球団ヒストリー68.レジェンドの男気
「もうやめるか?」
「監督を引き受けてくれる人がいない。もうやめるかな…」
鹿児島市城南町のファミリーレストラン”ガスト”で、球団代表國本正樹さんはそう弱音を吐いた。
そばで聞いていたのは、当時のマネージャー藤崎順子さん。
ふだんはこんな表情を見せることはないが、このときばかりは國本代表も意気消沈していた。
末廣監督の退団は早々に決まっているのに、後任となる監督の糸口さえも見つかっていなかったからだ。
そもそも飲み友だちだった順子マネに、「俺もうどうしていいか分からないよ」と相談を持ちかけてのミーティング。
そんな代表に、球団創設当初の想いを知っている順子マネは問いかけた。
「鹿児島の球児たちの受け皿を作るんじゃないんですか?」
想定外
実は末廣監督の後任として、当時の木村コーチが有力視されていた。
実際に球団側としても次期監督を想定してのコーチ要請だったそうだし、ご本人もそのつもりだったと関係者への取材では聞いている。
しかし、そうはならなかった。
その理由までははっきりとは分からなかったが、末廣監督からの引継ぎはされなかったのが現実。
末廣監督と前後して、予定が狂ったかたちの木村コーチも退団なさった。
選手は揃っているのに、采配を振るう監督が不在。
チームは宙ぶらりんな状態になっていた。
八方手を尽くしている國本代表を見かねてか、声をあげてくれたのは竹山徹さん。
球団創立時のメンバーであり、このころは選手兼コーチとしてチームを支えてくださっていた。
「たしか竹山と電話で話してて、『僕でよかったら』と言ってくれたんだったと思う」と國本代表。
このときまで“竹山監督”という選択肢に全く思い至っていなかったそうだが、その進言により一気に視界が開けた。
監督人事ともなるとさすがに電話で済ませるわけにはいかない。
即、指宿に住む竹山さんのもとへ出向き、一杯酌み交わしながらの正式な依頼となった。
そして、やはり球団創設時からのメンバー磯辺一樹さんと、クラブチームとして正式登録したときのつまり二期生である大内山渡さん、このお二人がコーチとしてサイドを固めた。
レジェンドたる所以
ところで、竹山さんは誰もが認めるドリームウェーブのレジェンド。
それはなぜなのか。
もちろん球団創設当初からの大エース。
そして試合でも結果を残している。
それが大きな理由ではあるが、ではなぜ30代半ばになっても若い選手たちに並んで、いやそれ以上に安定したピッチングができたのか。
聞くと毎朝4時に起きて走っていたとか。
指宿に住む竹山さん、ご家庭や仕事もあるためそう毎回は練習に参加できない。
そのため自主練を日課としていたらしい。
そういえばだいぶ前にお話をお聞きしたとき「ピッチャーは一人で練習できますからね」と言っておられた。
このとき私は「確かに一人でできるけど、やるかというと別の話ですよね」と言った気がする。
私だったら一人ならぜったいにやらない自信があるからなんだが、竹山さんは一人でもストイックに練習を続けていたそうだ。
そしてそれは、私にサラッとお話しくださった数倍の量と質だったのだと思う。
「そんな背中を見せてるから、選手がついてくるよね」
順子マネはそう言った。
そのくらい、レジェンドの背中は大きく包容力があった。
先発の柱と監督業
このころ先発の柱であった松元亨輔さん、もう1人信頼できる投手であった古市さんも、末廣監督と前後して退団。
投手の大黒柱たる竹山さんが監督に専念するわけにはいかない。
選手兼任での監督業が決まった。
「(磯辺)一樹と(大内山)渡がいてくれたから」
竹山さんはそう語る。
「野手は完全に2人に任せられたから、僕は投手の指導に専念すればよかった」
コーチに就任した磯辺さんと大内山さんとの信頼関係は厚い。
竹山監督の目指す野球がどんなものなのか、長年共に闘ってきた中で浸透していたのだろう。
指導陣の一体感は、チームにも一体感と活気をもたらした。
「竹山くんが監督してたころが、いちばん楽しかった」
10年も在籍していた順子マネの言葉に、その充実感が表れていた。
鹿児島の球児たちの受け皿となりたい。
2013年の監督不在の危機に、その想いを止めず歩みを進められたのは、レジェンド竹山さんの男気あってこそだった。