だよ、というのを少しずつ伝えた。
その背中を見て、ひとり、ふたりと社会人野球に対する姿勢に目覚めていった。
草創期。
長く暗いトンネルだった。