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球団ヒストリー79.出会い、そして

出会い

2014年5月30日。
それは、都市対抗野球二次予選で訪れた沖縄でのことだった。

当時、鹿児島県野球連盟の理事長も兼務していた鹿児島ドリームウェーブの國本正樹球団代表は、現地で開催された九州地区野球連盟の懇親会に参加。

そこで國本代表の隣に座っておられたのが、のちにドリームウェーブの監督を務めていただくことになる内川義久さんだ。

プレイヤーとして企業チームに所属し、都市対抗や日本選手権に出場。引退後は九州の雄であるHONDA熊本の監督を務めるなど、華々しい野球歴をお持ちの内川さん。王貞治氏らと世界中を飛び回り、子供たちの野球教室を行うなど次の世代の育成にも意欲的だった。

JABA九州地区連盟の強化委員でおられた内川さんと國本代表は、九州地区野球連盟の理事会で顔を合わせることはあったものの会話を交わしたのはこのときが初めて。

「HONDA熊本もJR九州も素振りが足りない。だから全国で勝てないんだ」そんな内川さんの言葉を聞いた國本代表は、いたく感銘を受けた。

折しも竹山監督が就任して半年ほど。
このときはチームが団結して結果は出ていたが、元来優しすぎるほど優しい竹山さんは、選手に走り込みなど厳しい練習をさせていなかった。
いや、指導していたのかもしれないが、少なくとも代表から見ると物足りなかった。

「まさかHONDA熊本さえも足りないとおっしゃるとは思わなかった」(國本代表)が、しかしその野球観に魅せられた國本代表は、その場で「よかったら一度チームを見てもらえませんか」と声をかけたという。

その力を借りたい

それはすぐに実現した。
約1か月後の7月5日、内川氏の姿はドリームウエーブの本拠地ともいえる日置市の伊集院球場にあった。
週末夜の練習と翌日のオープン戦を視察、指導。

それを見た國本代表は、その指導手腕に確信を持ったそうだ。

ちょうどそのころ、全日本クラブ選手権で一次予選敗退。
春の都市対抗予選とは打って変わって、チームは勢いを失っていた。

やはり内川さんの力が必要だと痛感した國本代表は、2度に渡って竹山監督と会食し相談。
県外に住まう内川さんに、週末のみ通いでの臨時コーチか、または総監督としてのオファーをすることとなった。

なぜ「総監督」案が出たのか

当初は週末のみの臨時コーチ案が有力だった。

しかし内川さんは強豪HONDA熊本で監督を務めたほどの人物。
それまで通り竹山監督が現場の指揮を執り、内川さんには時々鹿児島を訪れ「総監督」という立場で竹山監督とともにチームを導いていただく。それが理想的だと思われた。

日本野球連盟の競技力強化委員であり、当時はまだHONDA熊本の社員でもあった内川さんに指導をお願いするにはそれが最善と考えたことももちろんだが、もう一つ理由があった。

前年、勇退を決めた末廣監督の後任が決まらず困り果てていたところに、自ら監督に名乗り出てくださった竹山さん。
ここで内川さんに監督をお願いすると、必然的に竹山さんが監督を退くこととなる。そしてそれは退団を意味するとも思われた。

つまり、形の上では竹山さんを1年でクビにすることになってしまう。

「あの苦しい状況を救ってくれた竹山に、それはしたくなかったんだよね」
内川氏総監督案の裏には、國本代表のそんな強い思いがあった。

私は『監督』です

ところが、内川さんに正式オファーを出したところ「やるとするなら、私は監督です」。
そう、『監督』という立場に強いこだわりをお持ちだった。

ところで、これは全くの偶然だが、このころは内川さんのHONDA熊本の定年退職の時期と重なっていた。

引き受けるとするならば、鹿児島に移住して監督として本腰を入れるとのこと。そうでなければ受けないという意思が伝わってきた。

これは嬉しいお気持ちではあるが、ふたつの問題があった。
報酬と、竹山監督の処遇。

鹿児島ドリームウェーブの監督コーチは、無報酬のボランティア。
これは今も昔も変わらない。

かたや内川さんの条件は正当な報酬を受け取ること。
「生活もあるので、昼間はしっかり仕事をします」とのことで、企業に所属してお給料を受け取る形を提案した。

しかしその条件、定年後の再就職の雇用条件としてはかなり破格なものだった。古参のスポンサー企業様方に相談しても「難しいですね…」と眉をひそめるばかり。

しかしこれもまた偶然に、その翌年から新たに選手たちを数人受け入れてくださることになっていた株式会社細山田商事さんで、社員教育担当の顧問の席が空いたところだった。
HONDA熊本でも社員教育を担当しておられた内川さんには、まさにうってつけ。

ほぼ受け入れが決まり、11月、細山田会長との最終面談に臨んだ。
ところがその場でさらに「勤務は週3日でお願いします。夜は練習なので毎日だと体がもたない」と言い出した内川さん。
これには同席していた國本代表も「破談になるかと」冷や汗をかいたという。

さらに厳しい条件になったにもかかわらず、細山田商事さんが受け入れてくださることになった。まさに奇跡。感謝しかない。

こうした中で、内々定の状態の10月、内川さんが以前監督を務めていたHONDA熊本のグラウンドをお借りしての合宿を行い、チームとの本格的な交流をスタート。

11月末には引っ越し、監督就任の発表は翌2015年の1月15日の記者会見の席を予定していた。

ところで、竹山監督は?
そのお話は、また。

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